どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

◎あらためて…国立競技場に「コロナ専門病棟」を! ぼくらが生きる〝新コロ〟後の〝新来〟社会(2)

-No.2677-
★2021年01月19日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3603日
★延期…オリンピック東京まで → 186日
★旧暦12月07日(月齢5.9)

安野光雅さん(1926生、行年94)が昨年末に亡くなった。活躍分野は異なるのだけれど、ぼくたち戦後すぐ世代にとっては1970~80年代の頃、横尾忠則(1936生)の〝ポップ〟と安野光雅の〝癒し〟は自然の湯舟。ぼくらはその間を揺ら揺らさせてもらった…いい時代をありがとう…合掌}

※次回は、1月22日(金)の予定です※




◆「医療崩壊!?」してないでしょ…の声

 「週刊新潮」1月21日号(14日発売)の目玉記事。
 『医療崩壊はしていない ~「神の手」外科医が訴える「コロナの真実」~』
 これは、
 『「菅官邸」崩壊! ~▶「言葉なき宰相」コロナに倒れる▶吹き荒れ始めた「菅おろし」▶「安倍・麻生」主導で解散総選挙の顔は…~』
 『-「演出された医療逼迫」で男優賞を贈りたい!- 「悲壮の仮面」の裏で「コロナ患者」を受け入れない〝顔役〟 ~▶総理を追い込んだ「中川俊男・医師会会長」は開業医の利益代表」▶「尾身茂会長」傘下病院の「コロナ病床」はこんなに少ない!~』
 とセットで、『「コロナ」本当の敵』特集を構成したものでした。

 いまここに、特集記事タイトルを詳細にお見せしたワケは、これを一読しただけで記事内容まで、おおよそは知れるから。
 そのうえで、「神の手」外科医が訴える「医療崩壊はしていない」の記事内容を考察してみます。

 発言者は、大木隆生(58)さん。〝神の手〟とも呼ばれる血管外科の第一人者で、東京慈恵会医科大学(港区西新橋)外科統括責任者、兼、対コロナ院長特別補佐。アルバートアインシュタイン大学(アメリカ)の外科教授でもあります。

◆「ファクターX」がなんであれモンゴリアンは「新コロ」につよい

 大木さんも当初は、新型コロナの感染に警鐘を鳴らし、慈恵医大でもコロナ患者の受け入れに万全の備えを整え待機したそうです。
 ところが、ことは予測に反して、一向に、中国武漢さらには欧米諸国のようにはならず。
 どうやら日本など東アジア人、「モンゴリアン」は「新コロ」につよい…らしいことがわかってきて、その「ファクターX」がナニかはともかく、「ここは医療体制を強化して新コロとの共生(ゼロリスクは無理)を図るべき」と、方針転換しました。

 この「医療体制の強化がだいじ」には、ぼくも同意です。
 「ファクターX」がナンであれ、人口10万人あたりの感染者数や死者数が、欧米にくらべて極端に少ない(約50分の1以下)のは確かだし。
 (ちなみに1月15日現在、世界の新型コロナ死者200万人を超えるなかで日本での死者はケタ違いに少ない4,420人)

 「PCR検査の徹底」にも異論なし…ですが。
 こちらの場合には、検査対象に違いあり。大木さんが「医療や高齢者施設の従事者に定期的な検査を」すべしと言う、のに対して、ぼくは「国民にもできるかぎり早く広く」もとめたい。
 つまり、医療関係者である大木さんは「新コロ医療充実の立場から従事者確保のため」であり、ぼくは「長期にわたる新コロ対応疲労からくるストレス軽減(いうまでもなく後の経済)のためにも国民〝健保(安保)〟がだいじ」と思うからです。

 思えば国内で「新コロ」感染がはじまったときからずっと、日本政府は厚労省を軸に「積極的なPCR検査」を、まるで毛嫌いでもするかのごとくに避けつづけてきました。理由をあげればいろいろと要因がある…のでしょうが、それにしてもこの「冷たい」としか言いようのなさは、あまりに〝異様〟です。

 昨年末に民間の「PCR検査センター」ができて予約殺到の事態になっても、政府は冷ややかな態度を隠しませんでした…が、これこそ政府が万難を廃しても、前非を詫びて率先遂行すべきことでした。

 いまになって想えば…
 あの、国のリーダーとしての発言には、まるで味わいというものがなかった安倍前首相のコトバで唯一、印象にのこるものがあったのは、「〝目詰まり〟があって日本のPCR検査体制の拡充が遅れた」事実を認めたときだけでした。

 そうして…
 これがどうも「PCR検査」のみにはとどまらない、どうやら日本の医療体制全体におよぶ問題であるらしいことを、ぼくたちはヒシヒシと感じはじめています。



◆「医療体制の受け皿を大きく」して「医療崩壊」を防ぐ

 大木さんの主張はソコに尽きます。これにもボクは同意です。
 その主張の根幹は「医療の定義」にある、「医療崩壊」とはどういう状態を指すのかにある、と。
 大木さんの定義する「医療崩壊」は、「救える命が救えなくなったとき(命の選別=トリアージがおこったとき)」と明快。
 一方、いますでに「医療崩壊」の危機、「医療壊滅」を防ごうと訴える日本医師会中川俊男会長の定義は「適切な医療が適切なタイミングで受けられなくなったとき」で、これは違うと大木さんは言う。

 たしかに、中川日本医師会長の定義にも頷けるところはあるようにも思えますが、〈崩壊・壊滅〉といった非常事態のとらえ方としては、やはり曖昧。緩い解釈(言い訳)の余地をのこしてる感、否めません。

◆〝救命〟に直結するICU(集中治療室)

 これなら、素人知識にも心得があります。
「重症化した患者が最終的にICUに入ることができ、人口呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)が使えれば、救える命が救えない医療崩壊の事態は防げる、つまり、死者を極力減らすことはできる」
 と主張する大木さんは、「ICU使用率(50%目安)を指標に」と訴えます。

 じつは、ぼくたち一般庶民も、世界一といわれる日本のベッド数と新コロ患者用ベッド数との乖離の余りの大きさ、そして、なかでも「逼迫」を叫ばれる重症患者用ベッドの少なさには、声を呑んで不安に怯えるほかありませんでした。
 (ホンマかいな!?)(ナニかワケがあるんじゃないのか!?)と…

 以下、大木さんの指摘を数値にして見ると。
 東京都内の、ICUベッド250床に対して使用率129で50%超え(1月10日現在)。
 けれども、この公表されている数値がすべてではなくて。じつは、HCU(準集中治療管理室)もあわせると2,045床ある(全国レベルなら、なんと1万7,377!)。
 もちろん、そのすべてが直ぐに使えるわけではない事情も理解した上で、それでもこの数値なら、少なくとも、とりあえずはホッと胸を撫でおろすことができる。
 
 「これだけあるICUベッド数を、どうしたら活かせるか…を考えるべきだ」と、大木さんは言うわけです。ぼくは同意します。

 日本医師会側の頭には、庶民の緩んだ警戒感をここで締め直しておきたい意向が働いているのでしょう…それは理解できます。でもね…
 この「新コロ」禍で加速した経済格差(弱者の窮迫)もふくめて、危機感まるでないかの如く振る舞う連中、ほんとにビビらせなけりゃいけない相手がチガウ。
 真の敵は、それこそ、まるで〝上級国民〟気どりの政府・議会スジでしょうが!

◆「人間ドック」は〝不急〟じゃないのか…

 こんどの「新コロ」禍で、ぼくたち庶民の「病院ベッド数」に対する認識も、おかげさまで大いに改められました。
 まさか、東京都だけでも10万6,240床もあるという病院ベッドの統計数に、リハビリ用などまで含まれていようとは、思ってもいませんでした(つまり、勝手に別計算なんだろうと思ってましたネ、ぼくなんかは…)。

 大木さんに指摘されるまでもなく、東京都の場合で「新コロ」用に提供されていないICU1,900床余がどうなっているのか、気になるとろです。
 ぼくたちは、これまでずっと、「新コロ」禍のために、ほかの疾患による大きなリスクを抱えた患者の、手術さえ控えなければならないほどの状況が現実だ…とばかり、伝えられてきました。

 実際、現実には、そのように真摯に運営されてきた医療機関が多いのは確かでしょう。が…どうもなかには(なかなか、そうでない)ケースが散見されるのも、どうやら事実らしい。

 いま、このときに「〝不急〟医療といえる、その最たるものが〈健康診断〉と〈人間ドック〉」だと、大木さんは指摘します。
 もちろん、どちらも、すぐにICUに直結する医療行為ではないかも知れない…けれども。ゲンジツに「都内の大半の急性期病院(24時間 体制 で高度な医療行為を行う救急病院)は人間ドックをやっていて、やめた病院を知りません」と、大木さんは言います。
 これは、どういうことでしょう?

◆「自宅〈療養〉は〈放置〉」の状態から「リセットして蘇る」

 「非常事態宣言を医療にも」
 との声も、庶民の間に日々、高まりつつあります。
 大木さんも、まさに、そこを指摘します。

 いま、そこにある医療問題の重大ファクター
 第1は、担当分野による現場格差でしょう。

 これだけ「新コロ」禍の〝緊急事態“が叫ばれながらも、じつは、帰宅もままならないほどガンバっている医師・看護師というのは、感染症関連の…さらにいえば、なかでも責任をもって重症患者を引き受けてきた病院にかぎられ。
 「逼迫しているのは、わずか数%」「日本国内にICUを完備してコロナ患者受け入れ可能な病院は1,000ほどあっても、そのうち受け入れ実績があるのはわずか310」だというのです。
 くわえて新型コロナ診療そのものが、けっして専門医にしかできないものではなく、基本、医者であれば担当科にかかわらず参画できる。
 それには、制度(感染症法)の運用改訂さえあればいい、と。

 これまた、ぼくの実感とチガイません。
 東京都の町田市に住むボクは、お隣り神奈川県相模原市北里大学病院に、心臓疾患の継続診療でお世話になっており。つい先日も通院してきましたけれど、コロナ患者もこれまで重症者は受け入れてこなかったせいでしょうか、院内の雰囲気にこれといった変化は見られず、その〝医療逼迫〟現場の映像とはくらべものにならない隔絶感に、じつのところ愕然たる思いでした。

 そうして、「コロナ診療は報酬(稼ぎ)にならないばかりか、不利(赤字覚悟)でしかないのネ」という現実に、ドンと正面衝突するしかありません。
 入院病棟の掲示などに「ベッド稼働率」の数字を見かけることがあり、関係者の話しでは80%が採算ラインとか。
 そこにボクたち患者側は、医者はエリート高所得者というイメージとは別な一面と、もうひとつ、同じコロナ対応でも医師と看護師との所得格差など、厳しい現実を嗅ぎとることになります。

 そうして、いずれにしても。
 「自宅〈療養〉は〈放置〉」にすぎない、いま現在の最悪状態から脱するには、微調整などではとても間に合わない、思いきった「リセット」でしか蘇れない…という事実です。 

 つまるところ…
 医療問題の重大ファクター第2は、これしかない。
 

◆現場の費用対効果と医療制度の根こそぎ(抜本)改革

 いま現在、日本医療の「新コロ」対応の〝弱点〟も〝欠陥〟もハッキリしてます。
 〝弱点〟は、国公立病院にしても、民間病院にしても、コロナ患者を受け入れれば医療体制に無理や歪〔ひず〕みが生じ、民間の場合には大赤字というキビシイ経営問題もおきる。

 大木さんも、「民間病院は経済的なインセンティブ(報償金)で導き、経営トップが政府筋や自治体の長である公的病院は政治力で動かす」必要がある、と指摘します。
 そのとおりに、ぼくも思います。
 キッチリそう思いきれば、方策をうつ手はいくらでもあるはず。

 どちらにしても、〝金目〟でケリをつけるしかないわけですが。
 どちらの場合にも、高いハードルとなっている決定的な〝欠陥〟があります。

 それは、充分な医療効果を上げるのに、いまの「新コロ」×「一般」病床混在の状態では〝効率〟がワルすぎる、ということです。

 コレしかない!
 最上の方法は、いうまでもない「新コロ専用病院・病棟」をつくること。



◆国立競技場にコロナ専用病棟を!

