※オリンピック道路が墓地下をくぐる / 千駄ヶ谷「仙寿院」のこと…五輪再開はあるのか
-No.2645-
★2020年12月18日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3571日
★延期…オリンピック東京まで → 218日
★旧暦11月04日(月齢3.4)
◆晩秋の外苑いちょう並木
この秋は、黄葉がいまひとつ冴えない感じで。これはきっと、てんでキリっとしない、メリハリに乏しい気候によるのではないか。
ふと、季節の進みが遅いのでは…と思ったぼくは、11月末の金曜日に散策に出かけたのだ、けれど。結果は、どうやらボクがテレビ放映の画面を見誤ったらしく、すでに黄葉はあらかた散って、なごりの風情。ただ…高いてっぺんあたりの黄葉は、このシーズン趣にとぼしかったこと、これだけはマチガイなかった。
いつもなら、この季節。
「いちょう祭り」でにぎわう軟式球場前を新国立競技場方面へ。スタジアム通へ出たところにある「日本オリンピックミュージアム」を訪れたら、いつのまにか入場有料になっており。
これは、「新コロ」感染対策期間中の特別措置とのこと。館内はすでに前に見ており、「ジャパンスポーツオリンピックスクエア」になっている周辺を観て歩き、ですませる。
この日は、新国立を背後に望む五輪マークのモニュメントにも、記念撮影の人影はなく、開催延期の冬淋し……
◆競技場脇の「仙寿院」交差点
都道(補助24号線)と、外苑西通(キラー通)との交差点は「仙寿院」。
立地からして交通の要地…だが、コレといった風情もアテもなく、あらためて注意をはらう人もない。
…が、原宿駅方面へと向かう道下のトンネルが。
よくよく見れば不自然な在りよう、トンネル上に墓地らしき景色からして、いかにも曰くありげ(とってつけたよう…)な。
そう! じつはこの道のトンネルになったのには、ワケがある。
そこには、前回・東京オリンピック(1964=昭和39年)開催にまつわる経緯があったのだ、けれども、その前に…。
そこ(仙寿院)は、寺伝によれば徳川家康の側室養珠院(お万の方)にゆかり深く。始まりは養珠院が赤坂の紀州徳川家屋敷内に建立した草庵といわれ、正保元年(1664年)養珠院の実子で紀州徳川家初代・徳川頼宣によって現在地に移された。
江戸時代、ここ千駄ヶ谷は谷中の日暮里〔ひぐらしのさと〕に風景が似てることから「新日暮里」とも称され、これは日暮里があまりに有名になったため、西の方に新日暮里が誕生したもの、とのこと。
桜の名所として知られ、季節には遠方からも花見客が集まり、評判の美人がつくる「お仲だんご(団子)」が名物で、酒屋や田楽の店なども出て、おおいに賑わったといわれる。
東京に近く住み暮らしたボクも、ふだん身近ではない、この地の詳細を知る由はないのだ、けれど。
いまは国立競技場南方の市街地になってしまっているこの地も、明治の頃までは渋谷川東方の台地にあたり、流域の水田と代々木の森を見渡す景勝の地であった…と、『江戸名所図絵』にも記されてある。
ぼくは昔、その頃の風情を想ってみたが、とてものことに、到底およぶものではなかった。
時うつって現代、周辺の都市開発や付近を流れていた渋谷川の暗渠化などによって、いまは往時の趣まったく失われている。
その大きな変化のひとつが、近隣する国立競技場などを主会場に開催された第18回東京オリンピック。
急遽もとめられることになった交通アクセス整備の必要から、この地の高台にあった仙寿院の、墓地下を貫通する都道の建設が不可欠となり、やむなく歴史ある墓地下に「千駄ヶ谷トンネル」が穿たれることになった。
その国をあげての大事業にあたって、やむなく仙寿院墓地の墓石群はいったん掘り返されて撤去、トンネル完成後に元に戻された、そうで。「墓地下のオリンピック道路」は、いっとき話題になったそうだが…それも、ぼくの記憶にはない。
こんど訪れて見ると、なるほど高台の仙寿院墓地からは、新国立競技場の外観を望むことができた。
しかし……
敗戦後復興の〝復活〟アピールに燃えた前回オリンピックから56年を経て、今年2020年に開催されるはずだった、設備・整備に巨費を投じた大会は1年延期。
それでもなお、いまだに「新コロ」パンデミックに収束の目途は立たない、いま現在から、開催は現実的ではないのが、庶民の正直な思い。
だいいち、たとえ国内はどうにかなったとしても、ふたたび海外からウイルスが持ち込まれれば、感染再燃は避けようもない、のであり。
また、たとえ無理に無理を押して開催に踏み切ったとしても。来日観覧&観光客の数が大幅に制限されるのであれば、経済効果だって見込み薄は確実。
それどころか、むしろ、厳しい大会後〈負の遺産〉のなりゆきの方が大いにシンパイでしかない。
(あるのか……ないのか……)
脳裡に〈占い葉っぱ〉想い描いたら……
すごい葉数の化け葎〔むぐら〕……