どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※北極の危機深し、バイカル湖も危ない! /    でも…どっこい「ポリニヤ」があるさ!!

-No.2610-
★2020年11月13日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3536日
★延期…オリンピック東京まで → 253日
★旧暦9月28日(月齢27.3)




◆「新コロ」感染拡大第3波の冬…近し!

 ここ数日、冬の寒さが身に沁みてきた。
 そうして、「新コロ」と「インフル」ウイルス・ダブル感染を心配する専門家筋の声もあるのだ、けれど。
 それよりも、やっぱり…侮れなかった「新コロ」の、したたか極まりない生きのこり戦略に舌を巻くほかない、いま現在だ。

 これまで、想えば早や1年ちかくにもなる〈地球規模〉大事の経緯からして。まだまだ油断はキンモツだ、けれども。
 日本民族の「清潔好き」指向からして、90%以上の人が油断なく、日々を推移するかぎり、大爆発することはないが〈高どまり〉の情勢がつづくだろう…とボクには思われ。そのボクが指摘する〝サイド・バイ・サイド〟模様が、ある意味、美しいくらいにつづいていってほしい、と願うばかり。

 ちなみに、「インフルエンザ」と語源を同じくする「インフルエンサー(影響者)」なるコトバも、巷にヒタヒタと波紋を広げている。
 しかし、そもそもインフルエンサーというのは、「世間に与える影響力が大きい行動を行う人物のこと」で。

 言うまでもあるまいが、このブログを書くボクなんぞはその呼称におよばず、まぁ、「マイクロ・インフルエンサー」がいいところ…にチガイない。
 それくらいの分は心得ている。

 それよりも、この際「天高い空」でも見上げる気分で、目を向けておきたいのが。この〝青い惑星〟われらが生を享受する地球という、かけがえのない星の〝環境〟に、もうこれ以上の暴力的&壊滅的な打撃を加えてはならない…覚悟をきめること。
 野生動物たちに混じってウイルス族も数多生息、そのままに放っておくかぎりヒトにワルさをすることもない、彼らに与えられた居場所。
 〝深奥自然環境〟にイタズラな開発の手を突っ込むことは許されない…と思い知るべきなのだ。




◆北極からはシロクマ(ホッキョクグマ)の悲吠

 北極では、地球温暖化による海氷の激減が、ホッキョクグマを絶滅の危機に追いこんでいる…という報告があってから、すでに久しい。

 ホッキョクグマは器用に泳ぎもするが、水中に生きる〝遊泳〟動物ではない。
 いや(待て…)、これでは誤解が生じるかも知れないから、もう少し説明をくわえておこう。「海獣」という動物分類でいけばホッキョクグマもこの部類にちゃんと入っていて、海を目指したヒグマの仲間だ。

 喰うに困れば雑食もするが、好んで食餌にするのは動物(肉)食。アザラシを主に、オットセイ幼獣などの海獣を、とくに冬眠に入る前の時期には鱈腹むさぼって脂肪をたくわえねばならない。

 その狩りは、といえば主に、海氷に開いた穴からアザラシなどが呼吸のために顔を見せる、まさにそのときが狙い目であって。あくまでも勝負をつける重点は氷上。海中の泳力にかけては、とてものことにアザラシたちには敵うべくもなく。ラッコにもおよばず。ひいて近い存在をあげればカワウソだろう、けれど、彼らにだって泳力では太刀打ちできない。

 じつはホッキョクグマたちの絶滅が危惧される背景には、海氷の激減が彼らの狩りの場を奪い、やむをえず海に泳ぎでるところを、シャチやクジラに襲われる事態の頻発にある、という。
 くどいようだが、こと〝生きる〟うえでの手だてでいけば、狩りによる肉食が得策とは、けっして言えない。





ユーラシア大陸でも深刻な自然破壊がつづく

 北極海にもっとも縁の深いユーラシア大陸もまた、地球温暖化の渦中深くにある。
 いうまでもない海氷の減少が、これまで困難をきわめてきた北方航路(北極海航路、大圏航路)を可能にするからだ。
 地球上の移動距離を大幅に短縮する極圏航路の有利なことが知られ、空路の方はすでに開かれているから、のこるは貨物輸送を主目的にする船舶航路の開拓であったわけだが…。

 最近の大きなうごきとしては、バイカル湖の開発があげられる。
 世界自然遺産(1996年登録)のロシア・バイカル湖は、南北長約680km×東西幅約40~50km(最大幅80km)、湖水面積31,494㎢ (大きさは琵琶湖のおよそ46倍、アメリカ・スペリオル湖に次いで世界2位)、水量は、地球(地表面)にある淡水の2割を占める。
 「シベリアの真珠」 とも呼ばれる最大水深1,700mの三日月湖はまた、ガラパゴスと並ぶ「生物進化の博物館」 とも称され、約700もの動物固有種が生息する。

 このスケールの大きなバイカル湖の自然が、いま開発によって脅かされ始めている、という。
 周辺の森林伐採を可能にする法律(政府はシベリア鉄道の拡幅工事を目的として)がロシアで成立(7月24日)。これによって、淡水生のバイカルアザラシなど、湖の生態系や景観が損なわれる可能性がでてきた、というわけだ。

 大国のやることは結果も大きい。
 これで「世界遺産」から「危機遺産」リストに移されるおそれがある…とする専門家の指摘さえある。
 しかもロシア政府としては、「環境保護も大切だが、経済発展を妨げてはならない」(大統領報道官)方針、とのこと。

 これで自然保護区域の指定が解除になれば、森林喪失や湖水への燃料油流失なども懸念され、ユネスコ世界遺産登録要件に反することにもなる。

◆シベリアを襲う〝熱波〟と〝森林火災〟

 これだけじゃない、まだある。

 ロシアのシベリア地方では、ことし1月から6月にかけて、なんと「熱波(6月20日には、なんと東部ベルホヤンスクで過去最高とみられる38℃を観測)」に襲われ、その影響で現地では「永久凍土」の溶解や「森林火災」がつぎつぎと発生。
 こんなことは、人為的な地球温暖化がなければ起きえないし。また、温暖化さえなければ8万年に1回未満の割合でしか起こらないだろうと推定される、とも。

 この永久凍土溶解によって北極圏シベリアでは、凍土上の燃料タンクが損傷して大量の軽油が川や土壌に流出した、と言うし。大規模な森林火災では二酸化炭素を大量に排出、温暖化に拍車をかけた、とも言われる。

 専門家筋は「シベリアなどの高緯度地域ほど温暖化の影響があらわれやすい」と指摘する。
 結果、雪解けの時期に日射で地面が加熱され、気温上昇や凍土溶解をまねいたのだろう、と。
 いまやシベリア無茶苦茶、ロシア苦っ茶無っ茶。
  ……………

 ほかの大陸でも、あちこちで異常気象の報告があって…しかし、折からの「新コロ」騒ぎで、それどころではなくなった感、否めない。
 ほんとは、どちらも同じ環境問題なのだ、けれど。

 いっぽうで、この世紀中、早やければ30年代にも「地球寒冷化」が始まる…ともいわれる。
 「かかりつけ医」は冗談に、ぼくは90まで生きるかも…などと言う、けれど。予測どおりなら、その前に凍え死ぬか、あるいは凍結した道に足をとられて死ぬ、ことになりそうな気配。
 
 ため息と憂慮……
 (よそさまのことばかり言ってられない)



◆「ポリニヤ」…〝氷原の天窓〟

 そんなわけで、「北極の未来は明るい」なんて、とんでもない、なにやらワケのワカランことになってきた。
 豊富(に眠るとされる)な資源が救いとなるか、それとも地球規模の環境疲弊が重荷となるか…といえば、究極は後者に違いなく。

 されば、そのまえに。
 ぼくが、ぜひ一度お目にかかりたい…と思う北極の景観は、白夜でもオーロラでもない、「ポリニヤ」。

 ポリニヤというのは、「氷に囲まれた不凍の海水域」。あの極寒の、厳冬にあってさえ、けっして凍ることのない、碧々とした海。
 「海氷の穴」とも呼ばれるが、穴にしては規模がデカすぎるから、ぼく個人的には「氷原の天窓」とでも名づけたい。

 地形のいたずら…というか、ちょっとした加減で形成されるらしい、この「ポリニヤ」は、毎年ほぼ同じ場所にできる、らしい。
 冬になっても南に移住しないセイウチたち海獣や、イッカクやシロイルカなど鯨の仲間たちは、この〝氷原の天窓〟の海に棲息して命ながらえる。
 またときには、この氷海に集うモノたちによる定期的な呼吸によっても開くことがある、とわれる〝氷原の天窓〟。

 そこには、ここに集う生きものたちの肉をもとめて、ホッキョクグマもやってくるそうな。そんな「ポリニヤ」が消滅するようなことがあれば、彼らシロクマたちにとっては、それこそが絶滅のときでもあろう。
 
 おそらくは、地球環境にとって最悪のゴミ「マイクロ・プラスチック」も、まだ、この〝氷原の天窓〟の海までは来ていない…のではあるまいか(…と、じつは祈りたい気分)。
 北極海の最後の砦には、なんとしても、のこってほしい。
 そう願わずにはいられない!

 

 

※トラックの荷台で「せいや!」も、まぁ…いいかぁ! 季節はずれの浅草「三社祭」

-No.2607-
★2020年11月10日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3533日
★延期…オリンピック東京まで → 256日
★旧暦9月25日(月齢24.3)









◆祭りの朝は早い、のがきまり

 …であった。
 準備は前日までにすませてはあるが、祭りの日にはやはり、逸〔はや〕る気もちをかかえ、ひと足早く駆けつけるのが「若い衆」の心得であり、特権でもあった。

 ところが…
 いま浅草に向かう地下鉄銀座線に乗っているボクの、腕時計はすでに10時を大きくまわっていて、これには人知れず吾から苦笑いするしかない。
 まぁ…いいか! ぼくも、もう祭りでは、年寄りの分際だった。
  ……………

 10月18日、日曜日。
 夏(春)祭りが秋祭りになった、ことし「新コロ」禍の浅草・三社祭
 本社神輿「一之宮」の庫出し、清祓いが午前11時。
 年寄りはこれに間にあえばいい。

 異例の三社祭、ことしの祭礼は、従来の氏子連中による神輿担ぎ、連合渡御などすべてとりやめ。神輿は車に遷座されて巡行するが、その道筋も知らされず、沿道での参観もご遠慮ください、巡行の模様はライブ配信の動画投稿サイトでご覧いただけます…という。
 すべてが、およそ祭りらしくもない。

 銀座線の車内にも、例年なら見られる祭り装束の姿もなく…しかし…人出に遠慮気味の気配はなく、浅草駅の改札を出た人波は、雷門方面へ、あるいは墨田川やスカイツリーに向かう吾妻橋方面へと流れる。

 仲見世通の混雑を予想したボクは、脇道の馬車通を二天門を目指す。
 途中で、祭装束の若い衆と出逢い、「支度は…」「できました」「御神輿は…」「そろそろお出ましです」と簡潔な応え、気もちよい。

 二天門をくぐった先の浅草神社、鳥居の前はすでに大勢の人だかり。きょう、いわば非常時の入口はここひとつに絞られ、境内に入りたい人は、列に並んでマスク着用の確認、手指の消毒および体温チェックを受ける。
 ふと気がつけば、「密集」を避け、こちらの様子を遠見に、浅草寺西側の石段に居並ぶ一群の人たちがあった。

 神社境内、拝殿前にはすでに人垣ができて、お参りに来た人はやむをえず、その背後から遠く手を合わせる。報道陣や素人カメラマンたちのレンズが神事の開始を待っており。舞殿前の床几には、いま流の、「密接」を避ける仕切り。




 人混みの多くが、氏子町内や神輿会の関係者で、それぞれに揃いの印半纏を着こんで、仲間たちと談笑しあっている…のだが。
 いつもと違うのは、例年なら「宮出し」の先棒どりを競って、若い衆たちが熱く爪先立ち、殺気だってくる空気がないことだった。

 (やっぱり、これは祭じゃない!)
 そんな気分をいじわるに、「どぅ、ことしは…」声をかけたら、「しょうがない、けど、ダメだね、神輿は担がないと…」ぶっきら棒に応えた半纏は、もう仲間たちの方を向いていた。




  ……………

 見えないところで、お祓いが済み、人混みの頭の上を「一之宮」の神輿の上の鳳凰が拝殿前へと移動してくる。
 ここで、もういちど神事「神幸祭」が、やはり一般の氏子たちには見えないところで挙行され。
 神輿を待つ人たちの間からは、「どこからお出ましか」推測の声。関係者にも「渡御巡行」の細部は知らされていなかったらしい。

 ぼくのカメラ・アイは、神輿の出口を思案する(いいところで迎え・送りたい)も…結局、鳥居のある神社正面口しかないと思いきめる(神輿が裏口からお出ましになるワケがない!)。

 そんなわけで
 ぼくは、拝殿から鳥居へと延びる石畳に陣どっていたのだけれど。
 振り返れば、拝殿での神事の間に、いつのまにか、鳥居のところに設置されてあった、消毒&体温検知の装置が除かれており。
 間もなく、神輿渡御を先導する役の方たちが整理して、敷石道の両脇に人垣ができ、ぼくの目論見どおりになった。

 不時やむをえない「一之宮」だけの神輿(ふだんなら三之宮まで3つが勢ぞろいするところダ)は、幔幕飾りの台車に鎮座して、先祓いの太鼓につづき、懸命にお供の人々に供奉されながら…それでもやっぱり、不憫なくらい寂しげに鳥居をくぐって行く。神さまには誠に相すまないことながら、滑稽でしかなく。
 (「新コロ」禍は〝悲劇〟の連鎖を広げたが、そこにはまた、ずいぶん笑えない〝喜劇〟も混じった…なかでは、これなんぞ微笑ましいウチ)
 その後ろ姿に、氏子町内の印半纏組から「担がれなきゃぁ、神輿じゃねぇよな」と、惜しむような恨みがましいような声がかかった。
  ……………



 神輿は、そんな送りコトバを背に聞きながして、二天門から表の通りへ。
 ぼくの、2020年の「三社祭」もこれで終わり……

 着付けサービスの、着慣れない着物姿の若者たちの姿が、そろそろ戻り始めている仲見世通り。家内の土産に、ひさしぶりに「人形焼」と「揚げまんじゅう」を買う。店の主の顔がほころぶのを見るのも、ひさしぶり。
 ひやかして歩くスーベニール・ショップ系の方は、外人観光客を待ち遠し気に「まぁだ…これからだネ」と渋く笑っていた。




 ……………

 翌日の新聞朝刊には、雷門前を巡行する写真付きの記事が載っていた。表通りに出るところで台車からお移しされたのだろう、トラックの荷台に、居心地わるそうにモジモジして見えた。

 記事には、「お囃子が先導、マスク姿の宮司が人力車で後につづいた」とあり。約2時間をかけてゆっくり巡ったとのとこ。
 祭りはあくまでも「神さまにマチを診てもらうのが本来の目的」なのだから。
 