 東京都は13日になってやっと、都立広尾病院(渋谷区)、公社豊島病院(板橋区)、公社荏原病院(大田区)を、実質的な「コロナ専用病院」にする方針を示しました。
 これで、これまでに受け入れてきた実績とあわせ、重症者計約25人を含む計約700人の受け入れが可能になったわけで。スムースな移行が進むことを祈らずにはいられませんが…。
 それにしても、これでも重症者ベッドは25にすぎない。

 入院待機や、「自宅〈療養〉=〈放置〉」状態にある患者の数を考えれば、とてもたりません。

 あとは、もう「コロナ専門病院・病棟」の新設しかありません。
 前に、中国武漢の例にならって日本にも「専門病院を!」との声はあったのです、けれども。なぜか、よくよく議論もしないままに「日本では無理」と、結論づけられてしまいました。でもね…

 ほんとに「できない」こと、なのか。
 もういちど蒸し返したいと、ぼくは思う者です。

 国立競技場のフィールドと選手村建物を利活用して、ぜひ「コロナ専用病棟」を。
 あわせて、全国にさきがける「中央PCRセンター」を皇居前広場

 「オリンピックが…」という向きもあるでしょうが。
 もう、すでに、いまの状況での開催は80%以上、国際的にも国内民意としても無理な状況、知れたことです。

 オリ・パラの開催中止は、スポーツ愛のボクにも断腸の想い。万感こめてザンネンです、けれども。
 よ~く考えてほしい。
 人の命よりオリンピックか。人の命あってのちのオリ・パラじゃないのか。

 ウイルスによる感染症は、今後ますます増えていく状況、「地球温暖化」にも劣らないほど深刻なこと…疑いなく。
 「新コロ」禍がおさまったら元どおり…なんて楽観は、てんで甘すぎる。

 想えば…
 これまでの日本は、戦争でしか、国際的に先手や積極策をとったことがなかった。
 なるほど痛手にちがいないけれども、いまこそ勇気をもって「開催中止」の申し出を。その果断をもって逆に、これまでには得られなかった国際的な評価を見直させるチャンスに。
 したいし、しなけらばならない、と思う。

 オリンピックという、ザンネンながら肥大化しすぎてしまったイベントそのものが、これから先、どこであれ無事に開催されつづけていくこと自体が、極めてむずかしいことも明らかです。

 

 



 


 

◎昨年暮れから新年早々までの重大スランプ /   ぼくらが生きる〝新コロ〟後の〝新来〟社会(1)

-No.2673-
★2021年01月15日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3599日
★延期…オリンピック東京まで → 190日
★旧暦12月03日(月齢1.9)
※次回は、1月19日(火)の予定です※




◆それは暮れの12月中頃からはじまった…

 こんどのスランプは長かったし、心にも身にもヒドく応えた。
 いうまでもない「新コロ」の所為…それよりも、このウイルスに対する世界的な人間社会の、ブザマにとち狂った対応ぶり。それに否応なしに巻きこまれてしまっている吾が身の不甲斐なさ…の所為だった。

 「新コロ」対応・対策では、台湾(中華民国)やニュージーランドなど、わずかな国をのぞいて、てんでなっちゃいなかった。
 後進国発展途上国ならまだしも、先進国とされる諸国もまるでダメ。
 ニッポンにいたっては…いまだに真因は不明ながらその存在たしからしい「ファクターX」(ありゃ、いったい、どうなったんですかネ)を切り札に感染を抑止する…ことさえもできない始末…ザマぁない。

 こちとら、さんざ言われつづけてきた「重症化リスク」たかい高齢者・既往症疾患もちとしては、逼迫してきたベッド事情を思って気をつけ、気を張りつづけてきてるのに、そりゃナイだろう、ヒドすぎるんじゃないのか。
 まるで先が見えない「新コロ」五里霧中、「スランプ・トンネル」出口なしじゃ、イヤでも窒息マイっちまう。

 そんな予感は、感染拡大第3波と思われる〈うねり〉、高どまり傾向がつづいた11月あたりからあった。
 それにしても、しかし…
 昨冬の第1波をなんとかやりすごした後、いずれ第2波・3波が予想されていながら、それまでの間に、足りなかった備えをしておくはずだった行政サイドは、いったいナニをしていたのか。危機意識はドコへ消えていたのか。

 振り返っておきたい…

◆11月24日(火)No.2621記事

〝頑爺(ガンジー)〟どこ行く、このコロナ禍/ジョーダンじゃなくなって師走ちかづく
blog.hatena.ne.jp

 このとき、ぼくは、〝不要不急〟とは別ごと。父母の回忌法要を、(次の感染拡大する前に…と)11月22日の日曜日(3連休の中日)に予定して、坊様にお願い、集まってもらう親族にも通知しておいた…のが10月中旬のこと。

 それが、その後、アレよアレよという間に状況悪化の一途をたどって(でも…いまから思えば東京都の新規感染者数まだ500人超え程度であった)、ついに法事中止の段取りを踏なざるをえないことになった。

 そんな状況下にありながら行政サイドでは、政権vs東京都、あるいは愛知県vs名古屋市のような、庶民そっちのけの責任押し付け合い、綱引きがつづくばかりの間に。
 ぼくは部屋の窓から射す冬の陽だまり、微塵の浮遊するなかに〝「新コロ」ウイルス舞踊団〟の姿を垣間見ていた。

 でも、それでもまだスキあり…だったか。
 このときには、あくまでも我ら吾が道を往く心づもりで年末年始を迎え、箱根駅伝往路ゴール迎えを兼ねて、箱根神社に恒例の初詣を予定していた。

 …のに、それらすべてが、ご破算。
 ぼくたちは、ついに前途暗澹たる想いの越年を覚悟するに至った。のだが、これはもう直近のことだから、みなさんにも確かな記憶がおありだろう。

 そうして、このブログ… 
 12月23日(水)から1月14日(木)まで、いただいた〈年越し休み〉を、ほとんど返上するような思いで25日、ぼくなりの〝緊急〟メッセージお届けしたときには、ほんと、もうギリギリにところに来ていたのだった。

 もう、かさねて申しあげるまでもない。
 以下、過去記事を再読していただいてから、話しを先に進めたい。

◆12月25日(金)No.2652記事

「新コロ」禍ニッポン「きみへの伝言」
blog.hatena.ne.jp

 12月21・22の両日に、医療従事者たちから「医療体制および病床、逼迫!」の悲鳴があがった。まさにそのときこそ、(万が一に備えて準備は進めてきている)政府は、思いきった決断をもって即応、すべきであった。

 「なんとか経済を保たせる」とか「感染抑止と経済活動と(ブレーキとアクセルを同時に踏む)」とかの、世迷言はもう通用しないところへきてしまっていた。
 はじめから、「経済と感染阻止と」は同時に(同じ土俵で)語れるものではなかった。

 ニッポンの医療体制という根本的な大問題は、いずれ、あらためて国民的大議論をするとして。いまは「感染阻止」以外のことを考えている場合ではない。

 若者たちが「新コロ」ウイルスを運んでまわり、感染させられた高齢者(+基礎疾患をもつ者)が重症化して死に至る。この構図は、どこの国でも共通しているのだから、感染阻止には結局〝人の流れ(交渉)を絶つ〟しかない。
 みんな、もう、すでに充分に知れたことだ。

 にもかかわらず、わが「ガースー」総理は(なんとかならないか…のカミ頼みばっかり)〝天の声〟を無下に無視して、姑息なひきのばし作戦〈洞ヶ峠〉きめこんだ。
 政府から諮問をもとめられた分科会の専門家先生たちほかも、そんな政府の〈腹の底〉が知れていながら、「命だいいち」の砦(拠りどころ)をついに守りきれなかった。あとは略す…

 結局、「1都3県に(ナマヌルい)緊急事態宣言」の発出は、最悪タイミングの年明け早々になった。
 ときを同じくしてノーガード・ニッポンは、あわせて痛烈な〝トリプル・パンチ〟をチン(顎)に叩きこまれる。
 それすなわち、国内では「日本海側を襲った大雪被害」であり、太平洋の向こうの対岸アメリカでは、「現職大統領が議会占拠を扇動」という暴挙と失態であった。

 とくにアメリカの重すぎる疾病は、資本主義の重症&民主主義の重態。
 この局面に臨むニッポンの現政権(前政権と〝同行二人〟)は、あまりにも心もとなく、危なっかしすぎる。
     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 ぼくが12月25日の「伝言」を書いたとき。じつは…
 こんども、また(早すぎたかナ)の想いがあった。
 ……ワカッテる……
 ぼくには、たしかに〈シンパイ過敏〉の気味がある。

 だから、ますます〈重大スランプ〉だったわけだ…けれども。
 年明けの〈世論調査〉報道で(早すぎはしなかった)ことを知った。
 これまでにも、想えば間々あった「遠い声、近い息」でヨカッタ。

 ぼくたちも遅かった…けれど、もう道をマチガうことはないだろう。
 すべては「新コロ」感染阻止してから…のことだ!



ACジャパン公共広告機構)のパワーが欲しい

 上記のような経過を経て…ぼくがようやく、こんどの「重大スランプ」から脱することができたのは、年始の3連休(おしまいが成人の日)後。
 やっとのことで、再起のエンジン始動できた。

「どうして、こんどは動いてくれないんだろネ」
 今朝の食卓で、わが「頑婆(ガンバー)」がつぶやいた。
 ACジャパンの〝公共広告〟である。

 ぼくは、去年春の「緊急事態宣言」のときにも、ぜひ〝力添え〟の放送をしてほしいと願った。
 民間の組織だから、政府からお願いする…というわけにもいかない、のであろう。が、メッセージ性に欠ける(覚悟が伝わらない)ニッポンの政治家まかせでは、どうにもならない。

 10年前「東日本大震災」のときを、想い出してほしい。
 あのとき、ふだんとはまったく別世界のコマーシャル放送、ACジャパンの公共広告がどれほどの力を発揮し、ずば抜けた波及効果をもっていたことか!
 日ごろテレビを観ないとされる若者たちの間にも、それは確実に伝わって「ワン・チーム」のパワーを発揮できたではないか。

 それとも…
 いまは、そのときに匹敵するほど〝難局〟ではない…とでも言うのだろうか。

◆「緊急事態宣言」はすでに全国区!

 事態は、その後さらに進行して。
 1月13日(水)には、「緊急宣言」に7府県(大阪府京都府兵庫県・愛知県・岐阜県・栃木県・福岡県)が加えられ。
 このとき政府筋からは「(宣言に追加は、これが)最後の船」と、苦しまぎれの声さえかかったということだ、けれども…ナニ国民の認識するところは、すでに「宣言は全国区」である。
 政府筋には、この最後のチャンスに、せめて「国民との時刻あわせ」をしておいてほしいものだ。

 時を同じくして発売(14日)された「週刊新潮」1月21日号には、『医療崩壊はしていない ~「神の手」外科医が訴える「コロナの真実」~』の記事が載った。
 ぼくにとっても、コロナ対策の医療事情は喫緊の関心事、週刊誌にひさしぶりのアタリ(手応え)を感じとったボクは、早速に買って熟読した。

 次回は、その話しをしたいと思う。




 

◎たっぷり極上の出汁で迎えた新年 /       ぼくらが生きる〝新コロ〟後の〝新来〟社会(5)

-No.2687-
★2021年01月29日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3613日
★延期…オリンピック東京まで → 176日
★旧暦12月17日(月齢15.9)
※次回は、2月2日(火)の予定です※






した…◆前回は「楽らく出汁」、今回は「本格出汁」

 わが家の2021新年迎え、ぼくは丹念に心をこめて「出汁」をひいた。
 極上の出汁は、「口福」と「健康」を意識したものにちがいない。
 でも、いまはこれが例年のことで、別に「とびきり」じゃあない。

 ただ、想えば…うちの正月迎えが〈さま変わり〉した、〈区切りのとき〉というのは確かにあった。あれから…どれくらいになるだろう。

 母が亡くなってから10年くらいまでは、それでもなんとか〈わが家〉風、重箱に年越しの「おせち」料理を詰め替えて、三ヶ日くらいは〈らしく演出〉をこころみ。また、それなりに〈らしい華やぎ〉を感じたりもしていた…ものだったけれど。
 
 年始に来客を迎えることもなくなってくると、気の抜けるような世の中の変化を身近に感じ。よくよく想いみれば、子どもの頃に味わったほどの〈ハレの日〉感、すでにいまどきの正月にはなかった。
 正月料理といったところで、いまはもう、どこの家庭だってきっと、ふだんの豪華版の方がずっと上。〈ハレの日〉だって名目あれこれ、倍々ゲームで増える一方。

 それに正月料理というのが、そもそも家庭の事情からいえば、勝手向き(台所)をあずかる主婦の労を、年に一度はいたわろう…の気くばりごとで。
 それを、歳神迎えのときに重ねることになった、にすぎない。

 ならば、いっそ、正月迎えは家事一切を離れたほうがよかろう、というので。
 いまふうに思いきったボクは、母の晩年の10年ほどを、親戚筋にも声をかけ誘って〈年越しツアー〉を挙行したこともあった。

 その後あたりから、正月迎えの〈しつらえ〉が変わった、わが家。
 いまでは重箱の出番もなくなって、〈家伝〉といえるものは雑煮くらい。
 関東ふう切り餅の雑煮は、小松菜のお浸しに鳴門巻のひと切れが色を添える程度の、シンプル一番。

 したがって、うっすら醤油味の「おすまし」仕立ては、「出汁」が命になる…いってみれば自然のなりゆき。
 その〈出汁をひく〉ことがいまでは、ぼくの〈年越し仕事〉に定着している。





◆わが家の定番年始料理

 いまは「おせち」も、彩りもの。仏壇にもテーブルにも、小皿にわけて供する。
 メインの「雑煮」のほかには、三ヶ日から4~5日はもつように準備しておく料理。「おでん」に「筑前煮」くらいがあれば、わずらわしい手間もかけずにすむ。

 その「雑煮」と「おでん」に、たっぷり「出汁」が要ります。
 だって、どっちも「出汁」で食するようなもの、ですから。

 たっぷりの正月用に「ひく」、「出汁」は5~6㍑の鍋に2つ。
 材料(分量)の目安は、ざっと水1㍑につき、昆布10~15cm、かつお厚削り20~25gくらい
 パックものなら袋の内容量表示から見当をつければいいし、基本はケチらずに多め多めにすればいい。
 なぜなら出汁は〈濃かったら薄めればすむ〉ものだから。たりない分を補うよりずっとマシ。

【ひき方】
➀1日目・水出汁 朝。大鍋に分量の水を満たし、カットした昆布を入れて、そのまま1昼夜置く。
➁2日目・鰹出汁 水出汁の大鍋を中火にかけ、湯気がたってきたら昆布カスをとりのぞく。次に、鰹節・厚削りを加えて、強火にし。煮立ってきたら、沸騰する前に火を止め、カスを丁寧にとりのぞく。
③味つけ 雑煮・おでん共用でいい。酒(1/3カップ)・味醂(1/3カップ)・砂糖(小さじ1/2目安)で下味をつけ、塩(小さじ1目安)で味をきめ、醤油は香りと色付け程度に心がける。
※1 入れすぎると取り返せない調味料は、少しづつ加え。味は濃すぎないよう(舌は濃い味を好みがち)に気をつける。
※2 もし出汁が「もう少しほしい」ときには、前回ご紹介した「牛乳瓶」式の〈楽らく法〉でいけばいい。

◆こうして出汁に潤った新たな年迎えは…

 まず、前段。
 年越し数日前からのテーブルは、北の国の知友から恵送いただいた活ホタテほかの魚介で、近ごろハマっている「アクア・パッツァ」三昧の日々。
 そうして恒例、年越し蕎麦の晦日が明けて…

 迎えた新年。
 3ヶ日とも、おかげさまで関東沿岸部は好天に恵まれ。
 例年どおり、ぼくは元日ニューイヤー駅伝
 2~3日は箱根駅伝に、朝から酔い佳い、気もちよくはすごせたのだけれども。

 世の中は、ひたすら沁み沁み。
 外を通る人の、クシャミも遠慮気味にマスク越し。
 気づまりなこと、このうえなく明け暮れたことで… 

 


  

◎「新コロ」禍ニッポン「きみへの伝言」    / +「新コロ」年越しお休み中……3/23

-No.2652-
★2020年12月25日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3578日
★延期…オリンピック東京まで → 211日
★旧暦11月11日(月齢10.4)



 ψきみへの伝言ψ
 
 ニブカン(鈍感)なのか!?
 ビビッてるのか!?
 アキラメたのか!?
 きっとゼ~ンブだったんだ。わがニッポンの「ガースー」リーダー。

 月曜(21日)に、「医療関係9団体」から「医療の緊急事態宣言」があった。
 火曜(22日)には、かさねて「東京都医師会」から「真剣勝負の3週間」のアピールがあった。
 「ラスト・チャンス」の叫びだった(〝医療〟問題のことは後にしよう)。

 それ(民意・民情)を受けたら、国からの「緊急事態宣言」は23日にもなきゃウソだった。
 「遅すぎた」と、「パニックだ」と言われようと、コレを外しちゃ勝負にならん。

 これだけの重大事態、天を仰ぐ民意・民情を、またしてもチビチビ小出しの姑息策にすがるばっかり、ケッカ土足で踏みにじりやがって。
 自助 → 共助 → 公助…だって! 
 その自助共助も力尽きてるのに…公助無策のペケじゃ、もはや頼みにならん。
 吾と吾が同胞はそれぞれに守るしかなし、なんとか生きのびて見せよう…ほかになし。

 天は観てござる、世界も視てござる。
 これで年明け21年、オリンピックもアウト、「ガースー」政権もおしまい。
 マンがイチ、僥倖が助け舟をだしたって、泥舟の先は知れてる。

 与党は、活きのいいヤツを立てて、もち直せるのか。
 野党は、政権を奪う準備はできてるか(〝アベの桜〟は本丸じゃない)。

 キミやボクたち、踏みつけにされた民意・民情は、この凍える冬を…
 山姥の荒れ小屋、囲炉裏火のそばで、山刀の刃を鋭く研いで耐える…

       ☆       ☆       ☆     
  
1月14日(木)までオヤスミいただいて、15日(金)からの再開になります。再開後は気分一新、しっかり負けない心がまえで「頑爺(ガンジー)が感じる、ぼくらが生きる〝新コロ〟後の社会」(仮題)を随時、掲載していきたいと思います。どうぞ良い「Whole rest」を!

※大都市東京の〝滅びの美〟と〝再生への足がかり〟を観る…国立新美術館「MANGA都市TOKYO」展

-No.2649-
★2020年12月22日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3575日
★延期…オリンピック東京まで → 214日
★旧暦11月08日(月齢7.4)






◆乃木坂…国立新美術館

 ひさしぶりの「新美」。
 ぼくは、この美術館のアーティスティックなガラス窓の在り方がスキだ。
 そうして、最寄りの駅はほとんど〈接続〉といっていい「乃木坂」駅(地下鉄・千代田線)なのだけれど。ぼくが好むのは、いま現在の雑駁きわまりない世相そのまま、六本木の街をしばらく歩いての訪れ。その方が余韻があって、気分をきりかえて集中しやすい。

 ぼくが美術館を訪れるのは、もっぱらタイミング次第で。
 こころ惹かれる企画というか、どっぷり浸りたい展覧にドンピシャで出逢ってしまったときのシアワセな「ありがと!」感といったらない。
 それは、前にも話したとおり。

 こんどの企画も、新聞の文化欄に載った紹介記事に、添えられてあった1枚の写真が、つよい磁力でひきつけてきた。
 タイトルの「MANGA都市TOKYO」展…だけだったら、たぶん、ぼくは観に行っていない。
 
 …では、なぜ、惹きつけられたのか。
 この企画展には、1000分の1スケール、都心部から湾岸部にかけての東京の都市模型が、その〝舞台〟装置を明らかにする目的で展示されている…と知れたからである。

 「MANGA都市TOKYO」展の企画趣旨は、日本の〈マンガ・アニメ・ゲーム・特撮〉の〝舞台〟となったメガ都市としての東京と、コミック・メディアとの関係性とを見つめなおそう…というもの。
 壁面には『新世紀エヴァンゲリオン』や『帝都物語』、『あしたのジョー』『佐武と市捕物控』『はいからさんが通る』『リバーズ・エッジ』ほか、時代ごとの代表作90タイトル500点以上の原画を展示。
 奥のスクリーンには特撮『ゴジラ』やアニメ『AKIRA』ほかの映像が次々に映し出される。
 その中心床に、17×22㍍の巨大都市模型が〝舞台〟を一望して魅せる仕掛け…。

 これ、じつは、18年にパリで開催され大人気を博した展覧会の凱旋企画と知って、ナルホドと思った。日本発のサブ・カルチャーはいまや、メインカルチャーなんかより、だんぜん刺激的である。それは、じつによくワカル。

 ぼくも、〈活字離れマンガ世代〉のハシリに生まれているのだけれど、漫画本は買ってもらえず、ぼくも活字を読むのがスキになったので、ついにアニメほどにはマンガに親しまず(愛読したのは長じて後の「ビッグ・コミック」くらい)にきた。
 したがって、いまでも絵解き記事など読み解くのは苦手。

 だからボクは、この展覧会では、そのほとんどの時間をメイン・スペースの「MANGA都市TOKYO」〝舞台〟模型の眺めに集中してすごした。
 ただ、集中は長つづきしないから、ときどきに原画の展示や映像展示に目をやることもあったが、それもほんの息抜きの程度。少しも記憶にはのこっていない。
 じぶんでも〈展覧会の客〉としては〝異質〟かに思えて…しかし…観覧客の方を注意してみたらアンガイ、ぼくみたいな者が多いことが知れてホッとした。
 どんな観方をしても自由なのが展覧会なのだから…。

 ぼくが、メトロポリス東京に抱く興味の主体は〝滅びの美〟にある。
 しかもそれは、かならずしもマイナーなイメージではない。〝滅び〟の先には〝再生〟の芽吹きを予感させるものが胚胎されているから、その胎動も感じられる。
 ただ、〝滅び〟を予感される大都市には〝危うい脆さ〟が必然。〝滅びの美〟に〝危うい脆さ〟は付き物といっていい。

 花魁〔おいらん〕に代表される江戸、元禄の頃を〝滅び〟の華〈爛熟期〉とすれば、いまの東京は〈腐爛期〉に違いなく、それは同時に再生への〈孵卵期〉ともいえる。

 アメリカのニューヨーク、フランスのパリ、イギリスのロンドンも、みな同じ。外見(うわべ)はタワー・ビル群や華美なファッションで飾られていても、裸にして見れば低平な氾濫原の〈やせっぽ地〉、かつてのヒトにとっては〈とどまることキ(危険)〉の場所だった。

 ぼくは、そんな〝滅びの美〟を、この大東京から探し出しておきたいと願う者。それには飾りを剝ぎとり、このメガ都市を裸にして捉える必要がある。

 そのための重要な手だてが「俯瞰」あるいは「鳥瞰」で、これによって些細な細事が捨象され裸の本質が透けてくる。
 だからボクは、高みの見物を好む。




 この展覧会場にも、同じ視点が見られた……
 「MANGA都市TOKYO」展、メイン舞台の巨大都市模型であった。
 彩色を省いた白い街からは、細かい凹凸が捨象されて、スカイツリーと東京タワーの突出と、あとは新宿副都心と丸ノ内界隈ほかいくつかの高層ビル群を除くと、そこに広がっているのは、東北弁で言うただひたすらに「ぺったらこい(平たい)」世界。

 ぼくは、さきの大戦でアメリカ軍によって広島・長崎に投下された「原爆」、その狙いが当初は(いうまでもない)東京にあったことを思い出していた。
 (原爆の効果のほどを検証するのに、これほど格好な標的はなかったろう…)
 慄然と…そうナットクできる。 
 そうして結局は、その予想される、余りにも大きすぎる惨禍が、ついにはアメリカ軍の実行を思いとどまらせたことも…。

 東京は、そういう大都市であった。
 …ということは、「洪水」にも見舞われやすい土地、ということになる。
 「水の流れ」に意志があったら、水浸しにしたい魅惑の低平地、格好の標的にチガイない。

 ぼくは、あらためて平野(氾濫原)に開けた都市の真実を確かめた気がした。
 そうして、そこに見いだされるはずの〝滅びの美〟の糸口も、水路=澪すじに見いだされるはずだということも。
 したがって、再生への「足がかり」もまた、水路=澪すじにをおいてほかにない。
 
 このことを確かめられただけでも、この企画展の観覧料は安いものだった。

 
 
 
 

※シロナガスクジラがシャチに殺られる! /    驚異の海棲哺乳類の世界

-No.2712
★2021年02月23日(火曜日、天皇誕生日
★11.3.11フクシマから →3638日
★延期…オリンピック東京まで → 151
★旧暦1月8日(月齢7.3)
※次回は、2月26日(金)の予定です※





◆「マッコウ」が「シロナガス」に変貌

 メルヴィルの『白鯨』に出逢ったのは、あれはたしか、小学校の高学年。
 …といっても、原作はなにしろ難解で知られる長編大作小説のこと、ぼくが図書室から借り出して読んだ本は、児童向けにアレンジされた普及版だったのだろう(もう記憶もオボロ・ボロ・ボロ…)。

 アメリカの捕鯨船長エイハブが、吾が片脚を喰いちぎった憎っくき白鯨モビィ・ディックを「悪魔の化身」とみなし、復讐心に燃えて報復の死闘を挑む物語で。グレゴリー・ペック主演の同名映画『白鯨』(1956年、ジョン・ヒューストン監督)もあったが、興行的には大失敗。

 その理由もすべて、まるで黒いヴェールをまとったように、ひたすら暗~いお話しにあったわけで。結末も悲劇的、救いのないものだった、にもかかわらず。読む者を肚の底から震えあがらせる魔力を秘めていたのもたしか。
 ただひとり生きのこり、棺桶を改造した救命ブイで漂流の末に救出された乗組員、イシュメイルの語りも呪いのごとく……

 そのせいか、どうかはワカらない、謎なのだけれども。
 なぜか、なにしろ、その後のボクの脳裡には、とんでもない〝どんでん返し〟が待っていたのだ。
 それは、気がつけば、あの白鯨モビィ・ディックが、なんと、いつのまにかマッコウクジラからシロナガスクジラへと、大変身を遂げていたこと。

 白鯨とシロナガスに共通するのは「白いクジラ」ということだけ。
 フシギなのは、そもそも、ハクジラ(マッコウやシャチ、イルカなど)とヒゲクジラ(ナガスやザトウ、ミンクなど)とでは、食性・生態がまるで違う。

 ヒゲクジラ類が、主にプランクトンなど浮遊性の生物を捕食するのに対して。ハクジラ類は魚類やイカ類を捕食、あるいはシャチやイルカのように自身より大型のクジラやアザラシ、ペンギンやサメなどを襲うこともある(だからエイハブ船長の脚をも喰いちぎった!)。

◆大砲でズドンと一発…「捕鯨オリンピック」

 ぼく想うに、これは
 南極海で繰りひろげられた「捕鯨オリンピック」のせいではあるまいか。

 そう、ぼくたち戦後すぐ生まれの少年時代には、「ホエール・ウオッチ」時代のいまからは思いもおよばない、鯨を捕獲(喰うために殺戮)したばかりか、「くじら狩り」の成果を競いあうようなことまで行われていた。

 つまり「よーいドン」で操業を開始、漁獲量の総計が漁獲枠に達したらその時点で「おしまい(終漁)」とする管理法(後には国別割当制)で、これを「オリンピック方式(あるいはダービー方式)」、別名「捕鯨オリンピック」と呼んだ。
 凄まじい!

 ずいぶん無神経な……非道で……残虐な……
 動物保護団体でなくてもマユを顰めるような……
 このオリンピック方式は1959年(昭和34)までつづいて……

 けれども、じつはこれ(第二次世界大戦の)戦前から行われてきたもので、ぼくたちの父母とか祖父母の世代に根づいた、〝伝統〟に近いもの(だからこそ、いまもくじら料理専門店が存在する)だった。

 戦後の食糧難時代に育ったボクたちにとって、鯨肉は貴重なタンパク源。
 その生肉から流れ出る血は、牛・豚(もちろんヒトも含まれる)と同じ哺乳類のもつ色濃さで、魚類の血がもつ淡さとは明らかに異なっていたのだ、けれども。
 あの頃は、そんなことより空腹を満たすことがさき、選り好みのできる状況ではなかった。






 

◆血管の中を人が泳げる

 シロナガスクジラも戦前から捕獲されてきたもので、なにしろ「地球上最大の哺乳類」だから、資源としても超弩級。「捕鯨オリンピック」参加の各国が真っ先駆けて狙う大物、いうまでもなく。

 当時のニュース映画には必ずといっていいほど、捕鯨砲でズドンと一発命中の場面がとりあげられ。大きな母船に引き上げられたその巨体は、甲板から尾が食み出すほどの圧巻。
 なかでも、「大動脈の血管の太さは、なかを人が泳げるほど」というのを聞いて、ぼくは魂消た覚えがある。
 
 その全貌、全長は25~30メートルm余、体重は200㌧に近く、体表は淡灰色と白のまだら模様で、のどから胸にかけては白模様。それが際だって見えることからの命名
 もっとわりやすいスケールで表現すれば、人間の平均身長を170㎝とすると、シロナガスクジラはおよそ、その12~20倍。長さ34mを高さにおきかえると、だいたい11階建てのビルと同じになる。

 もうひとつ、シロナガスクジラに与えられた栄誉は、国際的な「単位」にさえなった経歴をもつ、ということ。
 では、その「シロナガス換算(BWU)」と呼ばれるのは、どんな単位か?
 こたえは「シロナガスクジラから採れる鯨油の量を基準に、捕獲頭数に換算」する、鯨油生産調整のための方式(1932年設定)。例えば、ナガスクジラなら2頭でシロナガス1頭、ザトウクジラなら2.5頭、イワシクジラで6頭…というふうに。