 ぼくは、「来年こそ神輿を担がせてもらう」と意気込んでいた浅草神社奉賛会・氏子連中の気もちを汲んで、ひとり吾が胸に「セイヤ、セイッ…」気合の声を口遊む。
 よく浅草っ子たちが、「終わってようやく年が明ける」というほどに入れ込む「三社祭」。
 ことしは季節はずれに遅れた分、来年は早々に初春が巡ってくることになる。



 

 
 
 

  

 

※ヨナグニサンの繁殖戦略に想う /        あらためて「自然(=神)こそ偉大!」

-No.2603-
★2020年11月06日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3529日
★延期…オリンピック東京まで → 260日
★旧暦9月21日(月齢20.3)





◆「新コロ」禍のひと夏を惜しむ

 秋台風のシーズンもおえ。
 秋空に赤とんぼが舞えば、蝶たちの表舞台もシーズンうちあげ、もうはや越冬の季節を迎える。

 ついに、この夏、話すキッカケを失ってしまったことがあった。
 つくづく想えば「新コロ」の奴めに、いいように鼻づらとって引きまわされてしまった、この夏。
 いっぽうでは、これもまた地球温暖化の影響とやら、日本列島を襲う台風の発生状況とコースも変わった。

 沖縄の島々から九州、中・四国とたどる、おきまりのコースが減って、かわりに関東地方を直撃するケースが増えてきている。が…

 ことし台風が沖縄・奄美を直撃することがあったときには、ぜひ、お伝えしておきたい…と思っていた、ある蝶の生態話がある。

 大きな蝶。
 …といえば、関東地方に生まれ育ったボクの体験では、オオミズアオが最大。
 ただ、これは蝶といっても蛾(ヤママユガ科)の仲間だ、けれども(ナニ世に言われるほどの画然とした差別はないのダ)。

 まだ、ぼくが小学生だった頃の、ある暑い夏。
 寝クタビれ寝ボケて目覚めた…というような塩梅のよくない早暁。ショボつく目をこすりながら出た庭の、まだ仄暗い隅っこ、物置小屋の壁に怪しげなモノを発見したボクは、(おっ…オオミズアオ)息を呑む想いで、ゾッと水を浴びせられたような感覚に浸されたのを覚えている。

 その蝶(…とボクは初め、そう思った)の翅は、水の青にやや薄い緑を滲ませた色に見え、翅を広げた大きさはたっぷり10センチくらいあったのではないか。静かにとまっている態はこの世のものとも思えない、〝黄泉のつかい〟を連想させ。翅の間に覗ける頭部には、多くの蛾に特徴的な櫛歯状の触覚が2本の高感度なアンテナのごとく見えていた。

 ぼくが蛾を苦手とする理由の最たるものが、この触覚であった。いまアンテナのごとく…といったが、ぼくにとっては実際、シビレるほどにこれがオソロシかった。

 じつをいえば、このとき、ぼくが「オオミズアオ」の名をナゼ知っていたのかは、いまだに吾ながら不明。というのは、興味は抱いても、ぼくは蝶マニアではなく。だから、きっと、図鑑かなにかで見知っていたものだろう。

 オオミズアオの種名は「アルテミス」。
 ギリシア神話の「狩猟・貞潔の女神」。アポロンヘリオスと同一視され太陽神とされたように、後にセレーネと同一視され「月の女神」とされ。また「闇の女神」ヘカテーと同一視もされて、三通りに姿を変えるものとも考えられた…という。

 こんな事情を知ったのは、このときの出逢いの、すぐ後。
 興奮して本を調べたとき。ぼくの印象では〝狩猟・貞潔の女神〟はチガウと思われ、そうして〝月の女神〟あるいは〝闇の女神〟にたどりついて、ようやく合点がいってコクンと腑に落ちた。
 日本の古名に「ユウガオビョウタン」というのがある…との紹介には、断然ナットクでもあった。

 ただ、さらにそれから、しばらく後。
 ぼくは、よく似た近縁種にオナガミズアオというのがいる、ことを知り。さて、ぼくの目撃したのは「オオ……」であったか「オナガ……」の方であったか、謎の霧につつまれた。
 「オナガ……」は、名のとおり翅の先端が尖っている、といわれても記憶は判然としないし、ただ「翅の青みがつよい」といわれると、たしかにそんなふうだった気もするばかり。

 生物に見る自然の驚異には、目を瞠ることが多いけれど。
 この「オオミズアオ」の場合にも、成虫はあんなに大型でありながら、すっかり口は退化して、もはや食べたり飲んだりすることもない、そうな。
 そんな生きものが、ほかにもないわけではない…けれど、その〝悲愴〟ぼくの胸を焦がして忘れ得ない。



◆台風のあと…をねらって羽化する

 大型で美しい蝶なら、〝愛と美と性の女神〟「アフロディーテ」に譬えられる「モルフォ蝶」がいる。「オオミズアオ」が〝翳りをまとった美〟なら、モルフォ蝶のは〝火に耀く美〟といっていい。それほどに、その水色はたしかに美しい。

 しかし、蝶の神秘は蛹にある…ことを知ってからのボクは、幼虫の「イモムシ」時代も含めて、より大型の蝶に惹かれるようになっていった。
 怪獣映画『モスラ』(1961年、東宝)の出来は、子どもごころにもウソっぽすぎてスキにはなれなかったけれど。そのモデルとされた「ヨナグニサン(与那国蚕)」には(いちど逢ってみたい)憧れを抱いた。
 そんな人が少なくないらしい(もちろん、なかには気味ワルく思う人もあるようだけれど…)のも、ワカル気がする。

 ぼくは沖縄の、石垣島から西表〔いりおもて〕島、さらに波照間島までは足跡を記したものの、最西端…すぐ向こうは台湾の、与那国島までは行きつけていない。
 石垣でも西表でも、お目にかかるチャンスはなかった。

 ご覧のとおり、エキゾチックでアラビアンなムードを醸しだす大きな蛾は、翅を広げると15センチ近くにもなる(大きいのは雌)というから、大人なら手いっぱい、子どもの顔ほどもあることになり。日本最大、世界でもオセアニアに棲息するヘラクレスサンに次ぐ2位の座にある。
 オオミズアオと同じヤママユガ科。赤褐色に白い三角の紋を散らした翅の、先端が鎌のように曲がっているのが最大の特徴で、これは「外敵を威嚇するため」といわれている。が、さて、どうか?…と、ぼくは首を傾げる(理由はあとで述べる)。

 「ヨナグニサン」は、その名のとおり沖縄の八重山諸島、なかでも石垣島西表島与那国島にしか分布していない。ヨーロッパで親しまれている名称は「アトラスガ」だし、中国では「皇蛾(皇帝のごとき蛾)」と呼ぶ。
 
 とは言うものの、しかし。
 じつはボク、この蝶(蛾)の実物は、どこかの昆虫館だったか温室植物園だったか、いまはもう覚えてもいないところで一度だけ、太い樹の幹にジッと留まっているのを見ただけ。記憶にあるのは、微かに翅をふるわせていた、ことだけ。

 あとは、標本に固唾を呑んで見入るばかり。ましてや飛ぶ姿も見てはいない。
 だが、そのことにも別に不思議はなくて、「ヨナグニサン」は飛ぶのが上手ではなく。島の民家の灯火に飛来する…とはいっても、実態は留まりに来るのだそうな。

 飛ぶことが珍しい、ばかりではない。
 「ヨナグニサン」は「オオミズアオ」と同じく、羽化後(成虫になってから)は口器(口吻)が退化し失われるために、それまでに蓄えた養分で生きるほか途なく、寿命はせいぜい1週間ほど、という。

 このへんから、ぼくは生物の繁殖行為(セックス)に、根源的な神秘性に感じてしまい、ほとんど涙するほかない。
 雌は、生まれるとすぐにフェロモンをふりまいて雄を呼び誘い、雄は触覚でこれを嗅ぎつけ駆けつける。これで命のかぎり、精一杯。雄は生殖の後、死を迎える。
 雌は、豆粒ほどの卵を産んだ後、これも間もなく息絶える。

 「ヨナグニサン」も「オオミズアオ」も、わが子の誕生を見ることはない。故郷の川に遡上して交尾・産卵のあと、傷つき果て「ほっちゃれ」になって生を終える鮭と同じだ。

 さらに「ヨナグニサン」の場合の、蛹から羽化への潮どき待ちの話しに、ぼくは涙こらえて天を仰ぐ。
 なんと! 台風の通り道…沖縄の地理環境を利用するという。

 卵から孵った幼虫は、節くれだって大きなイモムシ期を経て、やがて蛹になるわけだけれども。発生は年に3回というから、すべてが、この〝台風待ち〟できるわけでもないのだろうが…。

 なにしろ、樹の枝から垂下した蛹は、気圧の変化を感じとるものだろうか、台風の通過後にあわせて羽化する、とのこと。
 台風の時期をはずれるか、あるいはまた、たまたま台風の訪れはなくても、気圧の按配を診て羽化のときを測っているのやも知れない。
 ついでに申し添えておけば、この「ヨナグニサン」、熱帯性にもかかわらず高温を苦手にする…ともいわれる絶滅危惧種
  ……………

 与那国島には、「アヤミハビル(沖縄の方言でヨナグニサン)館」というのができており、ここで生態にふれることができるし。
 最近は、幼虫期40日間ほどを同じ樹の葉を食べる性質を利用、ヨナグニサンの糞(とても臭いらしい)で染色にも成功した、とのこと。
 山繭の糸で織物…だけではなかった!
  ……………
 
 おしまいに、さきほどボクが首を傾げた「ヨナグニサン」の翅の、蛇を思わせ敵を威嚇するのではないか…という説について。
 ぼくが感ずるままを言わせてもらえば、羽化後の「ヨナグニサン」の短命からして、またあるいは、大きく鎮まったその在り様からしても、あらためて威嚇の必要なし。ただ、その〝威〟もって制するのみ、と思える。

 ちなみに、もっとも怖い天敵はコバチの仲間。彼らは「ヨナグニサン」の幼虫に卵を産み付け寄生させる。それはかなりの高確率になる、とのこと。
 敵は、威嚇に怯えなくてもいいのであった…… 
 

※あなたもぜひ、やってごらんなさいな… /   「ローリング・ストック・デイ」

-No.2600
★2020年11月03日(火曜日、文化の日
★11.3.11フクシマから →3526日
★延期…オリンピック東京まで → 263日
★旧暦9月18日(月齢17.3)





◆ふりかえると…

 
 このブログでも、すでに8回、「ローリング・ストック」のことを語ってきた。
 「ローリングさせる(回転)」わけは、いうまでもない、「ストックする(蓄えておく)」だけでは、増えるばかり、やがて賞味期限切れの山になってしまうから。

 適当に折をみて「ストック」しておいた食品を食べ、減った分は新たに補充していくのがいい。ぼくん家では、そのために、ときおり「ローリング・ストック・デイ」と呼ぶ日をつくって、保存食の回転(兼、在庫チェック)にあてている。

 これも前に書いた。
 はじめは、その日を、あらかじめ〈予約〉したものだが、それも〈適当〉でいいことに気がついた。
 〈ゆるやか〉であれ。
  ……………

 いま現在、防災グッズとしての「ストック食(保存食・非常食)」事情はさて、どうなっているのだろう。
 きっと、この「新コロ」禍、影響下でどちらさまも買いだめがすすみ、「自然ストック」状態なのではあるまいか。

 ついでに、そう!
 より美味しそうなモノ、目新しいモノに食指がうごいているに違いない。

 以前(といっても、ほんの十数年前まで)の「非常食」といえば、「非常」の備えだから「味わい」は二の次…の考え方で。はっきりいえば「けっして旨いモノではない」のが常識であり。だから必要とは認めても、進んでストックしておく気にはなりにくい、欠点をもつものだった。

 それが、いつのまにか世の中かわって。
 新しい潮流は「非常食」を、災害など特別な場合の備えレベルから解放。ふだんの生活にも仲間入りしている「保存食」レベルに変えることで、親しみやすくすることに成功した。

 男女をとわず、ナニごとも趣味的に考える頭の持ち主がいるもので、この人たちが「ローリング・ストック」に取り組み始めると、「保存食・非常食」はオシャレなアイテムになっていった。

 「防災の日」も、それなりに定着した。
 けれども9月1日の日付が、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災にちなむものだ。…ということは、すでに遠い日のことになろうとしている。
  ……………

 (他人と同じ、じゃつまらない)へそ曲がりなぼくは、「新コロ」時代の「ローリング・ストック」事情を感じとりに。
 東京のオシャレな雑貨専門店のひとつ、広く若者たちにも知られる渋谷ロフトの「非常食コーナー」に出かけてみた。

 担当スタッフの身形からして垢ぬけした、このコーナーには、「非常食」と〈同居〉というより、むしろ地味なこれら商品群を〈リード〉するかたちで、キャンピング・グッズがガンバっていた。

 アウト・ドア派にも「非常食」携帯は常識だ、けれど、ここに置かれてある品々は「手軽なキャンプ向き」の便利グッズの数々…それらにまじって〈ちょい気の利いた〉しかも〈味わいにもひと工夫〉した品々が並ぶ。

 それらを見ていくと、〈持ち運び〉より〈ちょっとストック〉意識のものが多いことに気づく。
 つまり、〈賞味期限〉が1年ほどと短い(ふつう非常食なら3~5年くらい)ものや、レトルトのカレーでもアレコレ〈メニュー豊富〉といった具合だ。

 (なるほど…)とボクには頷けるものがある。
 世の中「新コロ」騒ぎで、あれこれ事情が変わったなかでも、目立って大きかったのは「食嗜好」と「趣味的アプローチ」だった。

 店での〈外食・飲食〉が激減、〈テイクアウトやセルフ・イート〉が増えればトーゼン、〈バラエティーの欲求〉がおきる。ふだんのコンビニやスーパーでは手に入らない種類の食品を、探してみたくなる。

 かつて山野や海川に親しんだOB・OGも含めて、〈アウトドアなキャンピング〉に目覚める人たちもでてくる。この場合、いうまでもない〈本格〉よりも〈手軽〉がトレンドになる。
 「食嗜好」と「趣味的アプローチ」の動向が、ここで合致・合流する。
  ……………

 「ローリング・ストック」しやすい環境の充実も、以前とは比べものにならない。食品メーカーのほとんどが「ローリング・ストック」の品揃えにのりだし、流通システムの参入も盛ん。
 味わいもメニューも豊かになった品揃えから、選び放題・試し放題の活況は、いまや〈通販〉利用だけで充分すぎるくらいだ。

 わが家では、キッチンに隣接する、ユーティリティー兼パントリーのスペースを「ローリング・ストック」コーナーに決め。
 棚の4つの仕切りに、賞味期限ごとに、「1年後まで」「1年以上2年後まで」…というふうに4年後までの品を収納。缶詰など5年以上保つモノは、順繰りにずらすことになっている。
 近ごろでは菓子類も加わっているのは、むしろ、小児のない家の〈ゆとり〉とでもいうものか。