 ちなみに、この話し、水産や鯨類の資料ばかりでなく『はかりきれない世界の単位』(米沢敬著、創元社)という本にも紹介されている。

 けれども、この「大型ほど捕獲効率が良い」ことをあらわす栄誉の単位が、結果、鯨資源の枯渇を招くことになったのは皮肉なことだった。
 
 ともあれ、少年時代のボクにとって。
 こうした「大海原の王者」というイメージが、そのまま「つよさ」に結びついて、「人喰いクジラ」の座をマッコウクジラから奪いとってしまったものらしい。




◆「大海原の王者」を屠るシャチ

 こんなふうに、「大海原の王者」シロナガスクジラは、向かうところ敵なし。
 捕鯨砲で狙い撃ちしてくる人間をのぞけば、天敵はないものとボクは思っていた。
 シロナガスクジラの平均寿命は知らないけれど、長命をまっとうしたあとにのこされているのは自然な死だろうとばかり、思いこんでいた。

 しかし…やっぱり、そんなことは許されない。
 なにものに対しても、ひとしく厳粛なのが自然であった。
  
 人類がウイルス感染症の脅威にさらされていた20年冬、1本のドキュメンタリー・フィルムが、その事実を知らせてくれた。
 
 舞台は、オーストラリアの南西海岸にあるブレマー・ベイ。
 付近の海域は〈海の再生産力〉に恵まれた「豊穣の海」と呼ばれる。

 世界の海洋にはいくつかの、海底の栄養塩ゆたかな深層水を、海水面へとまきあげる〈湧昇流〉というものが存在することを、いまのぼくたちは知っている。

 たとえば、その代表的なものが「進化の島」ガラパゴス付近に湧昇するは「赤道潜流(クロムウェル海流)」であり。またアメリカ西海岸、モントレー湾の海底渓谷から湧き上がる深層水の流れにも、ジャイアントケルプが繁茂する壮大な生命循環の環が形成され、そこにはラッコばかりではない、最終捕食者のイルカやシャチまでが群集する…と。

 オーストラリアのブレマー・ベイも、そんな海域のひとつ。
 「ブレマー峡谷」と呼ばれる海溝が落ちこむ、そこには、南から流入する南極海流があって〈湧昇流〉となり、海溝に降り積もったマリンスノー由来の〈栄養塩〉を海面へと巻き上げ…この働きで「海の砂漠」は一転、豊饒の海に変わる。

 つまり、栄養塩を集める海溝付近の海はプランクトンの発生に恵まれ、これが食物連鎖を進める引き金となって、海の食物連鎖の頂点に立つ大型魚や海棲動物を呼び集める「ホット・スポット」をかたちづくり。
 その最高位にあるシロナガスクジラやアカボウクジラなども参集、これを狙って襲いかかるシャチとの烈しい争闘の舞台にもなるのだ、と。

 (そうか…そだったな)と、ぼくは吾が迂闊を思い知る。
 地球最大の哺乳類はシロナガスクジラだ、けれども、海の最終・最強捕食者にはシャチがいた。
 彼らが、南米の沿岸に棲み暮らすアシカの仲間オタリアを、誤ればみずからの巨体が浜に座礁しかねない危険を冒してまで、巧みな頭脳作戦で狩りをすることも、ぼくたちはすでに知っていたではないか……
 
 シャチたちは「サージ」と呼ばれる、獲物を追い詰める行動が知られている。ときには数家族が合流することでグループ行動をより強力なものにするわけだが。この「サージ」をもってシロナガスクジラを追い詰め、仕留める。
 シロナガスクジラは地球上最大といってもプランクトン食であり、シャチはマッコウクジラと同じ肉食・捕食のハクジラなのであった。
 ぼくは、ほとんど茫然と…シャチの襲撃によってシロナガスの子クジラが血にまみれ、斃されるのを目撃することになった。大きな母クジラにも、吾が子を守ることはついにできなかった…。

 やがて闘いがすむと
 シャチたちが貪った肉のおこぼれはマリンスノーとなって、大量に海底へ降り積もっていく。骨も海底に沈んで、海底の掃除魚や甲殻類、最後はバクテリアによって分解され、莫大な量の有機物に変わるのであった。

 この〈湧昇流ゆたかな海域〉、豊饒の海の舞台をダイナミックに演出する主役はシロナガスクジラではない、シャチなのだった。

 おかげで、ぼくの積年の呪いも溶け、「白鯨」は無事シロナガスからマッコウに帰っていった……

 

※「ごろすけホー」に惹かれて菓子を衝動買い  / 「ビーズ・ラップ」にほっこり和む

-No.2642-
★2020年12月15日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3568日
★延期…オリンピック東京まで → 221日
★旧暦11月01日(月齢0.4)、新月





 

◆「森の賢者」の鳴き声は…

 暗い夜の森で、フクロウとかミミズクが「ごろすけホゥ(ホゥ)」と鳴き、それは「五郎助奉公」とも聞こえる…と言う。
 
 もう昔も昔、まだ幼なかった子どもの頃の話しで…しかし…おかしなもんだ、記憶の襞にジッと時のくるのを待っていたみたいに、フッと思い泛かんできたりする。
 紙芝居の語りかナニか聞いたのだろうか…。ぼくはそれ以来、森のなかの宿の夜など、フクロウの仲間が鳴く音に耳を凝らしてきた。

 ただ、ぼくの知るかぎり、フクロウもミミズクも「ごろすけホゥ」とは鳴かない、ようだ。
 キャンプのテントの、すぐ傍の枝で鳴くのを聞くチャンスもあった…けれど、たしかに「ホゥ」とは聞こえるものの、「五郎助」の方はどうも「思わせぶり」くさい。
 ただ、「ホゥ」と鳴く前に喉声で「ゴロゴロ」する気配には聞き覚えがあるから、その辺からきたものかも知れない…気はしている。

 同じ伝で、フクロウを「森の哲学者」に譬えるのはナットクだが、「森の物知り博士」までいってしまうと、いかにも〈つくり話し〉っぽい。

 それにしても…
 菓子の名に「ごろすけホーホー」と見ただけで、買って食べてみたい気になる…というところが、どうも吾ながら、笑ってしまうしかないオカシナ気分だ。
 「マルセイバターサンド」で知られた、北海道の花模様の紙箱のお菓子屋さん、帯広「六花亭」の通販「おやつ屋さん10月」の広告に、ついノセられてしまったボクだった。

 ヤラレた!…のは、隣に「どんぐりころころ」なんぞがあったから余計、だったかも知れない。
 「ごろすけホーホー」は、カボチャに小豆を加えた餡のお饅頭が、しっとりと焼き上げられており。「どんぐりころころ」は、そっくりに型どられたひと口サイズの最中に、さっぱりクリスピーなモカホワイトチョコが詰まっている。
 しっとり餡こが…(ウマかった!)

 ぼくん家には、「妙ちくりんな」としか言いようのない、バカでっかい食の好みの変化があって…
 〝ベター・ハーフ〟二人そろって、若き日は無類の「酒好き、酒呑み」であり、ことにもボクは民族派左党〟(日本酒党)を自認、甘いものなんざ〈毛嫌い〉して、
「納豆に砂糖」とか「饂飩に餡こ」とかの話しは、耳にするだけでも怖気をふるう…というフウであった。

 それが、いつの間にか。
 想えばもともと両刀づかい(なぜか最中がスキ!)だったカミさんが、総菜の買い物ついでに和菓子を買って帰るようになり。
 「食べるぅ」なんぞと誘われるまま、「お茶」を付きあううちに、「餡こはヤッパ〝漉し餡〟より〝つぶ餡〟でしょう」なんぞと蘊蓄をかたむけるようになり。
 そうなれば、もう、どこの「きんつば」がどうの、そこの「豆大福」がこうの…と吾ながら、かなりうるさい。

 やがて、父親の出自はツブレたとはいえ砂糖問屋であり、餡こにも通じた〝甘党〟もいいとこだったことに、思いいたって(そうか…オレにも甘党の素質はあったんだ!)。
 そういえば…思い出し、そしてハタと気づく。
 じぶんには無用(…と思っていた)だが、家族のためにと。折あらば土産に菓子類を買って帰っていた、あれは、じつは吾が舌にも味あわせたい、下心があってのことだったのだな…と。

 六花亭の通販「おやつ屋さん」は、月替わりメニューで10種類くらいの味が楽しめるようにできている。
 愉しみ…な誘惑はあった、けれど。それでなくても「糖分はひかえるように」と(これは酒類に含まれる分のコト)、かかりつけ医から諭されている身。
 きっと、また、少し間をおいてから手を出すことになるのだろう。





◆「ビーズ・ラップ」

 ぼくは、蜂をスキでもなければ、キライでもない。
 ただ、(ぼくの行動が)マチガって刺された経験はあるので、これはカンベン願いたいだけ。手痛い〈ハチのひと刺し〉を喰らわされたこともない。

 むかしウチの飼い猫だった「ブン」が、やはり蜜蜂の動きと羽音に誘われて〈ちょっかい〉の手を出したために軽い一撃を鼻に喰らい、しばらくは拝むように両手で鼻を擦っていたことがあって。「飼い主に似る」というのは(ほんとうなんだ)と、ナットクさせられたこともある。

 蜜蜂の集める「花蜜」の味わいゆたかな甘さは、まさに「テイスト・オブ・ハニー」だし。蜂の巣の正確な六角形には、驚嘆あるのみ。木材に穿孔営巣する(穴を開けて巣をつくる)クマ(ン)バチに、窓の戸袋を狙い撃ちされるのには閉口するけれど、恨むほどのこともない。

 それどころか。
 「ねこの額ファーム」を耕すボクは、作物の受粉を助てくれる蜂の激減に、深刻になるばかりの環境破壊を痛感させられる日々。

 蜂たちからは、蜜をいただくばかりでない。
 蜂の巣から採れる〈蜜蝋〉ワックスの重宝も享受、手づくりキャンドルまでさせてもらっている。

 そこへ、同じ〈ミツロウ〉を原料に、オーガニック・コットンとのコラボで作られた「ビーズ・ラップ」が、わが家キッチン・シーンに新顔参加。
 これは、〈プラごみ〉問題への対処を想うにつけ、前から気になっていたのを、通販アイテムに見つけたのを幸い、購入したものだ。

 いうまでもない、これは「繰り返し使える天然素材のエコ・ラップ」。
 アメリカのバーモント州からやってきた(ほんとアメリカってのはナニかと不思議の国!)。
 ミツロウの匂い(だんだんに薄くなっていく)はあるものの、使い捨てのプラスチック樹脂製のラップのように、環境汚染の心配もなく(自然分解する…なお、ちなみにわが家ではプラスチック・ラップでもなるべく水洗い・再利用をこころがけている)、こころおきなく食品や容器をラッピングできる。

 手で暖めれば柔らかくなって、ぴったりフィットのすぐれものだ、けれど。
 これには自然素材ゆえの、いくつか注意すべきことはあって。
 ひとつには、天然のすぐれた抗菌作用と保湿効果のもと、ミツロウおよびホホバオイルが、熱には弱いため、食洗器やレンジ、冷凍はダメ。火気や直射日光もバツ
 もうひとつには、水洗い(食器用洗剤は使用可)で乾かして再利用するので、生肉や生魚や油分の多い食材には使えない。
 
 もうひとつ
 これはメーカーの注意書きになかったのだけれど。
 使用後、ラップをはがしたあとの容器の縁に、ミツロウが付いてのこることだった。気にしなければイイのだろうし、それこそ湯で洗えば落とせるのだが…ちょっと気になることではあった。

 蜜蜂たちも、まさかここまで、ヒトさまの生活に生かされていようとは、考えてもみなかった…に違いない。
 ほっこり和む「新コロ」の冬噺、ひとつ。

 
 
 

 

 

※シューカクは新顔の「バターナッツ」くらい /  ことし吾が家の「ちっこファーム」

-No.2638-
★2020年12月11日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3564日
★延期…オリンピック東京まで → 225日
★旧暦10月27日(月齢25.9)






◆ことしのシューカクを振り返る…

 「ふりかえる」
 ことしも、そんなシーズンとの、避けようもない巡り合わせ。

 ぼくは、「省みる」ことはツネヅネだけれど、吾が人生「振り返る」ことは、どうにも性に合わない。(振り返ってどうする)気分ダ。
 だから、〈ことしの収穫〉についてもサッと(省みておく)ことにしたい。

 いうまでもない、この1年は「新コロに明け、新コロに暮れようとする(そうして来年にも持ち越すこと確実な…)」パンデミック・イヤーでしかなく。
 したがって吾が庭、猫の額農園での収穫も、記録的サイテーのシーズンにおわり。わずかばかりの葉物いくばくかと、あとは室内でのスプラウトや発芽豆ばっかり。
 収穫といえるほどの〈作物〉は、ほぼバターナッツひとつに限られた。

 「新コロ」ウイルスが植物を感染宿主にするわけじゃない…ことはわかっていても、生命に寄せる愛着がイヤでも薄れたことは事実だったし。
 ついでに今シーズンは天候にも、実感として、まるでそっぽを向かれっぱなし。実生もので、発芽後まもなく立ち枯れたものもある。もちろん、ボクの世話がおろそかになった、せいもあるけど…。

 そんな、いわば吾が狹庭農園の乱世を生き抜いた、ゆいいつの作物の「バターナッツ」。名前のあとに「かぼちゃ」とつくとおり。
 ぼくは「グリンフィールド・プロジェクト」の種を購入、初めて栽培してみたわけだ…が。原産は北から南にかけてのアメリカ大陸〈乾燥した砂漠地帯の荒野〉というだけあって。まぁ…あきれるくらい脱帽ものの「したたかな生命力」。

 蒔いた種のすべてが、みごとに揃って発芽すると、グィグィ茎・蔓をのばし。たちまち〈猫額農園〉を覆い尽くして、通りすがる近隣の散歩人たちから「なんですかコレは…」と、まんまと感嘆の声をいただくことに成功。

 手抜き世話人のボクが見るところ、この「バターナッツかぼちゃ」の環境適応力は、同じ乾燥地帯を原産地にするトマトに似て。
 なおかつ、プロのお百姓さんの畑とはくらべようもない、栄養分も不足気味かと思われる土壌さえ、ものともしない。

 欠点は、ただひとつ〈実つき〉がわるいこと。花はいっぱい咲くのに、てんで実にならない…これはセツない。
 都会近郊にある吾が家の庭には、ミツバチの訪れも耐えて久しく、手抜き世話人懸命の自家受粉作業にもかかわらず、これも「かぼちゃ」そっくりの黄花ばっかり、やたら盛んに、ただ咲き誇るのみ。

 そんな、こんなで、一時は藪のごとき濃緑の蔓で乱れた吾が庭から、やっとこさ穫れた「バターナッツかぼちゃ」の実が上掲の写真。
 形は細長い瓢箪型で、色はほとんど殻付き落花生そのまま。
 …ならば味も…然り、甘味ひかえめの、こりゃマチガイなし「ピーナッツ・バター」じゃん!