 「ローリング・ストック」入れ替えは、基本2人共の心がけ…だが、やはり賞味の方はカミさん、補充の方はボクという分担、自然そういうことになる。
  ……………

 ロフトの「非常食コーナー」には、そのとき、独身と見える若い男子、幼子連れの若夫婦がショッピングに熱中、それに混じって後期高齢者と思しき男性がひとり、やや遠慮気味に棚の品々を物色していた。

 ぼくも、あれこれ手にとって見るうちに、こころ誘われるままに買い物モードになってしまい。7品ばかりを籠にレジへ。
 担当スタッフに訊ねると、「最近はこんなショッピング風景が定着した感じですね」と嬉しそうに笑っていた。
 いまどきはもはや、流行らないコーナーではない、ということだ。 
 
 チョイスした品のなかに、レトルトの「おでん」が入ったのは初、これまで「ストック品」に季節を意識したこともなかった。
 「カレー」メニューもちゃっかり入って、この国民食は「非常時」にもシッカリつぶしの利くことを、あらためて証明してみせた。

 明日は、ひさしぶりの試食を兼ねた「ロ-リング・ストック・(チェック)デイ」になるだろう。

 わが家では、「ローリング・ストック」を始めると同時に、「スプラウト」の栽培と「発芽豆」づくりを始めている。これは、いうまでもない食環境の連動で、新鮮な緑黄野菜を絶やさないように…の心がけである。

 
    
 

※「コバンザメ」の貧相…を考えなおす

-No.2596-
★2020年10月30日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3522日
★延期…オリンピック東京まで → 267日
★旧暦9月14日(月齢13.3)





★自然と環境に教えられたこと

 2年以上も前に、コバンザメについて書いたことを想いだして、読みかえしてみた。結果…
 ちと事情が変わった、と言うか、コバンザメのために付言しておかねばならないことに気づいたので、稿をあらためておきたい。

 ぼくのワルイくせで、思い入れ・思いこみがつよすぎ、つい踏み越してしまう。コバンザメの記事にも、それが認められたわけだけれども…。

 ともあれ
 まずは、その〈過去記事〉をあらためてお読みいただくことにしたい。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

「コバンザメ」的〈腰巾着〉な生き方の真相

  -No.2187-(2018年09月17日・火曜日)記事





★知られざる実像★

 なにしろ、ふざけた…というか、侮〔あなど〕られた…というのか、ばかに妙ちくりんな名ではある。

 水中ダイビングをしないボクは、「コバンザメ」という名を与えられた魚を、記録映像と水族館でした見たことがない。
 つまり、触ったこともなければ、もちろん食べてみたこともない。…そう…食べたいと思ったこともなかった。

★なにしろ貧相な魚である★

 ぼくは〈貧相〉というものに〈運否天賦〔うんぷてんぷ〕〉の不都合を感じる。じつに「ふとどき」で「不埒〔ふらち〕」なものと思う。「貧相は外道である」と断じたいくらいの、つよい憤りさえおぼえる者ダ。

 「コバンザメ」は貧相な魚である。
 成長しても人間でいえば子どもくらい(70cm)の、やたら細長いだけの魚体は体高にくらべて体長が8~14倍に達するという異形。
 そのガラっぽい体には、鰭ばかりが矢鱈に目立つ。

 体側には太い黒条がとおって、どこかしら、〝掃除魚〟で有名な「ホンソメワケベラ」に似たような…と思っていたら、なんと実際に「コバンザメ」の幼魚にも掃除魚生活をおくるものがある、そうな。
 (要は、そんなふうな生き態の魚……)

★ぜんぜん光っていない、小判のヒミツ★

 せっかく〈小判〉の名をいただきながら、きらびやかに輝くこともなく、ついでに勇猛な〈鮫〉とも全く無縁のスズキ目の魚ときている。

 唯一、目覚ましい進化の冴えを魅せる頭上背面の「コバン」は、じつは背鰭の一部が変形した〈吸盤〉なのだが、コレがなかなか精巧なデキ。
 ご覧のとおり、横向きに並んだ〈隔壁〉がミソで、これを操ることによって大型魚に吸い付いたり、あるいは離散したりする。

 そのシステムは
①吸い付くときは、その大型魚に接触すれば、吸盤の隔壁が立
 ち上がる。
②…と、海水との間に水圧差を生じさせることで強力に吸着。
 相手がウミガメの場合などは、腹を上に逆さまの体勢で吸い
 付く。
③この状態で、後ろ(尾の方)に引っぱられたって、なかな
 か、どうして離れるものではない。つまり、大型魚が高速で
 泳いでもダイジョウブ!
④そうして事情が変わったときには、コバンザメは吸い付いた
 大型魚より少し早く泳げばよい。
⑤すると、吸盤の隔壁は元のとおりに倒れて吸着力を失い、ぶ
 じ離脱に成功する、という仕掛けである。

 こうして彼らは、行く先こそ「あなたまかせ」ながら、省エネ、気ままな旅ができてしまう。

バガボンド(さすらい魚)の悲哀か…★

 ただし、その細長いだけの魚体からもワカルとおり、食生活は裕福とはいえないようだ。

 クジラやイルカ、サメやカジキやウミガメなど、大型海洋生物(ときには外洋船などにも…)」に吸い付いて暮らし。
 (イルカがジャンプするのは邪魔くさいコバンザメどもを振り払うためである…とする説もあるくらい、シツコイともいわれる)

 その狩りのオコボレにあずかる…といえばイイようだけれど、それだって、よっぽどの大物でも仕留めたときのほかは、大したことはあるまいし。
 現実の日常は、吸着した大型魚の寄生虫を齧るとか、排出物を喰わせてもらう、くらいが関の山らしい。

 こういう関係を、総じて「片利共生」とかいうのだけれど、このコバンザメの場合、実態は「おこぼれ寄生」でしかなさそうである。

「コバンザメ」のもつイメージが、どうも、ぼくだけではない多くの人々のあいだに、パッとしない理由も、どうやら、そのへんにありそうに思える。

 ぼくが最近になって見た、海の記録映像には、海底に並んだ6~7匹の「コバンザメ」
 なにをしているのかと怪しんでいたら、吸い付くのに良さそうな「移動物件」が通りかかるのを、待っているらしい情景とのことで。
 これには、ボク、わけもなく目頭がウルッとするのを抑えられなかった……

★見かけによらず旨い魚★  

 ただ、せめて「コバンザメ」の名誉のために、付言しておけば、このサカナ。
「好んで食べる人もいるくらい」
「外見からは想像もできないほど美味しく、白身に赤い血合いをはさんだ身肉は脂のノリもいい」
「親戚筋のスズキなんかより身質は上、舌ざわりからしてほのかに甘い」
「重宝な、いいサカナ、ばかにしちゃカワイソウすぎる」

 …などなどと、評判がよく。
 まだ食していないボクなんぞは、とりあえず「魚好きと言うワリにゃ…ねぇ」などと、陰口でもたたかれそうなアンバイである。
  ……………

 ここは、ひとつ。
 日本はもとより、ほとんど全世界の暖海域に棲み暮らす、この「コバンザメ」。
 じつは、大型魚に吸着して移動するばかりじゃなく、みずからの力で遊泳、回遊もする、という生き態を讃えて。

 海の「ヒッチハイカー」あるいは「ヒッピー」としておきましょうか!

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 いかがなものだろう…
 じつは記事の後段、アンダーラインをひいたところが、ミソ・ショウユで。

 いまから思えば、どうもボクはあのとき、あまりにもコバンザメを卑下して(卑しめ、見下して)書いていた。
 いま、おおいに反省している、ぼくのワルイ癖は、ついうっかり、スキあらばヒョッコリ顔をだしてしまう。
  ……………

 このたび
 ぼくを、おおいに反省させた記録画像は、日本の奄美大島の海でとらえられたコバンザメたちの、命を生き抜く生態。

 そこは、波静かな湾内の、浅い水深の砂地の海底だったけれども。
 コバンザメたちは、大型魚などに吸い付きもせずに落ち着いて、ひもじそうな様子も見せずに。なにかを待ち受けては、パクパクと口を動かしているのだった。

 ナレーションの謎解きによれば…
 じつは彼ら、〝養殖〟生簀に近い海底に、潮の流れに向きあうかたちに居並んでおり。つまり、養殖餌のオコボレを待っているのだ、と。
 
 ぼくは虚を衝かれる想いで、唖然となった。
 養殖〟生簀の囲い網の傍に、餌のおこぼれにあずかろうと集まる、中型魚や小魚たちがいることは知っていたけれど。
 まさかに、コバンザメまでが、どうしてか養殖餌の旨味を嗅ぎつけて生簀の傍に陣どり、吸い付くことも忘れた〝至福〟のひと時をすごしていようとは、思いがけなさすぎた。

 しかし
 よくよく考えてみれば、ごくフツウの算段。コバンザメたちだって、なるべくなら苦労することなしに、生きる手だてが欲しかっただけ、なのであった。
 彼らが、砂地の海底で待ち受けていたものは、おこぼれにあずかるために吸い付く相手…ばかりではなかったのであった。

 まことに相済まないことだった。

 奄美の暖かい海で、喰うに困らず生きる命、謳歌するコバンザメたち。彼らはそこで、生殖にも励むのはとうぜん自然のなりゆき。それが〈魚情〉というもの。
 ほかの海の個体に比べれば、栄養状態もよさそうに見えるオスは、ツとめぼしいメスに擦り寄ると得意の吸い付き技を駆使。体を揺すって愛撫するのであった……



 

  
 

※100年目の「国勢調査」考 / 調査員をつとめて感じたトゥデイズ・ジャパン

-No.2593-
★2020年10月27日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3519日
★延期…オリンピック東京まで → 270日
★旧暦9月11日(月齢10.3)


◆臨時国家公務員になる

 7月にスタート-とした「GO TO トラベル」で、すっかり「新コロ」禍も忘れ、浮足立った世の中。
 そんな折も折、ぼくのところへは町田市総務部からメールが入った。発信元は市政情報課統計担当。

 ぼくは、その通信内容を読む前にすでに(そうか5年か)、時のながれの早さを想った。

 その通信は、5年ごとの国家事業「国勢調査」の調査員を募るもの。
 経験者には「このたびもお願いできるか」ということで、応募の意思があれば知らせてほしい…とのこと。
 同時に別に、未経験の一般市民あてにも公募の告示がなされたわけである。

 ぼくの場合は、時間づかいが自由になるフリーランスでもあったから、60のときから参画して4度目になる。
 今回の「国勢調査」は、1920年(大正9)の第1回からかぞえて、ちょうど100年の節目になる、という。
 (冒頭の図は、その第1回のときの告知…神武天皇が描かれている)

 受諾応募のメールを返すとき、ふと、もういちど次回(齢80)までなら、このままいけば、まぁ、なんとかデキるかな…と考えた。

 「国勢調査員」というのは、公務員とはちがう一般市民にとって、ふだんは見ず知らずの市井の人々に接して、じかに民情にふれることができる、またとない機会。
 ただし、立場は「臨時国家公務員」となり、総務大臣からの任命書もある。

 けっして、安易に務められるラクな仕事じゃない…けれども。人の素顔、人情の機微をふれるチャンスは、とくに〈表現者〉にとってはきわめて貴重。なろうことなら、若い人たちにこそ、ぜひ経験してほしいと思うくらいだ。
  ……………
 そんなことを思いつつ日を送るうちに、いまどきの世情を物語る記事が、追っかけ新聞に載った。
 -今年100年の節目-「国勢調査 あり方は?」と問いかけるかたちで。
 内容のポイントは2つ。
 1つは、高齢化やコロナで「調査員が不足」について。
 じつは町田市でも、「調査員募集」の試みがくりかえしなされ、これは、かつてないコトだった。〝密接〟を避けろ…という状況では、調査員のなり手がないのもうなずける。〈1軒1軒しらみつぶし〉のできる時代でもない…のもたしかだ。

 もう1つは、「昨今は調査票の提出に協力的でない世帯も増えている」件。
 これは経験者なら誰しもが「うむ」と頷くことにチガイない。この傾向は、ぼくが参画した15年前からすでに始まっており、民情との乖離は回を追うごとに増して、5年前にはかなり難儀な事態になっており。
 極端に言えばヒドイ場合、「国勢調査…って、ナニそれ?」てなものだった。
 
 国勢調査は、1軒1軒戸別訪問の世界だから、限られた期間に、1人の調査員が受け持てる範囲にも限りがある。
 町田市のトータル調査員数は知らない…が。
 総務省によれば、全国での調査員総数は70万人を目標(前回同様)に市区町村に確保を呼びかけたものの、8月時点で60万人ほどにとどまっているとのことだった。

 そうだろうな…とボクも思う。
 言ってみれば営業事務のように配慮の要る仕事で、なにごともメンドウそうだし、こんどは「新コロ」感染の心配もある。君子危うきに近寄らず…であろう。

 もっと大きな現象は、「国」と「民」との意識の乖離だと思う。
 「国勢調査」はその名のとおり、「いま日本に暮らす人(外国人も含む)」を対象に国の政策策定の基礎資料(選挙区の区割り、地方税算定の基準、各種統計など)となるものだ。したがって「国」が知りたいのに対して、いま現在の「民」の方は、さほど「国」を大事には思っていない。つまり「国民」の義務感も薄い。

 保守党は懸命に「愛国心」を(持って)…と叫ぶが、民にしてみれば、日常に不都合さえなければ「国」より「自由」なのだ。
 煩雑な情報社会に翻弄され、どこに落とし穴が仕掛けられているか知れない不安な世間である。そんな現在に生きるには、できるかぎり吾が身にまつわる情報をソトに出さない(知られない)のがイチバンと心得るわけで、一概に「不協力」はケシカランとも言いきれない。

 若い世代を中心に、共働きや単身の世帯では、以前に比べてもハッキリ〈日中不在〉が数多く目立ち、世帯の表札さえ出さないのがアタリマエ、いまどきはそれが現実だ。
 つまり、ここに誰が暮らしているのかも、ワカラナイ。
 (いいだろう、放っといてくれ)というわけだ。

 「世帯」より「個人」を〈だいじ〉にする、いま現代に、「国勢調査」の在り方そのものが合わなくなっていることも指摘される。
 性的少数者(セクシャル・マイノリティー)の課題(同性カップルを調査対象として集計するのか)もある。



◆担当調査区で想ったこと

 9月に入ってすぐの「調査員事務説明会」で、資料の配布と説明を受ける。
 少人数を集めての〈分散開催〉は恒例のことだった、けれど、見知った顔にはひとつも出逢わなかった。

 実施要項と細則に変わりはなく、ただ「新コロ」感染のリスクを避けるため、なるべく直接の面会をなくし、インターホンによる通知に重きをおくように、ということだった。すでに採り入れられていた「インターネット回答」を、さらに積極的に推奨することも確認され、面談による聞き取りはなるべく避けること、とされた。

 それぞれの調査員がうけもつ「調査区」は、市の方で決めるわけだが。調査員にとっての関心はコレにある、といっていい。
 おのずと、いい地区(いろいろな意味で調査しやすいところ)とそうでない地区があることは、市民ならある程度は心得ているからだ。

 都市部の場合には、〈調査員が自宅から徒歩で回れる範囲〉が基本になっているらしい。ぼくの担当調査区は、これまでも概ね「良」のところばかりだったが、こんどは家からも近い足場の好さ。これには年齢の考慮が、あったのかも知れない。

 担当の「調査区」3つを、下見がてら「国勢調査のお知らせ」を配布して歩くことからスタート。
 追っかけ段ボール箱で届けられてきた「調査用品」を整理、指示に従って戸(個)別の調査用紙を作成、配布の順番・経路を作成。…しながら、予想される担当調査区を在りようを頭になぞってみる。
 自治会の役員を務めたこともあるので、地域の概略には馴染みがあった。

 担当調査区は、郊外の住宅地。
 民心は概ね安定しており、不安な要素はひとつも見あたらなかった。
 以前の担当調査区内には、一部エア・ポケットのように存在する穴ぐらのようなところがあって、そこの住民は呼び鈴にも応答なし、顔をあわせることがあっても無視するか睨みつけるか、のどちらか。
 正直、ゾッと背筋の寒くなる想いを味あわされたことさえあって。いうまでもない、調査への回答など望むべくもなかった。

 こんどの担当調査区の場合は、そんなオソレもなさそう。ただ、歳月はやはり住宅地の様相を変えていた。
 ぼくは、いま全国的な問題になっている〈空き家〉や〈放置家屋〉のことを心配したが、そんな家もほとんどなく。しかし高齢化地域に違いなく。では人口減かといえば、そのぶんは2世代・3世代住宅がカバーしているように見受けられ、地域人口は現状維持か漸減傾向あたり…だろうか。

◆ぶじ、なにごともなく、おえる

 
 本番の「調査員」の仕事は、下見をもとに作成した「調査区要図」をもとに「調査用紙一式」の入った封筒を、戸(個)別に配布することから。
 調査員は、身分を明示する総務省発行のネームカードを下げ、腕章を付け、フィールド・ワーク用のバインダーと手提げ袋を持っての巡回だ。

 いまはもう、ほとんど全戸に設置といっていい、インターホンで「国勢調査員」の来訪を告げ、「調査用紙入り封筒を郵便受けに入れさせてもらう」こと、「必要な調査用紙枚数」を確認、「回答はなるべく、個別ナンバーの割りあてられたインターネットを利用してもらいたい」こと、「あるいは用紙に記入・郵送してもらい、調査員による聞き取り記入は避けたい」旨を告げていく。
 たまたま留守の家があれば、「連絡メモ」に次回訪問の予定日時を記入して郵便受けへ。呼び鈴に応じて出てきてくださる方が、いつものことながら少なくなくてキョウシュクする。

 配布は順調。唯一コマッタのが集合住宅(アパート)で、まず、どの部屋が〈空き〉で、どこに〈住む人〉がいるのかに悩まされる。極端にいえば、人気のしない〈住戸〉さえあり。ベランダの物干し竿や電気メーターの動作などを見て…それでも判断に迷うことが少なくなかった。
 管理会社に問い合わせればいい、ことかも知れないが、「調査員」にそこまでの責任も権限もない。

 二回目の巡回訪問で、留守のお宅には「調査用紙一式」入りの封筒を郵便受けに入れさせてもらう。なにかあれば、専用の「コールセンター」に電話がいくことになり。ぼくの場合は計3件。コールセンターからの問い合わせと、調査用紙追加の指示があった。

 こんどの担当「調査区」は、民度のたかいと思われる地区だったせいか、一部マジメ(すぎる)ほどの対応が見られ。
 いちばんに吃驚させられたのは、すでに両親が亡くなって空き家然となったところに、別に住まいをもつ家族が、時折に訪れているらしいケースだった。
  ……………
 ともあれ、こうして。
 「国勢調査」は、はじめに「インターネット回答」が10月に入って締めきりになり。その後、「調査員」は「調査への回答はお済みですか」の文書を各戸に配布。
 その結果の集計された「回答状況確認表」が、担当部署から各「調査員」のもとに送られてきて一段落…の段取り。

 「調査員」はそれをもとに担当区の、詳細な回答状況をみずからの報告書にまとめる。回答状況のよしあしは、調査員の責任ではない…とはいえ、やはり大いに気になるところで。
 ぼくの場合は、このたびも、まぁまぁ優良…の部類だったのではないか。回答率は80%近くに達していた。

 「調査員」の仕事は最後に、途中確認ながら未提出だったお宅へ「調査票の提出のお願い」を配布して終了。
 詳しいことは知らされていないが、あとは、担当部署による調査(近所への簡易聞きとりなど)がのこされているようだ。

 仕事納めの「調査書類提出会」は10月の中旬。
 やはり少人数の分散方式で開催され。調査用品の返還、事務方による「調査書類」の検分があって、「ごくろうさま」となった。
 検分は、担当調査区の難易や調査員の個性にもよるのだろう、かかる時間に多少があり、細部事情聴取のおこなわれる場面も見られた。

 …が、ぼくの場合はおかげさまで、なにごともなく、ぶじ、おえることができた。
 担当「調査区」の方々に感謝あるのみ…

 おしまいに
 ひとつ感想をもうしあげておけば、〈戸別訪問〉形式の「国勢調査」はもう、現代時勢に適合していないこと明らか。
 〈抜本的に大改革〉のときではないか。

※「合掌造りの里~五箇山~」 / 『よみがえる新日本紀行』とともに…➃

-No.2589-
★2020年10月23日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3515日
★延期…オリンピック東京まで → 274日
★旧暦9月07日(月齢6.3)、上弦の月

※「新コロ」感染者が世界で4,000万人を超えた。それに比べるとニッポン(を含む東南アジア圏)の少なさが際立つ。これにはやっぱり、なにかしら特異な事情「ファクターX」があるとしか思えなくなってきた。




◆愛しき「端っこ線」

 16,000km「片道最長切符」鈍行列車の旅。
 枕崎駅(鹿児島県)を出発してから25日目のボクは、本州のほぼ中ほど、日本海側を北上して能登半島に立ち寄っていた。
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
  ……………

 前日に、北陸本線の「津幡〔つばた〕」駅(石川県)から、七尾線に乗り換えて能登半島に入り、終着駅「輪島」で一夜を明かしている。
 その折りの記事は9月14日付け既報「波濤の太鼓~奥能登・外浦~ / 『よみがえる新日本紀行』とともに…➁-補遺-」のとおり。
blog.hatena.ne.jp
 ……………

 ここで
 鉄道の旅に詳しい方なら(えっ…それってオカシイんじゃないの?)と、思われたかも知れない。
 そう。「片道最長切符」の旅というからには、〈線路はつづく〉のが基本中の基本のルールだから、スタートとゴールを除けば終着駅を通ることなど、ありえない。

 そのとおりなんだ…けれども。
 時刻表と大学ノートを机上に広げ、あれこれ「片道最長ルート」探索の試作と計算を繰り返すうちに、ぼくの頭のなかには、数ある〈一方でしか他の線路と繋がらないローカル線〉、終着駅でレールが途切れる〈片道〉路線(〝盲腸線〟などとも呼ばれた)のことが俄然、気になり出した。
 「終着駅」は「始発駅」でもあるのだが、こころ揺さぶられる響きとなれば、なぜか断然「終着駅」である。
 それとも、「行き止まり」の胸騒ぎは、男だけのものなんだろうか……

 そういうわけで、苦労してようやく「これぞ片道最長ルート」が確定できたとき、ぼくは、ボクが手にするボクだけの「片道最長切符」の旅は、有効日数65日間をめいっぱい使おうと思い決め。同時に「鈍行列車(=普通の各駅停車)で行く」こと、そして、胸騒ぎな存在の「端っこ線」にもできるかぎり「寄り道」をして行くことに、決めた。
 「寄り道」区間への旅は、その都度、別に切符を買えばいい。
 そのために嵩むことになった旅費を稼ぐために、ぼくはガンバって働いた。
 ……………
 
 ちなみに、この25日目のルートを辿ってみると、
 輪島-七尾線-穴水-能登線蛸島〔たこしま〕(※能登線/往復)-穴水-七尾線、※ここまで寄り道区間-津幡-北陸本線-富山-高山本線-高山(泊)

 この日の旅の途中、北陸本線の「高岡」駅(富山県)からは、内陸山間部へと向かう「端っこ線」城端〔じょうはな〕線というのがあって(この線はいまも健在)。

 その終着「城端」駅から、さらに奥深く。
 1日にごくかぎられた便数の、バスに揺られてやっと辿り着く先に、じつは〝陸の孤島〟と呼ばれる秘境「越中五箇山」があった。
 ……のだが……








◆「五箇山」は遠すぎて深すぎた

 日本地図の中部・北陸あたりを見てほしい、あるいは道路地図なら、もっとわかりやすいかも知れない(ざんねんがら時刻表のデフォルメされた地図では事情がハッキリしない)。

 ぼくが、このときは結局、秘境「越中五箇山」行きを諦めなければならなかったわけは、さらに、もうひとつあって。
 それは、もし、五箇山富山県)を越えて白川郷岐阜県)までバスで行ってしまうと、その先には、また別の「端っこ線」越美南線(現在の長良川鉄道)が待っていて、いずれ高山本線に合流してしまう…それはコマルのであった。
 (こんな困り方は滅多にない!)
  ……………

 そうして、このときは無念の涙を呑んだ秘境「越中五箇山」へ。ぼくはその後、縁あって度々、訪れるチャンスに恵まれたのだ、けれど。
 たびたび「ようこそ遠路はるばる」と迎えられた、そこは…あらためて「陸の孤島」そのままであり、「片道最長切符」の旅の範疇からは遥かに逸脱した存在であることを、思い知らされた想い出の秘境……

 その想い出をふくらませたテレビ番組が「新日本紀行~合掌造りの里・富山県五箇山」。放送は1970年(昭和45)のことだった。
  ……………

【註2】『新日本紀行
*2
  ……………

 その放送内容は驚くべきことに、半世紀後のいまも大勢に変わりはない。
 屋内の暮らしぶり…たとえば座敷のテレビとか、台所設備の〈しつらえ〉とかが新しくなっても。集落全体で年に一度、防火訓練の大掛かりな放水に観光客の歓声が沸くことはあっても、「合掌造りの里」は変わりようがなかった。

 はじめこそ、クギ1本つかわずに建てられた茅葺木造4層、急勾配の三角屋根構造の、モノ珍しさにイタく圧倒されたボクも。その内部の仕組みや暮らしぶりの詳細、冬はそれこそ〝陸の孤島〟になるしかない深い雪に閉ざされる生活を想うと、とても「ブラボー」とは言えなかったし。
 ましてや異国のブルーノ・タウト『日本美の再発見』のごとく、単純に賛美もできないものがのこった。

 ぼくたちの青春時代は、戦後の復興期とはいえ、各地方から「集団就職」の列車に揺られて上京する若者たちにとっての田舎は、(なんとか逃れ出たい因習の)古里なのであった。
 しかも入母屋合掌造りの茅葺屋根は、30年くらいに1度は、集落総出「結〔ゆい〕」の協力を得て行わなければならず。そのために集落中の家は皆、裏山の斜面に「茅場」と呼ばれる屋根材の収穫場をもって、農耕とはまた別の作業にも、あたらなければイケナイ。
 
 ぼくは五箇山を訪れるときにはいつも、その前にはかならず、合掌集落の全景を望める高台に立って見ることにしていた。神仏に参詣するのにも似た気分…といっていい。そうして帰りにはまた、同じ高台に立って別れを告げる…そのときに感ずる〝旅情の落差〟を忘れないように、シンと胸に刻みつけることにしていた。
  ……………

 ともあれ  
 ぼくが、この『新日本紀行』という番組を懐かしく、感情移入ゆたかに観るわけは…そこには紛れもない若き日の青春とその後が綯い交ぜになって投影されていたから。それで、想い出ぽろぽろ、なのであった……




*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。

◎『東京流れ者』口遊みつつ…「西新宿」をさすらう/ 東西自由通路から新宿中央公園まで

-No.2586-
★2020年10月20日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3512日
★延期…オリンピック東京まで → 277日
★旧暦9月04日(月齢3.3)





◆70年安保の新宿よみがえる

 なにごともない日常は貴〔たっと〕い。
 「新コロ」禍の日々が、おしえてくれた。…が、また…
 そんな日常は感性を鈍くすることも、「新コロ」禍がおしえてくれたこと。

 そんなわけで
 鈍りかけた感性とりもどそうと、出かけた新宿、ひさしぶりの東口に立ったとき、ぼくは、青春時代に嗅いだ新宿の汗ばんだ匂いを嗅ぎ、いつもナニかしらザワついていた街の音を遠く聴いて…目を上げた。
 
 人には、さまざまな感慨をこめて(なにか心うごかされることがあって)「天〔そら〕を仰ぐ」ことと、別にもうひとつ、似通った感情ながら心根にはより湿りけの濃い気分で「宙〔そら〕を見つめる」ことがある。

 そのときのボクは「宙を見つめた」…のだが、そこに「空」はなかった。
 (それでいい、新宿はいちばん地下の似合う街だった)

 この7月、開通したばかりの「東西自由通路」に脚がむく。
 まだ飾りっけのない化粧前の、ナンの変哲もない通路だったが、広さだけはたっぷりあって(あの頃のまんま…)。
 ぼくの想いは「新宿西口地下広場」の頃へと翔けもどる。
  ……………

 ときは60年代(新宿西口地下広場は61年にできた)も末の、70年安保を翌年にひかえた69年(昭和44)。「フォーク・ゲリラ」のシング・アウト群衆と機動隊との衝突で騒然とした時代があった。
 代表的なフォーク・ソングは岡林信康の『友よ』だったけれど、高田渡の『自衛隊に入ろう』も新宿では好んで唄われ、ノンセクト・ラジカル派に属したボクには、この唄の歌詞の、ゲンジツを遊離して浮いた違和感がいまも胸に刻まれている。
 
 当時の世相を震撼させた大事件、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地・総監室を占拠、クーデター決起をうながしたものの果たせず自決するのが、その翌くる70年(昭和45)…という時代背景。
 66年に完成していた新宿西口地下広場には、大型百貨店や地上バスターミナル(新宿駅西口バス乗り場)も新たに整備され、いま見る新宿駅西口の風景の基礎を作ったものだった。
 記憶は薄れたけれども、少なくとも、いまも、その頃の臭いは、そこここ嗅げる。