 あらためてネットを見ると、「近ごろ人気の野菜」と紹介も盛ん、レシピも満載。
 「バターナッツ」という洋風なネーミング、色もどことなく洋風…だからか。グラタンとかスープとか、洋風料理のおすすめが多かったのだ…けれども。
 ぼくの感受性でいけば、食べるなら料理法はだんぜん「和風」でしょう。

 そう思って調べたら、「バターナッツかぼちゃ」の属性は「日本かぼちゃ系」とのこと。
「そうでしょうとも!」
 和風料理きわめつけの「煮物(冬至かぼちゃ…とも言うくらいですから)」と、もう一品は、これも感覚的に「チップス」が似合いそうだったので「ソテー」にしてみたら、どちらもバッチ・グーの味わい。ぼくからのおススメ。

 来年は、今年を「省みて」手抜きなしの世話を心がけ、〈猫額農園〉なりのくふう
〈がっちり支柱〉の備えで、立派な収穫にしてみせようと思う。



◆世の中もほぼ「新コロ」滅入り状況

 吾が家のまわりには「100円即売スタンド」の農家もあり、素人さんの「1坪農園」なんかも盛んなので、散歩の折りなど気をつけて見ているところだ、が。
 やっぱり、どちらさまも、いまひとつ元気なく活気にとぼしい。声をかけてみると、「作柄が良くないというより、世話する方の精がでない」とのこと。

 しかし一方で、都会を離れた地方からの収穫の便りには、勇気づけられる。
 地力が違う…といえばそれまでだが、ことしも春、海外青年協力隊出の岩手の甥っ子からは里の芽吹きセットが届き、信州のお友だちからは「根曲り竹の子」、そうして秋には例年どおり「メークイン発祥の地」北海道厚沢部町、種芋農家のKさんからと、大地のたしかな滋養をいただいて。

 「わるいことばっかりはつづかん…よ、めげずにガンバロウや」
 背中をポンと、励まされる思いがしたことだった。


 

※オリンピック道路が墓地下をくぐる /      千駄ヶ谷「仙寿院」のこと…五輪再開はあるのか

-No.2645-
★2020年12月18日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3571日
★延期…オリンピック東京まで → 218日
★旧暦11月04日(月齢3.4)






◆晩秋の外苑いちょう並木

 この秋は、黄葉がいまひとつ冴えない感じで。これはきっと、てんでキリっとしない、メリハリに乏しい気候によるのではないか。

 ふと、季節の進みが遅いのでは…と思ったぼくは、11月末の金曜日に散策に出かけたのだ、けれど。結果は、どうやらボクがテレビ放映の画面を見誤ったらしく、すでに黄葉はあらかた散って、なごりの風情。ただ…高いてっぺんあたりの黄葉は、このシーズン趣にとぼしかったこと、これだけはマチガイなかった。

 いつもなら、この季節。
 「いちょう祭り」でにぎわう軟式球場前を新国立競技場方面へ。スタジアム通へ出たところにある「日本オリンピックミュージアム」を訪れたら、いつのまにか入場有料になっており。
 これは、「新コロ」感染対策期間中の特別措置とのこと。館内はすでに前に見ており、「ジャパンスポーツオリンピックスクエア」になっている周辺を観て歩き、ですませる。
 この日は、新国立を背後に望む五輪マークのモニュメントにも、記念撮影の人影はなく、開催延期の冬淋し……







◆競技場脇の「仙寿院」交差点

 都道(補助24号線)と、外苑西通(キラー通)との交差点は「仙寿院」。
 立地からして交通の要地…だが、コレといった風情もアテもなく、あらためて注意をはらう人もない。

 …が、原宿駅方面へと向かう道下のトンネルが。
 よくよく見れば不自然な在りよう、トンネル上に墓地らしき景色からして、いかにも曰くありげ(とってつけたよう…)な。

 そう! じつはこの道のトンネルになったのには、ワケがある。
 そこには、前回・東京オリンピック(1964=昭和39年)開催にまつわる経緯があったのだ、けれども、その前に…。

 そこ(仙寿院)は、寺伝によれば徳川家康の側室養珠院(お万の方)にゆかり深く。始まりは養珠院が赤坂の紀州徳川家屋敷内に建立した草庵といわれ、正保元年(1664年)養珠院の実子で紀州徳川家初代・徳川頼宣によって現在地に移された。

 江戸時代、ここ千駄ヶ谷は谷中の日暮里ひぐらしのさと〕に風景が似てることから「新日暮里」とも称され、これは日暮里があまりに有名になったため、西の方に新日暮里が誕生したもの、とのこと。
 桜の名所として知られ、季節には遠方からも花見客が集まり、評判の美人がつくる「お仲だんご(団子)」が名物で、酒屋や田楽の店なども出て、おおいに賑わったといわれる。

 東京に近く住み暮らしたボクも、ふだん身近ではない、この地の詳細を知る由はないのだ、けれど。
 いまは国立競技場南方の市街地になってしまっているこの地も、明治の頃までは渋谷川東方の台地にあたり、流域の水田と代々木の森を見渡す景勝の地であった…と、『江戸名所図絵』にも記されてある。

 ぼくは昔、その頃の風情を想ってみたが、とてものことに、到底およぶものではなかった。

 時うつって現代、周辺の都市開発や付近を流れていた渋谷川の暗渠化などによって、いまは往時の趣まったく失われている。
 その大きな変化のひとつが、近隣する国立競技場などを主会場に開催された第18回東京オリンピック
 急遽もとめられることになった交通アクセス整備の必要から、この地の高台にあった仙寿院の、墓地下を貫通する都道の建設が不可欠となり、やむなく歴史ある墓地下に「千駄ヶ谷トンネル」が穿たれることになった。

 その国をあげての大事業にあたって、やむなく仙寿院墓地の墓石群はいったん掘り返されて撤去、トンネル完成後に元に戻された、そうで。「墓地下のオリンピック道路」は、いっとき話題になったそうだが…それも、ぼくの記憶にはない。

 こんど訪れて見ると、なるほど高台の仙寿院墓地からは、新国立競技場の外観を望むことができた。
 しかし……

 敗戦後復興の〝復活〟アピールに燃えた前回オリンピックから56年を経て、今年2020年に開催されるはずだった、設備・整備に巨費を投じた大会は1年延期。
 それでもなお、いまだに「新コロ」パンデミックに収束の目途は立たない、いま現在から、開催は現実的ではないのが、庶民の正直な思い。

 だいいち、たとえ国内はどうにかなったとしても、ふたたび海外からウイルスが持ち込まれれば、感染再燃は避けようもない、のであり。
 また、たとえ無理に無理を押して開催に踏み切ったとしても。来日観覧&観光客の数が大幅に制限されるのであれば、経済効果だって見込み薄は確実。
 それどころか、むしろ、厳しい大会後〈負の遺産〉のなりゆきの方が大いにシンパイでしかない。

 (あるのか……ないのか……)
 脳裡に〈占い葉っぱ〉想い描いたら……
 すごい葉数の化け葎〔むぐら〕……

 

※新谷ぶっちぎり、相沢も田中もキタ!      …で…ついフラリとスウィーツの店!

-No.2635-
★2020年12月08日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3561日
★延期…オリンピック東京まで → 228日
★旧暦10月24日(月齢22.9)






◆新谷 独走

 12月1日記事、『ひた走る「にいやん」新谷仁美』を書いたとき、すでにこの予感はあった。
 それほど、ここにきて新谷仁美積水化学)「にいやん」の走りには、ひたむきさが際立つ。「新コロ」禍が〈Go!〉スウィッチを押したかにも思えるほどに。

 4日土曜日の陸上「日本選手権長距離種目」(大阪・ヤンマースタジアム長居)、延期になった東京オリンピック代表選考会を兼ねるこの大会、女子1万㍍で「にいやん」はまたも、ひた走り、ぶっちぎった。

 世の注目を浴びるこの日、朝のテレビ・インタビューで、
「緊張してます。練習はきっちりこなしてきたから、これで結果がでなかったら100%責任はコーチにあります」
 (ちなみにコーチは横田真人、男子800㍍元日本記録保持者)
 お道化た笑顔に、自信のほどを窺〔うか〕がわせたものだったが。
 スタート前の表情は、悲壮感さえただようほど緊張の表情に決意がうかがえ。
 予想されたとおりスタートからハイペースで入って、失速のおそれなど微塵も感じさせず、マラソン代表の一山麻緒(ワコール)をグイグイ引き離して、これぞまさしく次元のチガウ走り。途中5000㍍通過タイムも日本記録をクリア、ゴールまでには3位以下の選手をすべて周回遅れに、あぶなげなく走りきって30分20秒44。
 オリンピック参加標準記録を軽く突破して、18年ぶりと言う日本新記録更新にも30秒ちかい余裕(これまでの記録は02年渋井陽子三井住友海上の30分48秒89)。2位の一山にも50秒以上の差を見せつけての圧勝だった。

「新たなスタート地点に立ててよかった」
 それは〈世界を視野にプロ・アスリートとして走る〉決意だろう。
 「オリンピック」で走りたいのはヤマヤマだろう、けれど、「開催を信じたい…というのも、いま、それはわがまま」とわりきって、「開催されたときには最高の走りで」こたえたい、と。この発言にもブレはなく。さらに
「長距離ではアフリカ勢の評判ばかりいいけれど、その流れにギャフンと言わせたい」と、負けん気32歳の意気やよし。
 

◆相沢 激走、田中振り切って初V

 翌朝、新聞の見出しには「新谷 独走」と並列して、ひさしびりの感動文字が躍った。
 女子1万㍍は、ぶっちぎりに沸いたわけだけれども。
 トラック長距離競技の醍醐味、競り合い勝負を堪能させてくれたのは男子1万㍍と、女子5000㍍。

 男子1万㍍は、出場者の顔ぶれを見ただけでも、いまをときめく実業団&大学アスリートたち勢ぞろい。…だが、実力勝負の結果はショウージキで、このシーズンを意識的かつ意欲的にとりくんできた者たちに微笑んだ。
 レースは中盤まで、男子マラソン代表の大迫傑(ナイキ)と鎧坂哲哉(旭化成)が引っ張り、終盤にかけては相沢晃(東洋大出=旭化成)と伊藤達彦(東京国際大出=ホンダ)、箱根駅伝からのライバル同士が、見ごたえのあるデッドヒート。
 結果、伊藤の気魄も一歩およばず、ストライドと安定した走力に勝る相沢が凱歌を挙げ。日本新記録の27分18秒75(これまでの記録は村山紘太=旭化成の27分29秒69)で優勝。2位伊藤もオリンピック標準記録を突破。大迫は6位。

 女子5000㍍は、年齢1つちがいの活きのいい若手、田中希美豊田自動織機TC、21歳)と広中璃梨花日本郵政G)、〈女子中・長距離界の次代を担う〉と期待の2人が対決。
 勝負に徹した田中が、ラスト250㍍くらいになって抜け出し、15分5秒65で勝ちきっての優勝。

 結果。女子1万メートルの新谷、5000㍍の田中(2人はすでにこのレ-スまでにオリンピック参加標準記録を突破している)、男子1万㍍の相沢。以上3名がオリンピック代表に内定(キップを獲得)。
 福島出身の相沢は、前回64年東京オリンピックで活躍した同郷の先輩、円谷幸吉(マラソン銅メダル、1万㍍6位入賞)の背を追って走ることになる。

 男子5000㍍は、優勝者の坂東悠汰(富士通)13分18秒49(参加標準は13分13秒50)でキップ獲得にはザンネンいたらなかった。

陸上競技界は世界的にも、国内でも活況

 ことし、思わぬ事態の「新コロ」禍に遭いながらも、国際規模の大会・記録会が開催されるようになった夏以降は、陸上界も記録ラッシュ。
 8月に男子5000㍍でJ・チェプテゲイ(ウガンダ)が12分35秒36で16年ぶりに世界新記録を更新。
 さらに10月には、男子1万㍍で同じJ・チェプテゲイが26分11秒00で15年ぶりの世界新記録。女子5000㍍でもL・ギディ(エチオピア)が14分06秒62で12年ぶりの世界新記録更新…などなど。

 この流れには、アスリートの粒がそろった力量向上もあるだろう、けれど。制限された練習環境のなかでも好記録が達成されたのは、やはり選手たち個々人の、意志・意識レベルの高さ維持があったことを認めないわけにはいかない。

 日本国内でも、11月1日(日)の全日本大学駅伝では、1区三浦龍司(順大)、4区石原翔太郎(東海大)、5区佐藤一世(青学大)、6区長田駿祐(東海大)の区間新ほか、好記録ラッシュがあり。沿道での応援自粛のなか、勝負のオモシロさも十二分に発揮されたのは、よかった。






 つづいて11月8日(日)、お台場海浜公園周辺を舞台に、繰り広げられた「トライアスロン日本選手権」も関係各位の熱意・努力があって開催にこぎつけ。
 ぼくは、かみさんと2人揃っての外出ひさしぶりに、会場のお台場へ。世情視察も兼ねて出張ったのだ…が。
 なんてこった! 折アシく、新橋から唯一の交通手段「ゆりかもめ」の不通という不測の事態に見舞われ(これがオリ・パラ本番だったら、どうなっていたろう?と思う)、仕方なく大井町から「りんかい」線での迂回を試みたのだ、けれども。

 この大会は、非常時の特別規定ということで、通常の半分規模(スイム0.75km、バイク20.6km、ラン5km=計26.35km)で競われたため、ざんねん観戦には間に合わず。関係者から知らされるたその結果は。
 優勝が、男子はオーストラリア出身のニーナ・ケンジ(27)、女子がオリンピック大会3回連続出場のベテラン上田藍(37)。
 どちらも、見ごたえのあるレースだったとのこと、口惜しかった。
  ……………

 なお、後日(12月6日・日曜日)。はやくも次回パリ・オリンピックに向けての福岡国際マラソンでは、吉田祐也(青山学大出=GMO、23歳)の若手が、活きのイイ走りっぷりを見せ、2時間7分5秒(歴代10位)の好タイムで初優勝の快挙。
 東京オリンピック代表補欠の大塚翔平(駒大出=九電工)も、7分台で2位。以下、上位にくいこんだ選手の多くが自己新記録を連発する活況で、いっきにマラソン日本の復活をつよく印象づけてくれもした。
  ……………

 以上、これらの諸事情を思えば、来年のオリンピック舞台はかなえてあげたい…気もちやまやまなれど。いっぽう延期に伴う追加経費、じつに2940億円にも上るという、社会的な理不尽も無視できない…
 …というわけで。





◆ストレス緩和には…スウィーツでしょ!