 あの頃の唄で、いまも、ときおり脳裡に泛ぶのは…
  〽流れ流れて 東京を
   そぞろ歩きは 軟派でも
   心にゃ硬派の 血が通う

   花の一匹 人生だ
   ああ 東京流れもの
   (※太字は筆者註)

 『東京流れ者
 有名なのは同名の映画(66年、鈴木清順監督)主演、渡哲也が唄った主題歌だったが。上記の歌詞は竹腰ひろ子盤(作詞、永井ひろし)。なお、この唄の原曲は作曲者不詳の伝承歌で、ほかにもいくつか別の歌詞がある。

 ぼくは、『東京流れ者』を低く口遊みつつ西口へと歩む。





新宿中央公園までのタウン・ウォーク

 そのまま、なにげもなく西口地下通路(中央通り下)。
 しばらく歩いて(なんでや…)、気がつけば都庁方面を目指す人の流れにのってしまっているのが、吾ながらオカシくて。
 モード学園が入るコクーンタワーまで来て、地上に出、斬新な彫刻的設計が特徴の高層ビルを仰ぐ。

 都民ではあっても、日ごろ、お国ほども大きな都庁まで赴くほどのこともなし。ましてやボクは、23区外の多摩地区に住む。

 コクーンタワーから新宿センタービル、三井ビル、リニューアルした住友ビルには大きなイベントスペース「三角広場」ができていた。

 やはり、この7月に開通したばかりの「東西自由通路」が、歌舞伎町などの繁華街をかかえる東口と、オフィス街の西口とを結んで〈地つづき〉になったことが、空気の流れにも人の流れにも大きかったようだ。
 これまでは〈自己完結型〉な、それぞれの超高層ビルが独立(孤立)するイメージだった〝垂直の街〟が、横のつながりをもつようになった、と関係者はいう。

 たとえば、いちばんに注目され、期待もされる災害時の対応。
 最大で約29万人の帰宅困難者が予想される西口のエリア内の人を、オープン・スペースを受け皿に活用の方針。住友ビルの三角広場には3,850人を受け容れる用意がある、そうな。

 都庁ビル群を左手に見て、公園通との交差点を渡ると。
 目の前には、とても副都心に在るとは思えない、広大な広がりの芝生広場。広さはおよそ8,500平方メートルという。
 その日は週明けの月曜日だった…けれども、折よくランチタイムどき。これまた7月にオープンしたばかりという園内には、カップルや家族連れが思い思いに輪をつくり、弁当を広げたり、そぞろ歩きの散策を愉しんでいる。
 
 園内に開業した交流拠点施設「SHUKNOVA(シュクノバ=宿場町の緑側空間)」には、フリー・ユースのテラスや飲食店にくわえて、フィットネスクラブまでできていたのが、まさしくいま風。
 この空間を見るかぎり、「新コロ」の翳りなど皆無であった。
  ……………
 
 想えば、いまある超高層ビル街「新宿副都心」の、都市計画事業がスタートしたのは60年(昭和35)。
 かつて、この辺りには玉川上水を引き入れた東京水道の要、「淀橋浄水場」がデンと腰を据えていた。明治政府が目指した近代化の目玉、水道インフラの充実は都市衛生の将来を約束するものでもあったのだ。

 その「ヨドバシ」を名乗るカメラ量販店(現在はマルチメディア量販店)が、いまも西口駅前に拠点を置いている。
 チェーンストアのどの店舗も駅前に立地する、「レールサイド戦略」と呼ばれる商法も健在であった。 








  

◎渋谷の「ミヤシタ パーク」って…!? / そうとも…もとはあの「宮下公園」

-No.2579-
★2020年10月13日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3505日
★延期…オリンピック東京まで → 284日
★旧暦8月26日(月齢24.7)






◆再開発で「ブヤ」はどうなる…

 このところ、ぼくは渋谷づいている。
 再開発の進むなか、いちど迷い込んだら、そのたびに方向感覚の再チェックをしなければならない、ヤヤコシさにフと眉を顰〔しかめ〕めキョトキョトしながら、大都会ならではの危なっかしさ秘めた迷路のドキドキ感もたっぷりだ。

 さきに(5日記事)、地上230mの渋谷スカイ「展望装置」を名乗る空間上に浮きたったとき。ふだんの高所恐怖症も忘れて覗きこんだ下界、新宿方向の直下に、山手線の線路に沿ってつづくグリーン・ベルトに魅入られた。
 宮下公園! 不思議な懐かしさ(しかし…そこに以前の猥雑感はもはや皆無)に心惹かれた。

 渋谷駅の東側、表参道の界隈からは、青山通を宮益坂へと下る。
 反対の西側からは、道玄坂が下ってくる。
 もじどおり「渋谷」は、シブい「谷」地形のなか。

 そんな渋谷駅への東側からの近道、宮益坂の下に宮下公園はあって。そこはかつて、雑多な衆人が集うことで知られた〈解放された空間〉。
 つまり、きれいでオシャレな街づくりを目指す役所から見れば、なにより嫌がられるホームレスの溜まり場でもあった。
  ……………

 後日、あらためて宮下公園の辺りを散歩に出かけた。

 想えば……
 東海道すじ京浜工業地帯の川崎に育ったボクにとって、子どもの頃の渋谷は、国鉄の古めかしくも貧しげな南武線武蔵小杉駅から東横線乗り換えて行く〈よそゆき〉の街。なかなか馴染めるところまではいかないところ、つまり敷居が高かった。

 そんな渋谷がグンと身近になったのは、上智大学に進んでから学生コンパの街になったからだろう。はじめは、地元の四ツ谷しんみち通りから新宿へと出張っていたのが、「ジュク」を根城にする大学が他に多かったせいもあって、学生間に「ブヤ」に新規開拓の心意気が芽生えた。
 また、大学紛争がはじまってデモになると、機動隊に追われて逃げる向きも「ジュク」方角に傾くことが多く、すると自然「ブヤ」は都合のいい緩衝地帯になったこともある。そんなときには、よく宮下公園でホッと息を抜いた。

 渋谷が、やがて西口の公園通方面から原宿ムードに染まり、いま見るようなヤングタウン化していくのは、その後のことになる。





◆谷地形にある渋谷、渋谷川の岸を嵩上げした宮下辺り

 まだ駅近辺は再開発の波おさまらない渋谷、ひさしぶりの宮益坂下。
 前から宮下公園は、宮益坂と交差する明治通の路面より一段高く、山手線の線路と同じくらいに嵩上げされていたのだが…。いまは、なんと4階建ての巨大モールのごとき「ミヤシタ パーク」、細長い立体ビル上の公園(全長330m)に変身を遂げている。
 
 戦前の1930(昭和9)年、宮下公園ができたときは、まだ平地だったという。
 それが戦後の1964年(昭和39)、前回・東京オリンピック開催の頃に近接する渋谷川を暗渠化、その人工地盤上に「東京初の屋上公園」(下は駐車場)として整備されたことは、ぼくも覚えている。

 ……………

 それから、半世紀を上まわる歳月を経て、
 宮下公園の再整備は2011年から。

 ざんねんながらボクには、この時期の記憶がほとんど無い。…というのも、この年、春まだ早い3月11日、あの東日本大震災+大津波+フクシマ原発爆発の一大事があって、ニッポンが大きく揺さぶられたからである。
 あれからの9年余りは、戦後を見とどけるボクの役目と心得て、被災地に脚を運び、寄り添うなんて…とんでもない、そんなんじゃない、ぼく自身のすべてを見なおす
ときをすごすのに精一杯だった…。 
 
 その間に、じつは、ホームレス事情を含むあれこれスッタモンダもあった宮下公園の再開発。いちどあった〈仕切り直し〉を乗り越えて、いま見る姿になっていた。
 出戻り…みたいなボクにとっては、ほとんど(おぉ)驚きの新世界。
 
 3階までは、タウン・ムードただよわせる高級ブランド店やスポーツ・ブランド店街に土産物店もまじる、むかしからの渋谷らしい〝雑多〟なふんいき。わるくない…が、これはいま、どこにでも見られる風景でもあって、とくに目新しさはない。
 屋上4階の公園に上がって、やっと広がりの開放空間「ミヤシタ パーク」に出逢い、ホッとする。

 芝生の広場には、思い思いに散策のひと時をすごす人々の、なごみの姿がゆったりと散らばり。ふと見上げると、すぐ南の空高くに「渋谷スカイ」の展望空間、ゆく夏を惜しむかのつよい陽を浴びて、こちらを見ていると思しき人影をクッキリと際だたせている。
 園地には、駅前ランドマークの「ハチ公像」も新たな居場所を与えられており、こちらの方がすべてに明るいぶん、気もちよさそうに見える。

 この広場は高層ホテルのロビー階につながり、ボルダリングウォールとスケート場には親子連れの、なごやかに憩う姿がほほえましい。
 ここには、フットサル・コートや、ビーチ・バレーが楽しめるサンド・コートまである。ただし、
 開けてはいても、やはり広がりにはとぼしい、ビルの谷間…から連想がいきなり『ウエストサイド・ストーリー』に飛んだのは、ぼくの時代錯誤だったかも知れない。

 「ミヤシタ パーク」から渋谷駅前へと戻る、これも手狭な一画には、いかにも(古びた)風情で「のんべい横丁」が、ぼくもかつて晩くまで呑んだ覚えがある…夜の商売に草臥れたのか、「新コロナ禍」のいま惰眠をむさぼるかのように見えた。
 振興のパークの1階にも、次世代向きとでもいうのか、「渋谷横丁」なる提灯・暖簾街ができており。これは、どう見ても装い新たな新興勢力の方に、はるかに分があるにちがいない。
  ……………

 駅前のスクランブル交差点、信号脇に立ってあらためて見上げると、「渋谷スカイ」の高層が、秋田夏祭りの「竿灯」のごとくに、こちらに傾きかかって見えたのがオカシかった。
 こんな場面に、漱石とか露伴とか寅彦とか、あの頃の文人たちが出逢っていたら…さて、ナンと呟いたことだろう……



 

 
 


 

◎「三密」回避は〝自助〟…来春初詣の明治神宮 / 門前下車駅「原宿」の旧駅舎ひとあし早くサヨウナラ

-No.2575-
★2020年10月09日(金曜日)
★11.3.11フクシマから →3501日
★延期…オリンピック東京まで → 288日
★旧暦8月22日(月齢20.7)

(左)2020年10月現在の「原宿」旧駅舎
(上)2016年夏
◆来る新年「初詣」にどう対処するか!?

 全国、津々浦々の神社・仏閣では、いまから頭を悩ませている、という。
 江戸っ子に生まれた家の親父さんは、進歩的な考えをもちながら、皇居へ参賀に出掛け、初詣は明治神宮であった。日本橋に育ちながら、水天宮でも神田明神でもなし、こればっかりは好きな浅草の観音様でもなかった。

 なにしろ町歩きの好きだった親父さんに手を引かれ、だからボクは明治神宮への参道もよく歩かされた。
 いまは、初詣の気分もだいぶ変わって、さて(今年はどこにしようか…)などと考えるようにもなったが、そんな心のどこかに(やはり拠りどころあるべきだろう)気もちが湧くのは、親父さんの影響かも知れない。
 いまは小田急の沿線に住んでいるから、明治神宮詣でなら参宮橋駅で下車、西参道を歩けばいいのだが、そこはやはり、原宿駅から南参道を進んで行くのが本統だろうと考える…これも子どもの頃からの習わし、というやつなのだろう。

 そんな明治神宮、2021年(令和3)の初詣対策は、結局のところ「手水の省略」程度にとどまり、参拝はなるべく「人混みを避けて」と、個々人の〝自助〟に頼るしかなくなったようだし。また、日本国民なら、きっと、これに従う。
  ……………

 都内で最古の木造駅舎、原宿駅は大正末期の13年(1924)に完成。その4年後に創建された明治神宮の玄関口となってひさしい。
 その頃の時代背景として、「郊外や自然を重視する田園思想が広がり、西洋風の生活様式も浸透し始めて、牧歌的な外観の木造建築は庶民に受け容れられやすかったからだろう」と。これは長じてから、なにかの本か資料か、あるいは展示の説明かで読んだ記憶がある。

 ぼくが、戦後すぐのこの世に生をうけることになった先の大戦、敗戦直前の45年4月の空襲では、10発ほどの米軍の焼夷弾が駅を直撃するも、すべてが不発におわって焼失を免れたという、〈奇跡〉のエピソードものこり。
 この話しは、親父さんから聞かされていた。

 ぼくが初めて原宿の駅と出逢ったのは、それから5~6年の後だったろう。
 四方を向いた三角屋根、尖塔の上には風見鶏。白壁を囲う柱や梁を「あらわし(むきだし)」にした「ハーフ・ティンバー」と呼ばれる造りは、西欧の建築様式。
 竜宮城を模した小田急線・江ノ島駅を〈絵本の世界〉とすれば、この原宿駅は〈文明の薫風〉子ども心にも、ときめくものがあった。

 戦後復興、経済成長のなかで迎えたボクの青春期、前回64年の東京オリンピックのときは、この駅から歩5分の国立代々木競技場が水泳などの競技会場になってにぎわったことも、よ~く覚えている。ただし当時、
 ぼくの興味は、断然、陸上アスリートたちの熱戦に湧く国立競技場だったけれど、新建築の外観として際立ってステキなのは代々木の方だった。
  ……………

 それから後の原宿界隈から、ぼくは段々に遠ざかる。理由は簡単、趣味の問題だったろうと思うのだ。
 たとえば「ホコ天歩行者天国)」は原宿駅近くにも登場したが、ぼくが好んで通ったのは、やはり銀座の方であり、「竹の子族」や「ローラー族」のいる風景はただ遠く、無縁な世界でしかなかった。

 つまり、いつのまにか「若者たちの聖地」と呼ばれるようになっていた原宿は、〈毎日が縁日〉のお祭り風景の街。そのシンボリックな位置に原宿駅が、寺社になりかわって在る…まぁ、そんな感じで。
 ぼくなんぞは、その入り口に立たされて、ただト惑うばかりであった、が。


◆原宿駅舎96年 お別れ

 
 まだ酷暑のつづく8月22日、土曜日。東京新聞の記事に目を惹かれた。

 いまは、現代若者文化へのアクセス拠点というべきか。ファッションやスイーツの店がひしめく竹下通りや表参道エリアへの入り口。
 …というより、やっぱり〈ニッポンの和・洋文化かおる2階の窓辺〉と呼んだほうがふさわしいかと思う。

 その老朽化した原宿駅舎は、ことし3月。隣接して完成した新駅舎にバトンタッチして「引退」。24日から始まる解体工事で姿を消すことになる、というので。

 (見おさめておきたい)心をうごかされたのは、近くまでは行っても、敷居を跨いでまで訪れることもないままにすごしてしまった日々への改悟。遠い親戚の家へ(ごぶさた)の挨拶をしておきたい気もち…でもあったろうか。

 東京生まれには故郷と呼ぶべき原風景というものがない、といわれてひさしい境遇に、「在日ニッポン人二世」の文化で洗われた身には、いつも、なにかしら淋しい気分が拭えないのは事実であった。

 しかし…
 それから、ひと月あまり。
 「新コロ」自粛ムードの長びくまま、すっかり出遅れてしまったから、もうダメ(疾うに無くなってる)かも…と案じながら出掛けたら、工事現場囲いのなかに、旧駅舎の上部はまだ懐かしい姿でのこっていた。

 新聞記事には、現行の建築基準法に適合しない建物は解体されるものの、外観を再現した建物になってのこされる予定とあったし。そこには、とうぜん、ステンドグラスなど旧駅舎の資材も使われる見込み、とのことだったので。
 どうやら文化財保存に匹敵する慎重さで、作業は進められているらしかった。

 駅前の道を挟んで向かいは、いま、北欧家具イケアの原宿店になっており、2階のスウェーデン・カフェ&コンビニのガラス張りフロアからは、旧駅舎の在りし日を偲ぶことができた…が。
 いまどきのファッション&ショッピング世代には、もはや、そんな感傷は皆無にちがいない。だれも、通りに立ちどまって眺める人とてなくて。

 わずかに、ぼくひとり。
 三角屋根、尖塔上の風見鶏から明治神宮の森の緑への上空を、しばしいっとき、遠く遥かに眺めてきた……

 帰路、新宿方面行き山手線・外回り電車に乗ったら、間もなく進行方向右手に、これもかつて原宿駅名物だった「皇室専用ホーム」が、こちらは健在。
 きっと、まだしばらくの間は、臨時にお役立ちの場面があるやも知れない…ということなのだろう。

 

※ぼくらは〝音〟にめぐまれているか? /     『ようこそ映画音響の世界へ』を聴きにゆく

-No.2572-
★2020年10月06日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 3498日
★延期…オリンピック東京まで → 291日
★旧暦8月19日(月齢17.7)




◆〈音〉の世界が心地よくない

 ぼくは〈難聴〉気味の、医学的には耳鼻科補聴器外来の患者だ。
 きっかけは、もう20年以上も前にさかのぼる。
 南伊豆、現役ばりばり漁師さんの船に同乗させてもらって、伊豆大島沖の金目鯛漁を取材したとき。わが耳、聴覚の不良ないしは不足にイタく気づかされた。

 高速化した現代の漁船は船足の早いぶん、容赦なく喧しいエンジン音を撒き散らして突っ奔〔ぱし〕る。
 このときの相手は、腕も評判なら口も達者な、取材者にとってはありがたい好敵手。漁場へと向かう船出のときから、あれこれ漁の話しに花が咲き、火花も散った。
 ところが、沿岸域を離れエンジンがフル・スロットルになると、相手のコトバが通じない。耳に手をあてて聞き耳をたて、聞きとれなければ何度も聞き返して…しかし、どうにも埒〔らち〕があかないので、ついにギブ・アップ、会話の断片のうち重要キーワードと思しいのを手帳にメモっておいて、帰港後に再度、追加取材をさせてもらった。

 そのときの漁師さんの(ご存知だろうか、彼らは総じて気が短い)、つとめて辛抱づよい笑顔の応答が、ぼくにはひどく皮肉にコタエた。
 そのすぐ後には、有機農業者の方の車に同乗させてもらっての収穫取材行で、やはり相手の説明がなかなか聞きとれなかった。その上に…
 農業者も、根っから鷹揚な方ばかりとはかぎらない。話に熱が入ると、助手席のボクの方に顔軸を据えて向け、両の手ともハンドルから離れる一瞬があったりするのがコワいようで、これもまた骨身に沁みてコタエた。

 それからの10年ほどは、吾が聴力に疑問を抱きながら、だましだましの聞きとり会話がつづいて。
 ついに意をけっしての耳鼻科診療、大学病院での聴力検査などの結果によると。
 
 ぼくのタイプは、内耳および聴神経の〈音を感じる部位の障害〉による「感音性難聴」(外耳および中耳の〈音を伝える部位の障害〉による「伝音性難聴」もある)。
 治療で、回復の可能性があるのは伝音声難聴で、感音性の難聴は治癒が難しい…加齢による難聴の多くがこのタイプ、と言われ。
 原因は、聴力のカギをにぎる内耳(蝸牛)の有毛細胞の摩耗・減退で、いまのところ有毛細胞再生の術〔すべ〕はなく、補聴器の助けを借りることになる。
 正常聴力の70%くらいまでしか聞こえていない、ぼくの場合は「中程度難聴」と診断され、より有効といわれる両耳に補聴器を着けることになった。
 ここまではナットクである。ぼくは、基本「餅は餅屋」のヒトである。

 だが、そこから先に……




◆険阻な径〔みち〕が待っていた!

 聴力が正常(…かどうかの判定も、じつはムツカシイのだが)な方にも、聞こえ難くなったときのモドカシさや、ときには苦痛の、想像はつくだろう。
 「よく聞こえない」と言うほかに、症状の説明しようがなかったりする、からだ。
 それはたとえば、外傷よりも内臓系の、複雑多岐な「痛み」を表現する難しさにも、相通ずる。

 補聴器を最初に着けるときの、微妙な調整の難しさから、それは始まった。
 「難聴」といわれるものの状況の、まだ正確な把握さえできない状態で、聞きとるための「音」を、しかも心地よくする手だてを模索する…ということなど、これまでに考えたこともなければ、思ってもみなかった者にとっては、どれほど隔靴掻痒〔かっかそうよう=はがゆく、もどかしいコト〕の困難事であったことか。

 ともあれ、そうして。
 はじめは月に1度、やがて3月に1度の診察と、ほぼ半年ごとの検査とで、気の遠くなるような、しかも、はじめから〈制限時間なしの延長戦〉をスタートした。
 診察といっても、「どうですか?」「はぁ、まぁ、とくにこれといった変化はありませんが…」「では、つづけて様子を診ていきましょう」てな調子で。患者にとって〈診察とは名ばかり〉の、覚束ないこと、おびただしく。
 なにより、〈難聴の患者〉と〈聴覚になんの問題もない医療関係者〉との間に、厳然と立ちはだかる高いベルリンの壁は、いかんともしがたく。

 途中で、あきらめて診察・治療から脱落していく者と、入れ替わりに新規患者となってくる者とが、待合室で交錯。
 あらためて、「耳」に問題をかかえる人の多いこと、小児にも「難聴」の患者がかなりあることに、あらためて気づかされ。

 そのうちに、待合室ですごすケッコウ長い時間、ぼくは「音」と「聞こえ」に対する諸々の事情を、やむをえず考察するようになっていった。

 すると……



◆〝音〟も〝環境問題〟にいきつく

 記憶にあるかぎり、だけれど、ぼくが「耳に聴く音」として最初に意識したのは「闇にもある音」だった。深い闇にはたしかに、なにか目には見えないものの存在を
感じさせる類いの、微かな音が在った。
 しかし、それは時とともに、「聴きとろうとする音」と「聴こうとする耳に邪魔な雑音」との群れに紛れ、薄れていった。
 それでも、じつは、いまでも「闇の音」に気づくことはある…が、いまのそれは現実から記憶の領域に移った音のように思える。

 実用としての「音」は、学校の授業からハッキリ意識された。
 それはきっと、遊びにまつわる音のほとんどは、身ぶり・動作によって補助される、いわばボディー・ランゲージだったからだと思われる。
 先生の声は、教師(授業者)用に指導されたものであったろう、おしなべて聴きとりやすかった、が。なかには、聴きとりにくい声の先生もあって、それが先生への信頼感、ひいては好き嫌いにまで、むすびついていったかと思う。

 そうして、いまボクはハッと思いつく。
 小学校の頃から、じつはボクには「難聴」の気があったのではないか? そのことであった。
 いましがた、ぼくは「先生の声はおしなべて聴きとりやすかった」と言ったけれど。より正確な事実は、すぐに(ほんとに、そうかょ)と異を唱える内なる声があった。(そうだ)と、追憶が教える。
 ほんとは聴きとり難いことも少なくなかった…のを、ぼくは、そのコトバの前後の脈略や、教科書の文字表現によって補っていたのではなかったか…という事実であった。

 ぼくは、小さい頃から、つまり生まれつきハキハキと「声」が大きかった。
 そうして、「いい声ね」褒められることはあっても、面と向かっては貶〔けな〕されることなどなく、従ってまったく気にすることなく育ったのだ、が。
 中学に進んだ、あるとき、大声に怒鳴り散らして喋る大人に出逢って、のち、この人が「耳が遠い」という事実を知らされ。その話しを友だちにうちあけたら、「お前の声もデカいけどな」と切り返されて、はじめて知った。
 「耳の遠い人は、みずからの声も大きい」傾向がある、らしいことに!

 その後〈生の音声や声楽〉から、物理的な〈音響〉や機械的な〈音楽〉へと耳を向けられたが、ぼくは〈つくられた音〉より〈巧まざる自然な音〉の方に癒される性向があり、つくられた音でも環境音楽系を嗜好した。
 しかし、生の声や音は、いつ・どんなときでも、そのままで通用するとは限らないものでもあり。
 ぼくがそれを思い知ったのは、映画の世界であった。

 映画は、暗く設〔しつら〕えられた空間で、スクリーンに映し出される映像に集中し、その映画世界に没入するもの…である、が。
 それだけでもない。音響によって醸し出される、もうひとつの映画世界がサイド・バイ・サイド(不即不離)に在って、共鳴・共感する。

 ぼくには、映画づくりを志した時期がある。
 そのときあたかも、国内では(斜陽)映画から(隆盛)テレビへの移行期にあたり、またヌーベルバーグの影響をうけた〝独立プロダクション〟全盛の時代でもあり、ぼくもその流れのなかにあった。

 ぼくが努めた助監督の仕事は、いうまでもなく監督の助手であり、したがって〈なんでも屋〉であって、うっかりすると天気予報の才まで要求されたりもした。ロケでは、俳優やスタッフたち大所帯のスケジュールを、遅滞なくとり仕切る必要も大いにあったからである。

 映画製作現場で呼ぶ「音声さん」は、録音や音づくりをとりしきる音響のプロであり、音響デザイナー、音響編集者、音響技術者とも称される。
 助監督は、音づくりの手伝いをすることもあって、いい体験をさせてもらった。

 ぼくの知る「音声さん」は、作曲以外のあらゆる音をつくり、幅広い〝音源〟のコレクターであり(たとえばクラシックならほとんどの曲が脳内に整理され)、暇さえあれば欲しいイメージをもとめてあらゆる場面へ録音に出歩き、別の専門家に依頼するのは「効果音」くらいのもの。
 彼が録音して集めた音源のなかには、それだけでウレると思われるものが少なくなかった。

 「音声さん」はカメラマンと同様、監督と協同、並立する立場にあり、とうぜん負う責任も大きい。
 映画づくりにおける音響の重みは、たとえば「無音もまた音響効果の重要なファクターである」ことに尽きる、ともいえる。
 「音声さん」の音づくりは、また、監督のフィルム編集とも同じレベルに位置づけられる。ということは、音響デザインは佳かったのに「映画作品」としてまとめられ、スクリーン世界に現れたときにはものたりない…というようなこともおきる。

 そうしてボクは、やがて「音声」や「音楽」にもレベルがあり、それは〝効果〟と〝費用〟の兼ね合いである、ことも知る。「音」にも、カネをかければそれだけの効果はあり、あとはどれほどのカネをかける価値があるか、による。
 〝クリア〟で、かつ〝個性的〟な「音声」や「音響」は、いま現在でも、技術的にはかなりの高レベルで達成可能である、ようだ。

 ザンネンながら、テレビジョンにはさほどの高レベルが求められてはいない。だから満足は得られない分を、人々はコンサート・ホールなど他のメディアにもとめることになる、のだろう。

 しかも、現代社会の環境悪化は、「音響」世界もまた例外ではない。
 いかに、耳ざわりな戦慄に充ちた〝ノイズ(雑音)〟から逃れて、心地よい架空の〝音場〟を醸成するかにかかっている。
  ……………
 
 ぼくは、以上のことをわきまえたうえで、しかし、自身の「難聴」と「補聴」の事情には、なおナットクいかない(ただの不満ではない)ものがのこる者、であり。
 その解消にむけては、もうひとつ他の専門医療機関に「セカンド・オピニオン」の診察をもとめて、なんとか死ぬまでにはナットクを得たいと思っていた。

 その矢さきの、こんどの「新コロ」自粛騒動。すべてが狂ってしまった予定の行動のなかに、「難聴」対策の診療もまぎれこんでしまったのであった。

 そこへ…1本の映画がやってきた。




◆『ようこそ映画音響の世界へ』

 これこそ「映画は音画でもある」をアピールする作品であろう。
 ただ、とても一般ウケするとは思われなかったから、公開と同時に、いつ終映になるかも知れない気がして、シアターの〈三密〉空間、制限が解除されてすぐの9月中に観に出かけた。

 鑑賞後の感想をさきに言っておくと、エガッタ~…し。
 このとおり、「新コロ」新規感染者にもなってはいない!