 
 気ぶん吹っ切れないまま、もやもや帰途は「りんかい」線。「東京テレポート」駅から「新木場」駅に出て有楽町線に乗り換え、目指したのは東銀座。
 どちらも日ごろは呑ん兵衛、自認する2人が、ちかごろ評判のスウィーツでも…という気になったのも。いっこうに出口が見えない「新コロ」トンネル、いまの世情ゆえだったかも知れない。

 「東銀座」の駅からしばらく街を歩いて、訪ねたのは「パーラービネフル銀座」。ふわとろパンケーキと、夏はオシャレなかき氷で知られる。
 小さなビル3階の小店は、思ったとおりの本日も満員、席待ちの列。〝行列〟なんか「まっぴらごめん」なはずの2人が、この日はおとなしく並んで待ったのも、「いつもとは、ちゃう」風情。

 しばらく待って上がった店内。
 南側の窓辺にひらけたテラスで、ぼくは「ほろ苦キャラメル・パンケーキ」を、かみさんは「信玄餅風パンケーキを」を、たっぷり頬ばっておおいに満足。
 甘味タップリのあとには、予定したビールの入る余地はないことを知った。

 
 







 
 
 

 

◎2020.12.02…「新コロ」小節あるいは章説らしき…

-No.2631-
★2020年12月04日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3557日
★延期…オリンピック東京まで → 232日
★旧暦10月20日(月齢18.9)




◆〈散〉なる〈想〉の<随>なる〈筆〉

 
 なるほど、たしかに…
 眼の上は空の広がりらしく、いっぽう、ひたひた下には海の広がりが感じられ。
 (ゴー・ツー・トラベルのつもり、ってか…)
 そう思って、見れば見慣れたそのシーンは、くたびれ抜きホンマの息抜きに、ときどき利用させてもらっている近場のリゾート・ホテルの、プールみたいな露天風呂らしく、(なぁんでぇ…)少しばかりガッカリさせやがる。

 (そんなことより、ねぇ)
 ちょいスネもどきの聞きなれた声は、浅いサンゴの海に空いた洞穴からみたいに、やや、くぐもった囁きムードに伝導されてくる。そう、どこか(アヤしげ)だ。
 (満月の潮どきでもないのにさぁ…珊瑚のメスたち産む気マンマンだょ…)
 (そのようだ、オスどもだって…)
 応えかけて、(よせやぃ)オレの下半身までウズウズしてくるとは(どーゆーことなんだょ、おぃ)。

 想いは『チコと鮫』にとんだ、けれど、海はタヒチじゃないモルディブだった。
 一帯の珊瑚群からメスたちが気をそろえ、打ち上げ花火よろしく産卵する…と、ドンピシャの狙い撃ちでオスたちが目いっぱいの射精でこたえる……
 (打ち上げ花火の〝華〟は、パッと大空に散開した瞬間でキマリ、観衆からも歓声が上がる…命の耀きはそのときかぎりさ。それにしても冬雪景色での花火、打ち上げを想いついたのはエライことだった、よな)

 そこで画面が反転する…と、まばゆい陽の射し込む海…いや空か…わからん。おだやかに揺らめく波動(風動?)は、どちらともつかない。が
 この光景には、たしかに見覚えがあった。

 おおきな閑かな陽だまり、埃ひとつなかった(見えなかった…)澄明な光の空間に、いま、オレのうごきに連れて、イノチ吹きこまれた埃のダンサーたちが身をおこし、おもいおもいに舞いたち群れ踊り、永遠にやむことを知らない(…かに想える)。
 
 ちょいと(芝居がかった)気分で、眩しげな顔をつくり、よくよく観察すれば、無数の卵だったはずの微小な丸い玉に、いまは翅が生えたり、受精に成功した精子ちゃんの尻尾の痕だろうか…なんかまで明瞭だった。

 (あのさぁ…ウソだろ)それはないだろ、とオレは、思いあまった声になってつよくコウギする。(思わせぶりも、あんまり度がすぎやしねぇか)。
 どうしようもなく気がたってくるのは、まだウズウズがのこる下半身のせいかも。
  ……………

 途端に目の前が一瞬間、真っ暗にフェード・アウト。
 ややあって、こんどは真ん中から、暁闇を左右に開くかたちで明けてくる。
 暗幕が開きかけたとき、チラと、奥に隠れ遅れたかに見えた影は、あ…い…つ…まちがいない。
 風の波をおこし、埃のごとき命の卵に新鮮の気を与え、なおたりないと感じたものか。敏捷にうごきまわる子役まで加わわって、クルクルと渦を巻き、反転させ、複雑な対流を生成する。

 ……と。
 さっきは、浅い海底の洞穴かに見えた珊瑚の谷が、いつのまにか、あの錯視の「ルビンの杯」みたいな、シルエットになんかなっちまって。その微妙な凹凸部分から始まって全体に、ホコリのダンサーたちが舞い降り、集い積もってグレーの層を成し、その結果、錯視の顔の輪郭を徐々にクッキリさせていく。
  ……………
  
 (わかるょ、その気もち、アタシだって同じ…だけどさ)
 ベター・ハーフと想ってるあ…い…つ…の、いつもの安堵にあまえた応えだった、が…。いかにも、らしく、いつもより、ずっと、くぐもってイジラシく聞こえちまう。
 (ウイルスだってセクシャルなんじゃない、〝生物〟じゃないってヒトもいるけど、〝半生物〟はないと思うし、やっぱり〝生命〟なんだし、スタイルがちがうだけ、でしょ)

 (なんかちがう気がするのも、気の迷いか)
 オレも、いちおうは言ってみながら、でもワカッテる。
 ヒトの世界じゃ「SARS-CoV-2」とか呼ばれてる。けど、オレは人前では「新コロ」、あ…い…つ…との仲では愛称「コロ」だった。
 (コロにだって感覚はあるだろし…な)
 (そだね…ヒトの匂いとか、肌のぬくもりとかは、きっと、つうじてるよネ)

 (コロのやつ、水は苦手じゃないのか)、オレは、じつは泳げない。
 (スキ、キライじゃないんでしょ。水には流される…けど、べつに溺れるってハナシも聞かないしね)、あ…い…つ…は、泳げても水を怖がる。

 ………らくに息をしながら考えてるってことは、どうやらオレたち、空と水の間に浮いてるらしい……湿度50%くらいか、うん、わるくはないな……

 (南極でも…だってさ)
 精神衛生やら社会福祉やらを学んだらしい、あ…い…つ…め、もったいぶって頷く。
 (人間がいるとこなら…だろ)
 いつもオレに分がないのは、なぜだろう。
 (コロはスキ、キライなんか言ってられないんだと思う、けど。相性のイイ、ヨクナイ、これだけはゼッタイある、よね。たとえば、だけどさ、似たもの同士とは相性ヨクナイとか…)

 (……ぅ……)、オレはこころ秘かにうなずく。
 (コロのやつは、オレとは遠巻きディスタンスでいるだろうな、きっと)
 フシギに、なにやら確信めいたものはあるのだった。それはオレの匂いか、肌のぬくもり…かも知れなかった。
  
 (コロの生き方か、否も応もなしかぁ。〈水ぼうそう〉とか〈おたふくかぜ〉みたいにゃ、子どもにはアタらないのが、せめてもイイとこ…。なら、しゃぁない、わな。いけねぇとこや、しくじりだってあらぁ…ってことだろ)
 (まちがいはダレにだってあらぁ…だもんねぇぇ!)
 あいつめ、オレをからかうとき、きまりの軽口たたいて、潮どきを告げる…潮目がかわる。

 (てめ…この…)
 むしゃぶりつく手が、むなしく空振り…で、目が覚めた。
  ……………

 できることは、オレたち、やってる。これ以上、「もっとだ」ってぇなら、筋書きくらい見せろや。
 あと…どうにもチンプンカンプンで、ノラクラ、チラクラしたのが、ざんねんながら、ほんのひと握りはいる、けどもな。それだって、柄ばっかりデカくなっても、ガキみたいに頑是ないのは、ケチな教育のツケだろがよ。

 「コロ」とのつきあい、もう1年にもなろうってのに。
 なによりドッキリは、民主主義だの自由主義だの、基本的人権だの生存権だのと言ったって、どれも、ずいぶんチンケでケチでモロすぎたもんだ。
 経済がどうの、ゴタクばっかり並べたって、つまり、民(少なくとも〝下級〟国民)の糊口ひとつ養っちゃくれない。

 政治だってなぁ、ずいぶん情けないもんだと、底まで見えちまった。徒手空拳だって一所懸命なら、まだイイって。考えなし、頭なし、指導力なし。からっきしナイナイ尽くしの空虚もなし…じゃあ、たまんない。
 「自助…自助…じょじょじょ」、コケちまう。

 専門家先生たちの「御託」だってさ。正直、初っ端の「3密回避」から「5つの高リスク場面」まで、どれほど進んだ?
 「同じことの繰り返しになりますが…」だって、5回もつづけるうちにゃ、たいがい別な思案も生まれるもんだけど、な…。
  ……………

 (メシ…だぞぅ)
 あ…い…つ…の、からかい声が呼んでる。

 (おぅ…いま行く)
 下へ降りかけて、不意に、オレはキョトンと身体が固まる。
 よくある〈気づき〉だった…が、階段をアブなく踏み外すところだった。
 (あぶねぇなぁ)
 転げ落ちないように手すりに掴まって、〈気づき〉の中身を引き出す。

 オレもふくめて日本人てのは、大筋のキホンとして慎み深く、忍耐づよく、とりあえずお上には従う…とされる、が。
 外国の人士には、「(東日本大震災のような)一大事に遭っても狼狽えず、とり乱すことなく落ち着いた佇まい」が賛嘆の目でとり沙汰されたようだ…けれど。
 (それチャウねん)オレなんか、こっぱずかしくて顔が茹で猿。
 そんなふうに見えて、じつは、あきれるくらい気が短く、キレやすく、いちど暴発したら、もう、とまらない、こころがチャッカリ同居してござる、のダ。

 そのへんの狷介固陋ともいえる民族事情を、お上の層にある人たちが、どれだけ芯から理解しているのか…不安はそこに尽きる。
 このさき長びきそうな「新コロ」サイド・バイ・サイド世相も、また然り。おとなしく耐えているようでも、どこでドカンとくるか知れない。
 オレは(くわばらくわばら)肩を竦める…… 
 

 

※ひた走る「にいやん」新谷仁美 /        2020クイーンズ駅伝ハイライト

-No.2628-
★2020年12月01日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3554日
★延期…オリンピック東京まで → 235日
★旧暦10月17日(月齢16.9)





◆「クイーンズ駅伝全日本実業団女子駅伝)」

 2020年、第40回の記念大会(11月22日・日=宮城)には、ぼくのとくに注目する選手が6人いた(ほかの選手に期待がないわけじゃないゴメンなさい)。

 JP日本郵政の5区鈴木亜由子、ワコールの3区一山麻緒と6区福士加代子天満屋の3区前田穂南、ダイハツの1区松田瑞生に、積水化学の3区新谷仁美
 鈴木・一山・前田の3人はいうまでもない、開催があやぶまれる東京オリンピック女子マラソンの代表。
 20回目の同駅伝出場になる福士(加代ちゃん)は、これがラスト・ラン。
 松田はオリンピック・マラソン代表を惜しくものがして…さて、いまどうしてる。
 新谷(愛称=にいやん)は、もちろん女子長距離界の至宝、ぼくの〝カムバック大賞〟アスリートである。

 1区7.6km。
 オリンピックの晴れ舞台をのがしたダイハツ/松田は、その口惜しさをグッと呑みこみ、ツギを見据えて振り払うように堅実に走った。

 …が、そんな想いも吹きとばすように、目の覚める若さの勢いで激走したのが、郵政/廣中璃梨佳。昨年、同駅伝の同じ1区で区間賞を獲った自信をバックに「世界の舞台で走りたい」夢をのせて、スタート間もなくスルスルと抜け出すと、そのまま独走して堂々の連続区間賞。連覇を目指す郵政チームにいい流れをもたらした。
 近い将来が楽しみな逸材。

 初優勝を目指す積水は佐藤早也伽がふんばって3位の好位置をキープ。
 ダイハツ/松田の好走も区間4位に霞み。
 ワコールは12位、天満屋は18位と出遅れた。

 つなぎの2区3.3kmでは、積水/卜部蘭が区間賞の走りで2位に浮上して、エース「にいやん」に襷がわたる。

 3区10.9km。いよいよエース競演の幕が開く。
 積水の(…というよりヤッパリ日本の)、女子長距離界を代表する「にいやん(新谷)」の、思ったとおりの独擅場になった。
 首位の日本郵政に10秒差で襷を受けると、これぞサラブレッドの惚れ惚れする走りで、早くも2kmで逆転トップへ。そのままスルスルと走り抜け、これまでの区間記録を1分10秒も大幅に更新する区間新の33分20秒。
 これがニイヤンだから、ふつうにしか見えない…が、区間新記録の更新幅がナント〝秒〟ではなしに〝分〟単位である。
 もっと凄かったのは、ニイヤンに抜かれ中継所では1分も遅れをとった郵政の鍋島莉奈も、その走りは相手がニイヤンでなければ脚光を浴びたはずの、区間新(34分25秒)は立派。せっかくの新記録も、さらにその上をいく記録の影に霞むことにはなった、けれども、自信にはなったネ!