 この映画は、長くハリウッドで『クリムゾン・タイド』(1995)『アルマゲドン』(1998)など数々の映画製作に、主に音響デザイナー&編集者として活躍してきたミッジ・コスティン監督の作品。

 音声、音楽、効果(sound effects)、編集、アフレコなど、音響工程の美味しい細部を見せてくれる、刺激的な参考書であり。「じつは映像と音の二つでできている映画の、音とは、それと気づかせずに近寄って観客に鳥肌を立たせる魔法だ」ということを、実写フィルムの実証を駆使して表現し尽くす、音響技師たちへの敬意と愛のメッセージ集でもある。

 映画製作、協働者の立場から、映画監督たちもそれぞれの代表作場面とともに登場。『スター・ウォーズ』(77~)シリーズのジョージ・ルーカス、『E.T.』(82)『プライベート・ライアン』(98)のスティーブン・スピルバーグ、『エレファント・マン』(80)のデヴィット・リンチらが、映画世界に無限の広がりをもたらす〝音響〟の驚異を語り。
 ぼくは、それぞれの作品の記憶をあらためて鮮明にしたり、見のがした作品のいくつかに再会のチャンスが欲しいと思った。
  ……………

 この映画にも「日本語版字幕」がついて、鑑賞のたすけになったが、それでなくても〝音響〟をウリにするだけある、ファイン・クリアな音場がヨカッタ。

 ひるがえって、現在ある日本の音響環境は、明らかに見劣りがする。たとえばテレビなど、音声は日本語であるのに「字幕」の補助が欲しい放送が少なくない。
 それは、まぁ、音声を発して喋るのがアナウンサーだけではないのだから、やむをえない。…と言いたいところだが、じつは、その音声で伝える専門家のはずのアナウンサーやナレーター、役者さんたちのなかにも通りのよくない声が多い…。

 映画にいたっては、ちゃんとしたシアターで鑑賞しても、どういうものか、ことにも「音声」にクリアさがなくていけない。(想えば…もうずっと以前からのことだけれども)もう少しなんとか、ならないものだろうか。

 ぼくは、近ごろ、ときどき、試みに他の人に「いまの音声、聞こえました?」と訊ねることがある。
 すると応えは、
「いえ、よくワカリマセンでしたね」か、
「あの…たぶん、こう言ったんじゃないですか」
 である。

 「聴かせる」のが仕事の、アナウンサーやナレーターや俳優さん(アナタたちは見せるだけではない)たちの多くに、さらには音響部門の仕事に携わる方々の多くにもまた、「音声を伝える」ことへの配慮にもっと努めてもらいたいものだ、と思う。

 つまり
 なんとかして欲しい、いま現在の日本の〝音響環境〟なのであった…… 


 
 

 
 

◎〝密〟にならずに〝ベタベタ〟もせず / 大都会のアウト・ドアをあじわう「SHIBUYA SKY」

-No.2565-
★2020年09月29日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 3491日
★延期…オリンピック東京まで → 298日
★旧暦8月13日(月齢11.7)









◆「水入り」はやむをえない、か…

 「新コロ」ガマンも、いいかげんブチ切れそうになってきた頃。
 ふと肌に感じた風が教えてくれた、小さい秋。
 
 高どまり状態がつづいた第2波も、さいわい〝爆発〟にはいたらず。
 (…が、それが幸いだったのか、どうかは、まだ…わからない)

 怖々〔こわごわ〕「Go Toトラベル」の橋掛かりもなんとかもちこたえて、すでに次は「東京も入れてやろうぜ」ムードだし。
 おまけに「Go Toイート」「Go Toイベント」「Go To商店街」もはじまるョ、延期になったオリ・パラの開催もあることだし、外国からの入国制限もそろそろ緩めていきましょうかァ。テストにイベントの入場者数制限も緩和してみましょうネ、と。
 世は、挙げて一気に「コロナはおわった、さぁ皆さん出番ですゼ」のムード。

 世の人の、浮き浮きしたがりは、いつものとおり。
 でもねぇ(なんだかなぁ…)アブナッかしいかぎりなんだけれども。かといって
 コレといった感染〝封じ込め〟の〝妙手〟とてない、感染症専門家筋や意識的市民サイドも手詰まり感、否めない。
  ……………

 この、すでに始まってから久しい「新コロ」事態、早や半年を越え、長びく五里霧中の形勢にフと想い出したのは…

 藤井聡太、二冠人気に沸く将棋界。〝勝負なし〟の膠着状態を指す「千日手」ではなくて。こいう場合は、ヤッパリ
 「はっけよい」で肉弾ぶちかます大相撲、その審判規定にある「水入り」の方。
 そう、いまはもう、ほとんど見られなくなっているけれど、かつては相撲とりにもファンにも熱気こもごも、たがいにゆずらぬ「がっぷり四つ」の大一番。

 相撲は瞬発力の勝負だから長期戦には向かない。
 「水入り」の判断は、時間にすればせいぜい4分くらい。行事と審判長の判断で決まるのだが。同じ組手、脚の位置なども確認のうえで、ひと息入れて再開。なお勝負がつかなければ「2番後取り直し」、それでもなお決着がつかないときには「引き分け」になった。
  ……………

 こんどの「新コロ」が相手の取り組みでは、収束に向かうか…と思わせぶりな「非常事態宣言」打ち切り後、いっときの間をおいてまた盛り返す、第2波がきたところで、ひとまず「水入り」。それでもなお、双方ひるまず、高どまりの一進一退がつづく感染状況で「2番後取り直し」になった。
 …というのが、正直なところではなかったろうか。

 はりつめた気がホッとゆるめば、喉の渇きや忘れていた尿意に、あらためて気づく者がある。小さいけれど、たいせつな用事を思い出す者もあるだろう。 
 



◆みんな「寂しん坊」

 せっかくの夏休みを、棒に振らされた大衆の「水入り」、シルバー・ウィークとやらの4連休。
 ドッとばかりに繰りだす人出は予想できたし、気分は痛いほどにワカル。
 ぼくたちも、ご同様、深呼吸の背筋を伸ばしに、最終の秋分の日に出かけた。

 …といっても、人混みの行楽地はゴメンである。
 万が一「新コロ」感染の怖さより、人混みにまぎれてホッとよろこぶ…そんなイジマシさがなにより嫌だった。
 
 人は孤独なもの、ほかの生きものと同じことだ。
 (群れたい)のはワカルが、(群れても孤独)にかわりはない。
 むしろ(群れの中の孤独)のほうが、深く、逃れ難い。

 かといって、かつての気休め処。
 アンダーグラウンドに潜るのも、いまはフシギなほどに重く、気おくれがする。

 (よ~し)ならば…ほかになし。
 思いきり風の吹き抜ける、気のふさがりようもない高みがよかろう!
 …と、出かけたのは、渋谷スカイ。
  ……………
 
 下目黒の五百羅漢寺へ、秋彼岸の墓参をかねて行く。
 この間、世には「不要不急の外出はひかえて」との、〈自粛病〉とも呼ぶべき気分が蔓延。〝不要〟でも〝不急〟でもないはずの、帰郷や面会、やむをえず諦めた人が少なくなかったのを、チクリと痛く想いだす。
 ホント、日本人の〈なにごともイッショ〉志向には、呆れるほかない。

 ことし
 春の彼岸どきは、感染パンデミック上昇気流のなか。目黒川沿い、花見の群衆に紛れて少しく歩み。他人への気づかいより好奇心がさき…の若者たち気分に押されるほかなかった記憶、鮮明によみがえる。が、いまは人影のかけらもなかった。

 7月のお盆は、国の「緊急事態宣言」も「東京アラート」も解除になったあと。 
 (でもさ…ホントにダイジョブなんですかねぇ)
 人みなコワゴワ、オソルオソルの世相。バスや電車に乗るにも、素早く車内の様子を見わたす目のうごき、いまから想えばオカシイくらい。
 さすがに、根は臆病質の日本人、マスクなしの人はほとんど見かけられなったけれども、腰はすっかり軽くなっているのが、よくワカッタのであった……




◆やっぱり高みはイイ、気も晴々爽快

 渋谷も、人出はふだん(「新コロ」以前)より、やや少なめなくらい。
 思ったとおり、(もぅ、いいんじゃないかぃ)伸びきり緩んでしまった糸は、さっぱりと捨てて、新たに引き出してくるほかなさそうだった。

 あれほど、緊めておいた張りがポョ~ンと、いともたやすく弛〔たる〕みをとりもどして、恥じらいもなく平然。
 人々の身うごきを見ていれば、それは一目瞭然。

 つい、きのうまで、とうぜんの個差ともないながらも、ぴっちり身にまとっていたコントロール・スーツ。凝視〔みつ〕めず、さりげなく抜けめなく逸らす眼線…とか、わが身のバリア・センサーに、けっしてアドヴァイザリー・ランプを点灯させない動線の確保…とかいったものが、きれいさっぱり無くなっていた。

 愛おしくも惰弱な吾が同胞〔はらから〕どもよ!
  ……………

 ぼくは、みずからが(長かったな)と思える旅のしめくくりには、きっと、空をふり仰ぐことになっていた。
 いかなる信仰にも、かならず、拝むか祈るかの指標・目標がなくてはならない、そうな。さすれば天空もまた、無限の広がりの悠久さゆえに指標・目標たりうる。
 水平か地平かが求められれば、茫にして昴とした拠りどころを求める。東日本大震災の被災地東北巡礼の帰途、風吹きつのるデッキから眺める太平洋がそれだった。
   ……………

 凄まじい勢いで、いま再開発が進む渋谷駅エリア、その東口。
 渋谷ヒカリエを控えにまわして聳え建つ、渋谷スクランブル・スクエア。ビル屋上という認識を超えて…天空といっていい領域へ、いざ。
  ……………

 14階から乗り換えるエレベーターには、絵に描いたような親子4人連れと一緒。
 まだ幼い女の子は、無心に甘いお出かけムードにひたる、いっぽう。自我、伸びざかりと思われる年ごろの男の子の方は、異次元への「予感と移行」の空間、演出されたなかにあって、なぜかボクの方を見て、しきりに(ねぇ、ホントにぃ)と問いかける風情…。はにかみをまじえた眼差しが、フと気にかかる。
  ……………

 スクランブル・スクエアの14Fまではショップ&レストラン。エレベーターを乗り換え、45Fまでのオフィス・フロアを突き抜けた上に、展望フロアがある。
 そこが、みずから「展望装置」と称する仕掛けつきの名に恥じないものであることは、すでに幾人もの知友から報告を聞いていた。

 展望〈解放〉フロアの入口へ、光に誘われて上るエスカレーター、逆光になって先を行くさっきの少年の影が、光のなかに溶け込む前にチラと、こちらを振り返った。

 「展望装置」への立ち入りには、万が一の事故を防ぐためだろう、余計な手荷物の持ち込みが制限される。
 感覚はまさしく上空にある地上230mの、そこは、まさに、ひとつの「現代の天外」だった。46階とルーフ・トップの「SKY STAGE」から成る空間は、高層ビルのワン・フロア以上の広がりを感じさせ、これまでの「おまけ」感を払拭、ついでに物見遊山風情からも感覚的に開放して魅せる。

 なかでもルーフ・トップの迫力は、従来の「屋上」イメージからさらに上へ、天空へと浮上した…といっていい。
 厚い透明アクリルの壁に守られ、高所恐怖からは逃れながら、グルリ見渡すかぎり、遥か遠くからの風を直に感じられる。空気の味わいまで深く噛みしめることができて、ステキだ。そんななかに人が、てきとうに散らばっている。

 空との境界「SKY EDGE」への入場には、ソーシャルディスタンスの短い列ができ、さらに1段と高い展望「GEO COMPASS」の上では、あらためて天に向かい両手を突き上げる姿が交替しあい、ひと巡りしたあとは、ハンモックに寝ころび、空と向きあう。
 ぼくの気になっている少年は、その、ところどころ、ときどきに、視界のなかにあって、とうぜんのことながら、たいがい遠い空を見ていた。
 ぼくには心なしか、日常の見えない靄につつまれた下界から解放された少年が、(これから、どうなっていくのかな?)未来と向きあおうとしているように、見えて仕方がなかった。

 眺望では、神宮の森をはさんで新宿副都心から、奥多摩方面にかけての風光に、いちばん見飽きない趣きがあり。反対に、東京湾の海や富士山までの見透しが利かなかったためか、そのほかの向きには、不思議と心惹かれるものがなかった。
 空があれば…また来よう、それでヨカった!

 天空のステージに、小1時間もいたろうか…
 気がつくと、いつのまにか、少年一家の姿もぼくの視界から去っていた。
 (満足した)想いで46Fの室内に降りたのだ、けれど。どうやら、ぼくは〈天空の空気〉に酔っていたらしい。
 そこには、また別の、〈落ち着いて吾をふりかえる時空〉が待っていた。

 10月末までは、夕刻から開いて夜景にひたれるルーフトップ・バーもいいだろうし、「時空の川」をイメージさせる映像装置もシャレている…が。
 ぼくが、なにより気に入ったのは、なにもない窓際のフロアに置かれたクッション〈…のある風景〉といいたいようなエリア。
 
 好きな体勢を支えてくれるクッションに身をあずけると、外の風景がまた、より一層の深みを加えてくれるように思える。
 ぼくは、そこに、しばらく沈みこんで、感染症パンデミックを想った。

 日本の「新コロ」感染状況とその推移をみてくると、なるほど、山中伸弥教授が指摘した「ファクターX」の存在がうなづけてくる、が。
 それでも、日本人の〈衛生〉指向が他の国・地域よりも優れているから…だけではナットクしかねるし。だいいち、それでも「これで抑えこめた」状況にはほど遠い。

 しかも世界に目を転じれば、各方面に感染再拡大が進みつつあり、全世界の死者数はついに100万人を突破。日本でも、これから迎える秋・冬に向けて、「新コロ」と「インフルエンザ」のダブル・リスクも心配され。

 そんな状況下でオリ・パラ開催が叫ばれても、いちど熱気の去ってしまった大会、くわえて感染の治まらない国や地域を除外しての大会になれが殊更に、はたして、どれだけの意義が認められるのであろうか……



※「鯉の住む町~津和野~」 /         『よみがえる新日本紀行』とともに…➂

-No.2561-
★2020年09月25日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 3487日
★延期…オリンピック東京まで → 302日
★旧暦8月9日(月齢7.7)






◆〝鉄道員〟の系譜

 ぼくは、根っからの〈旅の人〉。
 その後半生はマイカー・ドライブで全国を駆けまわり、運転歴42年、走行距離は35万km(地球の赤道一周が約4万km)を超えている。

 …が、鉄道が現在のように〝不便〟(いうまでもない地方交通線において)になるまでは、もっぱら〈鉄旅の人〉。
 そんなボクの、モノクロームな心象風景に濃い、ひとつの場面がある。
  ……………

 その人には、勤めから帰るとかならずキマった行動があって。まず、おもむろに、いまや愛用というよりすでに分身といえる懐中時計を、3つ揃い背広のチョッキ胸ポケットから執り出すと。時間を確認してから床柱に銀鎖の先を掛けて吊るす。懐中時計はスイスのロンジン。その厳格な作法のために、床柱には専用の釘が打ちつけられてあった。滅多なことでは、その頑固な風貌そのままの表情をくずすことなく、なかでもとくに時間にはキビシくて、約束に遅れるようなことがあれば頭を握り拳でコツンとやられ。その痛さが、また、ひどくこたえた。
 その人、母方の祖父は、国鉄鉄道員。かつての国鉄職員には〝全線パス〟(日本全国無料パス、家族には原則5割引の家族割引証もあった)という、子どもごころに燦然と輝く〝特典〟があって、いちどだけボクも拝ませてもらったことがある。
 この「お爺ちゃん」は、ときどきにわが家を訪れては、外孫のボクたち姉弟を連れて川崎から、母の実家がある東海道線藤沢駅までの小旅行をさせてくれ。なによりの楽しみは横浜駅で買ってくれる崎陽軒の「シウマイ弁当」で、これを食べながら揺られて行くのが定番であった。
 晩年とはいえ、まだ蒸気機関車全盛の時代。横浜駅では、銀のツバメ・マークをフードに光らせたC62形蒸機が特急「つばめ」を牽引、ホームを揺らせて入線してくるドキドキ場面に遭遇してもいる。
  ……………

 こんな育ちだったボクたちが、おそらくトロッコ遊びに親しめた最後の世代であったろう。憧れいちばんは、蒸気機関車の運転手。手近なところでふだんは、機関車に添乗して誘導する「旗振り」に熱い視線を送っていた。