 ほかのエース。
 ワコール/一山は、区間3位の記録で走って6人抜き、チームを4位へ。
 天満屋/前田も5人を抜いたが、区間8位の記録でチームは13位まで。
 ぼくは、今年新春の都道府県駅伝で優勝した京都府のアンカー、一山が走り出す前「後から追ってくる新谷さんがこわい」と真顔で語っていたのを思い出す。結果は大差を逆転にまではいたらず、だったが…。

 4区3.6kmは、外人選手出場枠。
 波乱含みのつなぎ区間だが、ここは積水/木村梨七(仙台育英高出)が区間14位ながら踏ん張って首位をキープ。負けじと郵政も宇都宮恵理が同タイムで喰らいつく。
 これも、つよいチームの好結果に結びつく大きな要因。

 しかし。これでキマリにもならないのが、駅伝のオモシロイところで。
 5区10km。もうひとつのエース区間に、ふたたび山場が訪れた。
 郵政/鈴木には、オリンピック代表をつかみとって後、いいところが見られなかったのだ、けれども。この日は、ひさしぶりにキレのある走りがもどって足どりも軽く、まさしく〝回転翼〟のごとくスピードにのる。
 積水/森智香子はベテラン、襷をうけたときの笑顔には〈ゆとり〉が見えたかと思ったが。そこに、じつは無理があったか、しれとも見えない落とし穴にはまったか…。
 走り終わってみれば、「にいやん」がつくった1分余の貯金をはたいて、逆に30秒ちかい借金ができていた、大誤算。
 裏を返せば、郵政の作戦勝ち、ともいえる。

 6区6.795km。
 駅伝ファンとしては、再々逆転のアンカー勝負を期待したけれど。
 郵政/大西ひかりが区間賞の走りで勝負あり、積水は2位キープがやっとのことだった。
 女子駅伝ラスト・ラン、ワコール「加代ちゃん」はいつもどおりのマイ・ペースで、さすがの区間2位を記録。ただ、やはりその走りには全盛時ほどのキレはなく。
 おまけに競技場のトラックへはチーム3位で入りながら、ゴール目前で豊田自動織機/薮下明音にかわされ。
「なんで抜くんだよぉ!」
 最後も加代ちゃんらしい、はじける笑顔で〆めくくってくれてヨカッタ。

 このレース全体に低調だった名門・天満屋では、アンカー小原怜が区間3位の走りでチーム(11位)を救いあげてくれて、これもヨカッタ。
  ……………

 こうして幕を閉じた、ことしの「クイーンズ・マラソン」。
 最高殊勲選手賞を授与するとすれば、やっぱり新谷仁美「にいやん」にキマリ、でよかろう。

 さきゆき不透明な、延期オリンピックの来年開催はなおビミョーだけれど。
 ひとりの傑出した女子アスリート、新谷仁美(32歳、婚活宣言)にとってツギはない(…だろう)。それを想うとフクザツ。
 
 …と同時に、そんな「にいやん」も5000mと1万mでは先輩「加代ちゃん」(38)
の記録に、まだ、とどいていない。
 それが、「にいやん」カムバックの背中を押したのかも知れない…ことを思うと、ますますフクザツ。
  ……………

 チャンスをつかみチーム・メンバーとして走ったあと、コースを振り返ってお辞儀をする選手の姿は、駅伝ファンにはすでにお馴染み。
 くわえて今シーズンの陸上シーンでは、インタビューに応えるアスリートたちの口から「この舞台を用意してくださった方々のご苦労に感謝」の言葉が、じぶんの(記録など)ことよりもまず先に、しっかり語られているのがウレシイ。
 
 これは、「箱根駅伝予選会」でも「全日本大学駅伝」でも、くりかえし見られてホンモノをつよく印象づけた。指導層の想いが選手たちに伝わった結果だろうが、この「スポーツできる幸せ」をもっと高らかに表現して、一段一層の意識改革をすすめてほしい、と願う。
「ファンあってのアスリート」は、「にいやん」の想いでもある。

※〈TOKYO〉一極集中の…ど真ん中 /     新しい貌になった地下鉄「銀座」駅のこと

-No.2624-
★2020年11月27日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3550日
★延期…オリンピック東京まで → 239日
★旧暦10月13日(月齢11.9)







◆地下鉄の「銀座」駅が新しくなった

 …と、新聞報道があったのは10月中旬だった。
 17年から、銀座線・丸ノ内線日比谷線の改札やホームなど、駅全体の改装が行われていた工事を終え、東京メトロ「銀座」駅がリニューアル公開された、と。
 (ならば、どれ、見とどけておこうかい)

 ぼくが、その気になったのには、ワケがある。
 はじめて乗った東京の地下鉄が銀座線だった。
 渋谷の地上駅から出る浅草行きの電車は、その車体の色からして炭鉱の坑道を行くイメージの黄色であり。おまけに初期の電車はどういうポイントでか、ときどき車内灯の一瞬消えることがあったのが、そんな夢想をいよいよ掻きたてもした。
 
 浅草の観音さまにお詣りしたあとは日本橋に寄る。
 本家筋が、かつては日本橋の砂糖問屋であった父の方は、没落しても坊ちゃん趣味というのか三越好きで。いっぽう湘南の在から嫁いできた母は、白木屋デパートの方を好んだ(白木屋の跡地は、いまコレド日本橋)。
 ときどきは高島屋を覗くこともあった。

 つぎに京橋、そして銀座。
 長じるとボクは松屋が趣味になって、すると銀座線が最寄り。
 そのまま、「ホコ天」の銀座(中央通)歩けば4丁目交差点、三越前丸ノ内線の入り口にあたり。角を右に折れて有楽町(数寄屋橋)方面へ、銀座ソニーパーク(元はソニービル)のあたりが日比谷線の入り口…という按配になる。

 いずれにしても、古くなってもいつになっても新しい「銀座」を堪能する人たちにとっては、いずれかの地下鉄「銀座」駅が頼り。
 そんな「銀座」駅の変貌は、さすがに眩しかった。

 まず目にアピールして来るのは、ライトアップされた柱や天井などの「光の演出」。それでいてケバくはなく、上品でおちつきのある空間になっていて、うん…ワルくない。
 「光の演出」の訴求ポイントは、もちろん乗り換えの案内をわかりやすくするため。各路線カラーになっている黄色(銀座線)、赤色(丸ノ内線)、銀色(日比谷線)で柱をライトアップしたのが気が利いて、これなら誰にもわかりやすかろう。

 改札内側の天井には銀座を代表する建物を映したパネルを設置して、地下にいながら現在地がわかるようになっているのもイイ。
 また、銀座線(1927年に営業開始した日本初の〝本格的〟な地下鉄)のホームや通路の壁には、銀座の街並みの移り変わってきたさまを過去100年わたって描き出す趣向が、レトロ・ムードを醸しだす。

 なるほど1日の乗降客、約25万7千人(19年度)というメガ・ターミナルらしい、そこは輝きに充ちていた…。 








◆公衆手洗いスタンド

 じつは
 ひさしぶりに銀座探訪を思いたったのには、もうひとつ、いまの「新コロ」時世にうってつけのワケがあった。それは
 「シンプル・ハンド・ウォッシュ」(簡易手洗い)のアイディア。

 地下鉄「銀座」駅のリニューアルとほぼ同じ頃に、新聞記事になっていた。
 ちょっと出かけた先で、建物内に入らずに(トイレに行かなくても)街角で気軽に手洗いができたらイイのではないか…との着想で。

 銀座&有楽町エリアの街角、銀座三越、大型商業施設の「GINZA SIX(ギンザ・シックス)」、「GINZA SONY PARK」、「銀座伊東屋」、「有楽町マルイ」、「ルミネ有楽町」など、15ヶ所にデモンストレーション設置された、という。
 これは(気が利いている)と思った。

 「新コロ」禍で、「マスク着用」や「三密回避」がウルサく喧伝されたけれど。
 もっとも重要なのが手洗いではなかったか?
 ポンプ式の消毒液がずいぶんアチコチに用意されたようだけれども、それでも限度があって、街・町には思わず手を触れてしまうところばっかり、じつは、とてものことに不用意きわまりないのダ。
 そう思って、イザ気になって探しても、こまめに手洗い所を用意してくれているところなんか、ナカナカ見あたらないのが現実である。

 そこで、「街角に簡易手洗い」を。
 企画・設置したのは、12の企業・法人などで構成される任意団体の「公衆手洗い推進パートナーシップ」。水処理を手がける「WOTA(ウォータ)」が装置を開発した。
 ホームページで見ると、いってみればドラム缶タイプなのだけれど、白くオシャレにできている。

 簡潔に説明すれば、まず水道管は不要。中に20㍑の水を入れ、使用後の水は複数のフィルターで不純物が取り除かれ、再利用される仕組み。
 ついでに、脇の方ではスマホの充電もできる…というスグレもの、とのこと。

 しかし…
 ぼくに出かけられる都合がついたのは、デモンストレーション期間をすぎてからであり。このアイディアにいちばん相応しく、ありそうに思えた「GINZA SONY PARK」からはすでに姿を消しており…。

 なんとも心のこりな気分をもてあましつつ、「ホコ天」に戻って松屋の方へブラブラ歩いて行ったら、
(あったぁ…見つけた!)。
 かつては書斎派の高級文具で知られ、いまどきは若手デザイナーやタウン・ウォーカーにも人気の「銀座伊東屋」、入り口脇にデモっていた。

 主催者派遣と思しき若い男性が、説明がてら、通行人たちに「お試し」の声をかけている。
 通りすがりの人が、どんな反応を見せるものやら、少し離れたところに立って、しばらく様子をみていたのだ…けれど。

 これは、やはり商品知識不足にチガイない。なかなかその気にはなってもらえず、やっと、ひとりの女性客がポケットからハンカチを取り出してのち、手洗いを試みるのを見て、2~3人がつづいて手を出していた。

 ぼく思うに、これを周知してもらうには、「実演販売」の戦略がもとめられるのではないか。
 今後は常設も検討する、という主催者・メーカー側には、せっかくのグッド・アイディア、ぜひ、もうひと工夫のキャリア・アップをもとめておきたい。


  

◎〝頑爺〟どこ行く、このコロナ禍… /      ジョーダンじゃなくなって師走ちかづく!

-No.2621-
★2020年11月24日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3547日
★延期…オリンピック東京まで → 242日
★旧暦10月10日(月齢8.9)




◆「新コロ」感染〝高止まり〟

 …傾向がつづいた先月(10月)中旬。
 予測される冬の感染拡大期を前に、(いまのうちに)と思った。遊びなら控えるところだ、が…〈自粛〉にも限りがあり。先の見透しもたたない。

 すでに〈遠(年)忌〉になっている、父33回忌と母23回忌の法要。
 11月22日の日曜日(3連休の中日)に決めて、まずは、根まわしの連絡。
 集ってもらうのは近親(姉一家)のみとし、お坊さんに来ていただいて、わが家で法事を営ませてもらうことにして。準備の手筈を整え。
 これで年末にむけての懸案は(のりこえたか)と思った。ところが…

 状況は2週間後に一変。
 「新コロ」感染拡大は、最前線の堰を切って落とし。
 にもかかわらず、国の対応あいかわらずニブイまま一向に決然とはせず。
 「不要・不急の(とくに高齢者の)外出はひかえて」「三密にならない心がけを小まめに」と、国民の〝自助〟要請ばかりでは、世の中、不安な空気に覆われるばかりで、どうにもならない。

 一気に、東京都を筆頭に全国的に新規感染者が大幅増。
 なお確認のため、さらにもう1日の様子を見たけれど、大勢に変わりなく、19日(木)に法事の中止を決め、即、しかるべく連絡をした。

 その週の始まりの16日(月)に、ぼくは、じつに暗示的な光景を目にしている。
 それは、昨夜、寝つきがわるかったために寝坊して迎えた朝もすでに遅い時刻。
 寝室から階下へと降り、冬とは思えない溢れんばかりの陽光まぶしく射し込む部屋に入ると、細かい埃の粒々がゆらゆらと無心に舞い遊んでいるのに、不意をつかれて吾を忘れ、茫然キョトンと目を奪われた。

 この場の情景を、もう少し正確に描写しておくと。
 リビングの、ぼくの定席から正面に眺められる隣室。南側の、床まで大きな開口のガラス戸越しに、冬の斜にかまえた朝陽が、真っ先に差し込む部屋があり。
 そこに、太い帯になった陽光のなか、埃の粒々の踊り子たちが空気の対流に身をまかせて舞っていた。
 誰か(カミさんしかいない…が)通ったあとらしく、気ままに活発なうごきがオモシロくて見飽きない…。見惚れているうちに、ぼくは気がついた。
 細かい埃の踊り子たちのダンシングは、待てども待てども、冬の乾燥して軽い空気のせいもあろう、いっこうに止む気配がなく。いまは動く者とてない部屋に、空気の対流はその後も繰り返し、不規則につづいて踊り子たちにダンシングをうながしつづけた……

 ぼくが、そこで凝然となったのは。
 この埃の粒々に、「新コロ」ウイルス舞踊団が混じれば、どうなるか!
 いうまでもあるまい、そこに感染舞台の準備は完了する。

 「新コロ」パンデミックから、ほぼ1年が経って。
 はじめて…といっていい。感染ルートの、いわばスクランブル交差点にもいうべきところにスポットライトがあたるのを、ぼくは吾が眼に目撃した。

 ぼくは、いま、法事の中止、決断をしてヨカッタと思えた。
 翌20日(金)。ぼくたちは、すでに予約注文してあった供物や引物を受けとりに行き。翌々日には、中止の謝辞を添えて荷造り、発送を終えた。

 ホ~~~ッと長い溜息ひとつ。
 とりあえずは、仏壇まわりを主に、法事にあわせてとりかかった清掃はこのまま、急かずにつづければ年末の大掃除はするまでもあるまい、それだけは気が軽くなっている。

 3連休は、紅葉の古都京都の、ひさかたぶりの大混雑ぶりをテレビ画面で確認。みずからはきっと、シブい笑顔になっていることを、これも確認。

 いっぽうでは、また。
 ぼくは、ことし年明けのクルーズ船横浜寄港から始まった「新コロ」パンデミックの後…を考える、下敷きのメモを書き溜めてきて、その項目が30になることも確認している。
 年明けからは、月に1度くらいのペースで『新コロ後のこころ(仮題)』をまとめていくことにしている。

 来年に延期のオリ・パラの行く末は、まだ知れない…が。
 これだって、〝延期〟の時点ですでに〝冷めたスープ〟であることにチガイはない。折々に「新コロ」模様の推移とともに見ていけば、世の中がよりワカリやすくはなっていくのだろう。

 とりあえず、この年越しと正月は、基本。
 気もち「ローリング・ストック・デイズ=ハイ・ランク・バージョン」で、控えめ気もちゴージャスに、すごすことにしている。
 もちろん正月2日は、箱根芦ノ湖畔へ箱根駅伝往路の応援に行くつもり。
 
 


 

 

※「ドームと盆燈籠~8月のヒロシマ~」 /    『よみがえる新日本紀行』とともに…⑤

-No.2614-
★2020年11月17日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3540日
★延期…オリンピック東京まで → 249日
★旧暦10月03日(月齢1.9)







中国山地を越えて山陽…山陰…往ったり来たり

 1972(昭和47年)。
 枕崎(指宿枕崎線、鹿児島県)駅をスタートした、ボクの(当時の)国鉄「片道最長切符」2ヶ月の旅は、11日目に九州をあとに、本州入りしてからの1週間を山陽から山陰へ、また山陰から山陽へ…と、中国山地を挟んで往ったり来たり。

 九州のアチコチ汽車旅でも、つくづくと感じ入った日本の国土の成り立ちだったけれど、中国地方の脊梁山脈を軸に細長い風土に立ち入ると、よりいっそうに、南北に狭小な島国の成り立ちをイヤというほど実感させられた。

 ちなみに、その〈18日目と19日目の行程〉を辿ってみると。
 18日目/用瀬-(因美線)-東津山-(姫新線)-新見-(伯備線)-倉敷-(山陽本線)-福山-(福塩線)-塩町-(芸備線)-三次(泊)
 19日目/三次-(芸備線)-広島-(山陽本線)-三原-(呉線)-仁方-(仁堀航路)-堀江-(予讃本線)-伊予西条(泊)
 (ここ中国地方でも、過疎&赤字で廃止になった鉄道線路が多いなか、ぼくがこの2日間に乗った線区は、おかげさまでいま現在も健在)
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
  ……………

 ぼくは少年時代から、どうも情緒不安定なところがあって(あるいはただのワガママであったか…とも想う)、家出の真似ごとをくりかえして、家族に心配をかけていた。
 真似ごと、というのは、さすがに家出のリスクは大きすぎたので、フラッと家を出ては夕方まで、家からそう遠くはない辺りをほっつき歩いては、暗くなると家に帰って。さすがにスグには内に入れないので、しばらくは外をウロウロしながら「入りなさい」と声がかかるのを待つ…というふうだった(カワイくない奴)。

 それが高じて、電車通学の中学に進むとすぐに、旅ごころが芽を吹き。小遣いを貯めては、当時の国鉄「学割乗車券」と「ユースホステル」を利用して、高校卒業までに北は東北、西は中国地方まで足跡を記していた。

 したがって、山陽・山陰路には少しばかり親しみがあり、しかし…それだけに、新たなカタチの「片道最長切符」の旅にあたっては、(馴れてしまうことには気をつけなければ)自戒する気分もあった。

 このたびの、中国山地を挟んで往きつ戻りつの旅で、まずボクは、「山陰の赤(赤茶)、山陽の黒」という屋根瓦の色の対象に目を奪われている。はじめは、〈明・暗〉色と〈陰・陽〉とのとりあわせに意味合いを見いだし、やがて、その瓦色にも天候や立地によるさまざまなバリエーションがあることに気がついて、なぜかホッと安堵したり…。

 鳥取砂丘では、観光乗り物に連れてこられたラクダの、異国の風に吹かれる目の奥から哀しみをうけとり。「流しびな(雛)」行事で知られる用瀬〔もちがせ〕では、溜まった汚れ物の洗濯に、前に投宿したことがある民宿のお世話になり。
 しかし、倉敷や尾道には、惹かれても敢えて立ち寄りを避けてもいた。

 広島も…通りすぎた、が。
 それは、この〝原爆〟の街には、安易な気持ちでは立ち寄れなかった…からだ。

 その広島は、ぼくの旅の3年前、昭和44年(1969)に『新日本紀行』にとりあげられている。
  ……………

【註2】『新日本紀行
*2
  ……………





 「原爆の日」から「お盆」までの、ひと夏を追う…そんなカタチの番組だった。

 この年(44年)、「広島平和記念式典」がある「原爆の日」は、慰霊45回忌にもあたっていた。
 8月にはいると〝ヒロシマ〟の街には、各地から「平和行進」の人たちが到着したり、平和公園を〝反戦広場〟に『夜明けは近い』を唄う若者たちが集うなど、日々、喧噪に包まれていく。
 カメラは、そんな街の〈非日常のなかの日常〉を掘り起こしていきます。

 感性が、やっぱり、ふだんよりいっそう敏感にならざるをえない被爆者たちにとっては、「原爆の日」が前とは違ってきていることがわかる。それは、原爆の記憶も薄れ、消えかけているからだ…と。
 (あれから、さらに半世紀後の2020年いま現在は、もう70%もの人が「原爆の日」を知らなくなっている…という)

 とうぜん、「広島平和記念式典」の賑わいにも、これまでとはまた別の、より濃い翳りを佩びて感じられる。
 広島平和記念公園内の中心施設は、向こうに原爆ドームを望む原爆死没者慰霊碑だが、うすれゆく記憶を呼び覚ますようにありつづけるのが、1955年建立の原爆供養塔。円墳のような土盛りの中には数万柱の無縁仏の遺骨が納められ、その上に石造の塔が立てられている。

 広島は、いまも「誰かを探しつづけている」人のいるところ…と、ナレーションが語りかける。それは原爆死没者の「遺族探し」のこと。
 (2020年のいまは、遺族探しの数も814人まで減ってきている、という)

 たくさんの人が訪れる「広島原爆の日」の6日夜は、灯籠流し。
 数万にものぼる慰霊の燈籠が川を彩って流され。河口ちかくの下流に住み暮らす人のなかには、それらの燈籠が無事に海まで流れていくように、淀みに滞留する燈籠を棹で流れに押し出すことを、毎年のみずからの役目にしている人もある……

 「原爆の日」がすぎると、すぐに、お盆がやってくる。
 広島は、鎌倉・南北朝時代からつづく浄土真宗本願寺派〝安芸門徒〟の多い土地柄。盂蘭盆には朝顔の型に作った盆燈籠を墓に供える習わしがあり、この盆行事がすんで、暑く長い〈広島の夏〉も終えることになる。

 『よみがえる新日本紀行』の映像はそのあと、2020いま現在の広島市街、「川があって成り立つ街」を空から見渡す。
 …と、かつての「くすんだ」佇まいの街がいまは、「垢ぬけて明るい」ことに、あらためて気づかされる。
 もともと広島は、熱く(プロ野球の広島カープなどで盛り上がる)、明るい町なのだった。
  ……………

 「片道最長切符」の旅のボクは、そんな広島駅を通りすぎ、呉線に入って軍港の町呉も通り越し、19日目の夕暮れちかくなって、中国路をあとに四国へ渡っている。
 でも、さて、どこから…?

◆いまは無い「仁堀航路」のこと

 いまの、よほど旅の好きな人でも、JRの旧国鉄時代にあった鉄道航路で知っているのは、「青函連絡船」(青森-函館、青函トンネルの完成により1988年=昭和63年に廃止)か、「宇高連絡船」(宇野=宇野線岡山県-高松=予讃本線/香川県、瀬戸大橋開通にともない2019年=令和元年に事実上の廃止)くらいのもの。
 「仁堀連絡船」というのがあったことなど、ご存知なかろう、と思う。
 (蛇足を加えれば、あの名高い「安芸の宮島」にも、旧国鉄(現在はJR西日本)の「宮島連絡船」が運航されている)

 それも無理のない話しで。
 呉線「仁方」駅(広島県)と予讃本線「堀江」駅(愛媛県)の間に仁方航路が開かれたのは1946年(昭和21)、なんとボクが生まれた戦後の、すぐ翌年。宇高連絡船を補助する目的の航路であった。

 しかし、活躍できた期間がごく短く終わったのは、「多島海」とも呼ばれる瀬戸内海には民間フェリーも多彩に活躍したからであり。存在意義の薄いローカルなフェリー航路に格が下がってからは、マイナーな立地もあって「国鉄職員でも知らない者が多かった」と言われるほど。
 実際には、列車の乗り継ぎに利用されることは「皆無に近かった」そうな。

 それでも、交通公社の『時刻表』には掲載、接続列車の紹介付きで掲載されており。ぼくの「片道最長切符」計画でも、この仁堀航路と宇高連絡船の2つがあってはじめて、四国をルートに取りこめることになった、貴重な存在。
 (ぼくが鉄道に興味をもたず、最長切符を企てることがなければ、知らないままになった可能性がある)

 当時の『時刻表』(1972年3月号、148頁に掲載)による「仁方航路」は…。
 営業キロ70.0km(実キロは37.9km)、運航は朝・午後・夕方の3往復。
 (注記には、仁方駅から港まで徒歩5分、堀江駅から港まで徒歩10分、とある)
 所要2時間5分で、運賃は300円。
 ちなみに、就航船は安芸丸234トン、定員196名、中型自動車8台。

 このときのボクは、山陽本線から呉線に乗り入れる3938M列車で14:07仁方駅に着き、仁方港発14:30の5便で堀江港着16:35、堀江駅発17:14の予讃本線1138D列車で伊予西条駅(泊)に19:20に着いている。

 この航路について、ぼくは「ウラサビシイ船旅」と記している。
 いうまでもない、片や1日18往復もあって、特急・急行列車との接続にも恵まれた宇高航路と比較してのこと、その「雲泥の差、まるで比べものにならない」ことを嘆き。ついでに「仁方駅には駅員一人、堀江駅は無人」と、そのやりきれなさを綴ってもいた。
  ……………




 そんな仁方航路の、廃止は1982年(昭和57)。
 道路交通時代になった現在は、尾道今治〔いまばり〕ルート、通称「瀬戸内しまなみ海道」の橋がこの辺りを通っている。
  ……………

 四国に入っても、ぼくはしばらく、屋根に見惚れていた。瓦の色であった。 
 中国路では、山陰の赤瓦、山陽の黒瓦の対照が印象的だったけれど、四国のあたりでは、その屋根瓦の色が銀鼠(淡路瓦というらしい)の、じつにイイ色あい。そのせいで屋根の勾配まで平たくやさしく見えて…さすが南国。
 この屋根瓦に、ミカンの木の緑が匂うように映えていた。

 「今治」駅に列車が停まって。
 ぼくには、瀬戸内の、いまは海の向こうになった尾道の、ほんの数年前の、甘酸っぱいような感傷の記憶がよみがえる。
 そのときは失恋の痛手から逃れる旅で、瀬戸内の波静かな海に糸をひく雨が、ぼくにフと〝自死〟を想わせ。思いきり気分転換を励ます足が、フェリー乗り場へと向かったのだった…が。

 そこで、ぼくは、ひとり遊びの縄跳びに熱中する女の子に出逢った。
 せつなく人恋しくなる宵どき、ひとり遊びの事情は知る由もなく。
 ただ、その子の、ひたむきな熱中ぶりにボクは心ひかれて、つい声をかけたのだ。
「ここから出る船は大きいの?」
 女の子の背後に、「今治行き」の看板が見えていた。

 しかし
「うぅん、ちぃっちゃいわよ」
 ぼくは、なぜか、その声に救われた想いで乗るのをやめ、失恋感傷旅行にもケリをつけることができたのだった……
 
 そのときまで、ぼくにとって四国は「僻遠の地」であった。
 大袈裟ではなしに、外国よりも「遠い」感覚があった。心(理)距離というやつで、もろもろとりあわせての森羅万象が現実距離を超えて「遠ざけ」ていた、といっていい。
 そうして、それだけ思い入れも深いといえる四国路の、ぼくにとっての初夜が予讃本線の「伊予西条」駅、待合室の寝袋であった。

 その夜、駅近くの銭湯「福助湯」に1日の旅の疲れを癒し。
 閉じた瞼のスクリーンに想いだされた、過ぎし中国路とっておきのシーンは、古びた列車のボックス席。ぼくの前に坐って、ひとときの旅をつきあってくれた土地のお婆ちゃんが、ぽつりと言ったのだ。
「この川は、すてきに水が多いで。4~5日も雨が降ったら、もう、あっちもこっちも、み~んな水に浸かってしまいます」

 列車は、山陰本線「江津」駅から、山中の「浜原」駅まで分け入る〝寄り道区間〟の三江北線(2018年=平成30年春に廃止)。
 車窓に大きく流れる川は、中国山地貫流広島県島根県)するこの地方一の大河、中国太郎の別名もある「江〔ごう〕の川」。
 恵みの川は、また、氾濫を繰り返した川でもあったが。この川を、老婆は親し気に、奥深い趣をこめて「すてきに水が多い」と表現した。

 島国日本の、内陸へ。山や峠を越えていく道も鉄道も、川沿いに拓かれるのがキマリのようなもの。ほとんどの路や線路が流れに臨み、したがってトウゼン、天候が荒れれば崖は崩れ、低い土地は氾濫することになる。
 これからの旅も、ずっと、こうした海・川の流れとともにあることを、ぼくは思った。景観は佳い、潤いもある…が、災害ともいつも隣りあわせだ。

 後日談をすれば
 この旅の終わる7月中頃、現実に全国各地に豪雨被害があって。山陰地方もかなり酷かったらしい…ことは、このとき旅で知り合い、親しく接していただいた車掌さんからの便りで、詳しく知ることになり。
 国鉄(当時)は各線区でズタズタに寸断、なかでも江の川氾濫ぶりはもの凄くて。
「三江北線はいまなお全線不通、開通は来年にもちこされそう」
 とのことだった……


 
 







 

*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。