 そんな幼・少年期を経て、しぜん旅に目覚めたボクは「乗り鉄」に邁進。
 それが昂じて、当時の国鉄「片道最長切符」チャレンジャーになったのも、自然の成り行き。電卓もパソコンもないアナログな時代に、時刻表と鉄道路線図を相手に「最長ルート」づくりに熱中した日々が、いまは懐かしい。
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
  ……………

 そんな「片道最長切符」の旅と、即〔つ〕かず離れずにあったのが、NHK『新日本紀行』という番組。
  ……………
 
【註2】『新日本紀行
*2
  ……………

 いまは『よみがえる新日本紀行』に衣替えしている。
 ぼくが、この番組を懐かしく、感情移入ゆたかに観るわけは…そこには紛れもない若き日の青春とその後が綯い交ぜになって投影されているから、にほかならない。恥ずかしいくらい、想い出ぽろぽろ。
  ……………

 そんなアレコレ噺の、3回目は西の小京都、津和野。




◆なぜか「津和野」だった

 ぼくの16,000km、鈍行列車「片道最長切符」の旅。
 5月15日に枕崎駅(鹿児島県)を出発してから11日目、やっと九州「往ったり来たり」を終えたボクは、関門トンネルを潜って本州入り。
 下関(山口県)では、「肥後もっこす」人吉で産れた大学時代の友と再会、駅待合室を離れて彼の家に泊めてもらい、翌日は勝手に「休養日」。奥さんに車で県都山口へ、雪舟邸や瑠璃光寺五重塔などを案内してもらっている。
 山口がいたく気に入った(湯田の温泉のせいかも知れない)らしい彼は、新聞記者を退職後、いまもここに住む。
  ……………

 こうして、中1日おいて13日目の旅。
 その日も、しっかり各停(各駅停車の普通列車、俗にいう〝鈍行〟)の列車に揺られ、停車する各駅のホームに降りては、駅名板をカメラに納めていくという、ぼくなりのその土地々々への〝仁義〟を尽くしながら、車内で土地人たちとの交流を愉しんでいた。
 
 この日のルートを辿ってみると。
 下関-山陰本線長門市美祢線-厚狭〔あさ〕山陽本線-小野田-小野田線-居能-宇部線宇部山陽本線-小郡〔おごおり〕山口線-津和野
 なお、これらの線は、いずれも現存。

 わざわざ、そう言うワケは、このとき(昭和47年=1972)はJRの前身〈国鉄〉時代の終盤。そろそろ赤字地方(ローカル)線廃止の動きがはじまる頃で、実際、このあと廃線になった鉄路・航路が多く、いまでは同じルートをたどることができないからだ。

 ともあれ
 そんなこともあって、ぼくの「片道最長切符」の旅は少しく注目も集め。この日も途中、小郡の駅では駅長さんから「国鉄を愛してくださってありがとう」と、土地のお土産を戴いたり。

 そんなこんなで、暮れかける頃に乗り換えた山口線
 カエルの合唱のなかを行く、その車内でまた、ぼくにとっては、ほとんど奇跡的な出逢いが待っていた。

 国鉄に勤続33年というベテランの車掌さん、ちょうど勤務あけで帰宅する方と相席になり、話しが盛り上がるうちに「どうぞ、家へお泊りなさい」ということに。
 盛り上がったわけは、いうまでもなくボクの「片道最長切符」。この頃までの国鉄マンといえば、皆さん根っからの鉄道好き(…でも、現役時代に〝全線パス〟を利用するチャンスは滅多になかった)。
 したがってこの旅の途中、出逢った車掌さんのほとんどが、ぼくのキップに興味津々。なかには、券面にびっしり書き込まれたルートを「メモさせてください」という人もいあったくらいで…。

 そうして
 この車掌さんの、帰るお家が「津和野」だったことが、ぼくにとっては〝奇跡〟でしかなく。こんな奇遇に、かさねて「家へお泊りなさい」と誘われたら、もう、辞退なんかできるわけがなかった。

 この65日間の旅では、1日の泊まりは駅の待合室のベンチ、風呂はあれば近くの銭湯へ、が基本。いうまでもない、理由は旅費の節約。ついでに時間の節約にも、駅待合室ほど都合のいいところはなかったのだ、が。
 そんなことが許され、また、このときのように見ず知らずの者を、わが家へ「一夜の宿り」を誘ってくださる方もあったり…という、ホントにいい時代だったとしか、いまはいいようがない。

 この旅の朝は、いつもなら洗面・自炊朝食のあと、時刻表で1日のスケジュールをたてることからスタート。寝袋に入る泊まりの駅は、まだ未熟ながら、それまでに蓄えた知識と情報を頼りに、あとは感性におまかせだった。
 
 …で、その日の泊まりが、ぼくの予定でも「津和野」になっていた。
 それは、なぜだったか…

◆水路に鯉が泳ぐ、清々しい町

 そのもとが、じつは『新日本紀行』にあった、わけで。
 このたび、4Kリマスターに衣替えした映像の「鯉の住む町~津和野~」編、もともとの放送があったのは昭和46年(1971)。ぼくが「片道最長切符」の旅に出る、直ぐ前のことだった。

 「西の小京都」と呼ばれる町の紹介は、しっとりと、淡々と、ごく素直な案内記ふう。…となれば、うっかりするとタイクツになりかねないところだ、けれど。
 このときのボクは、それこそ針にかかった鮎のごとく、グイッと惹き寄せられてしまっていた。
 ひとつには、津和野のキーワードは清流。町域を流れる高津川は日本でも有数の、ダムがひとつもない清流だったし。いかにも小京都らしい、漆喰なまこ壁の武家屋敷が並ぶ石畳の殿町通り界隈には、掘割にこれも水清き流れがあって…。

 ぼくは、なにしろ〝水清き流れ〟がなにより好き。
 すぐ民家の脇を水音高く流れるほどの川より、むしろ小さな水路くらいのほうが好ましく。さらには、水音がするかしないかくらいの、ほどよく、ゆるい坂道になっていればなお佳く、ついでに水車なんぞがあってくれれば言うことなし!

 津和野、殿町の掘割に水車はなかったが、かわりに緋鯉が彩り添えて群れ遊び。おまけに地名の起源が「つわぶきの」なんてのも、じつに気がきいていた。
 映像を見きわめる目にはいささか自信のある、ぼくの感性が「いいね、いい町だね」と呼びかける。
 
 『新日本紀行』の画面は、ほかにも、鮎料理を語り、森鴎外西周(哲学者)の旧宅、太鼓山稲荷神社などを巡り、津和野の代名詞にもなってきた郷土芸能(国の重文)「鷺舞」(7月末の祇園祭で披露される)などが紹介されたのだ、けれど。

 ぼくの頭はボンヤリ…鯉の群れ遊ぶ水清き掘割の水路と、その流れに沿ってつづく、ほのぼのと和みに満ちた町すじを、いつまでも、ひとり、追いかけ。
 そう、すっかり抱きすくめられていた。

 どなたにも、経験がおありだろう。
 ひとつひとつの町や村との、ふしぎな出逢い、沁みとおる感性へのアプローチに、リクツなどない。

 そんな津和野へ、初対面の土地人に招かれての、一夜の宿りであった。
  ……………

 しかし、それも
 もう遠い日の、想い出のひとこま。
 いつしか音信もとぎれて、気がつけば久しさも長きにわたる半世紀後だったわけだ、けれども。

 いまも、その〈帰郷〉の夜にも似た歓談のひととき、忘れがたく。
 不意の来客にも「まぁ息子が帰ったようでね」と、もてなし上手な奥さん。「生きていれば貴方くらいの年恰好ですよ」と亡くなった孫息子の想い出に涙ぐむお婆ちゃん。高校生のひとり娘も、「お兄ちゃんみたいな気がする」と遠慮ない笑顔で迎えてくれて。夜遅くまでボクの盃に酒をきらさず、親身に、年の離れた兄のように語りかけてくれる国鉄マンのお父さん。
 外は小雨降る静かな晩…。

 この旅のあとに書いた本のなかで、ぼくは涙もろくも述懐している。
「うれしいけど、せつない。ありがたいけど、すまない感じ。旅の身がつらい。いっそ居ついてしまおうかとも思うが、しかしオレはやっぱり旅人。(これ以上の迷惑をかけちゃならない)と思いなおす。だからよけいに(大事にしなければ)と思う。」
「旅に出ればそのたびに、人とのつながりがふえていく。その一つ一つをたいせつにしていくこと。ぼくにはそれしかできない。」
  ……………

 翌くる早朝の清々しい津和野慕情は、ぼくに「箱庭のような町」を想わせ。
 民家の間の路地から路地へ、めぐる水路にはたくさんの鯉が泳いで。
 折からの日曜日、近所の子どもたちが習慣になっている道の清掃、通行人には見知らぬ相手であっても「おはようございます」と挨拶をする…と。
 そのあとの道には塵ひとつ落ちていない、ほっと胸キュンの散歩のひととき。
 
 そんな町に、似合う乗り物は、いうまでもない自転車(これは、いまでも変わらないでしょう)。
 ぼくも、駅前にある貸自転車を借りて、娘さんに町を案内してもらって、上記したような町なかの名所を見てまわったのだ…けれども、いまはもう、ぽつぽつと淡い点景くらいにしか覚えていない。

 旅人のはずが、すっかり旅を怠けて。
 昼までご馳走になり、おみやげに郷土銘菓の「源氏巻」までいただいて、やっと午後の列車で舞い戻った旅の空。
 赤茶色の屋根瓦が、ほほ笑むような山陰路へと、もぐりこんで行った。
   ……………

 そのときから、ほぼ半世紀ぶりの、津和野。
 番組は、そんな津和野の〝いま〟を、あれこれ伝えてくれたのだった、が。
 「ぼくの津和野」慕情の前には、ごめんなさい、ただ「なんのお変りもございませんで、ようございました」であった。
 
 
  

 





    

*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。

※岩手から北太平洋海流めぐり沖縄まで /     漁業用コンテナ9年半の長旅

-No.2559-
★2020年09月23日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 3485日
★延期…オリンピック東京まで → 304日
★旧暦8月7日(月齢5.7)





◆忘れてませんか《11.3.11》東日本大震災を…

 …とでも言うように。
 「新コロ」感染予防にもイイかげん飽きて、あれこれ規制も緩んできて、いかにも(危ねぇ)感じになりつつある世の中に、まるで、この時を待っていたかのような報せが、南の方からとびこんできた。

 発信は沖縄から。
 まず、石垣島の浜には宮古からの漂流物。
 つづいて本島北部「沖縄美ら海水族館」の沖に浮かぶ伊江島には釜石から。
 いずれも、漁港から流失したと思われる、水揚げ用などのプラスチック・コンテナ。タテ50cm×ヨコ76cm×高さ26cmの、伊江島に流れ着いたのには「釜石東部」、タテ・ヨコとも1mくらいと大きめの石垣島のには「宮古漁業協同組合」の名が入っていた…という。

 長い……………あれから9年半の歳月。
 大きな破損もなく漂着したのは、丈夫で軽いのが幸いして、波まかせの旅に耐えられたからであろう、けれど。
 そてにしても、どう流れた? (地理人間の連想は必然、そこへいく)

 すると、これはもう、黒潮親潮のぶつかる辺りから、時計まわりの北太平洋海流をほぼ1周した…のにチガイあるまい。
 1周といっても
 自然な海の〝流れ〟には、別な流れとの〈合流〉や〈分流〉、ほかにもさまざまな〈反流〉や〈沿岸流〉など出入りが多くて、つまり、数知れない誘惑の手をすりぬけて来るのは、それだけで一大事なのだ。

 しかも相手は南・北両極間に、赤道をまたいで広がる世界最大の海洋、全地表の約3分の1、全海洋の半分ちかくを占める太平洋である。
 その北半分とはいえ、名高い「太平洋ゴミベルト」(東日本大震災の大津波で流出した漂流物がたくさん集まっているはずの…)に誘いこまれることもなく、回遊を果たしたことは、アッパレ祝福されていい。

 何年か前に、この北太平洋海流からアラスカ海流へと乗り換えたものだろう、カナダの海岸に漂着した小型船があったことを、ぼくはいま懐かしく想い出す。
 あれからの日月を追想すれば、このたびの回遊・回帰もナットクがいく。

 いっぽう、ボクがこれまでに経験した船路・海路をふりかえれば、その範囲、やっと日本領海の範囲までがやっと…で、あらためてナンとケチなものかと思うけれど。
 このたび北太平洋海流を乗りきって回帰した漂流物の航跡に付け加えれば、ちょうど1周達成くらいに相当する…と知れば、満更でもない。

  ……………


◆ときめきの…漂流瓶/ボトルメール

 海辺で、遥かな海路に想いを馳せ、ボンヤリするのがスキ。
 …なボクは、浜辺で、いずこからとも知れず流れ着いた漂流物に、旅路の〈よすが〉をもとめて瞑想することが多い。

 島崎藤村作詞の歌曲『椰子の実』と同じ椰子の実の殼なら、舞台も同じ伊良湖岬の浜で出逢って以来、北は九十九里浜から南は日本最南端の波照間島まで、案外なことに意外なほど多くの場所で邂逅、そのたびに、なぜかホッとしてきたし。

 北海の海辺では、磨き尽くされ潮に晒されて白い流木のほかには、漂着物の極めて少ないことに、驚く吾と首肯する吾とが同居したし。
 また、日本海の汀では、多すぎるくらいに雑多な漂着物のなかに、すぐ向こうに隣り合う大陸縁辺部との、複雑多岐な交渉を思わないわけにはいかなかった…。

 これで意外にセンチメンタル情緒なところもあるボクは、みずからに海の流れ行く先をなっとくさせたくて、漂流瓶(または海流瓶、標識瓶とも呼ばれる)を仕立てて流したこともある。
 海流調査など学術目的のためには目立つ大きさの瓶がイイようだ(補足すれば、風の影響をうけにくくするために適当な錘を垂らしておくと、なおイイ)けれど、ぼくの場合はあくまでも私用(試用?)であり、また、ときには胸ときめく〈秘用〉でもあったから、極くスマートな小型瓶に連絡待ちの紙片を封入して流した。
 結果は…いうまでもなかろう、ひとつとして返信がきたことはなかったけれども…

 この〈漂流瓶/ボトルメール〉遊びは、かつてアナログな青春時代には、流した経験をもつヒトが少なくなかった…と思うのだが。
 いまは、どうなっているんだろう?

 稀にはいまも、海辺の観光地の、みやげもの売り場の棚の隅っこに、マスコット小物ふうの品を見かけることがあり。

 告白すれば、じつはボク、いまだに「漂流瓶」に良さそうな細身の小瓶を見つけると、ふと秘かな〈こころのそよぎ〉を覚えたりする。

 ステキな瓶コレクションを趣味にする人も少なくないようだけれど、〈漂流瓶/ボトルメール〉にふさわしい小瓶となると、これが存外に、むずかしい資格と品格とを、主張し要求もするものなのであった…… 




 

※しつこ鋭く執念深い…珍魚「チンアナゴ」の眼光

-No.2552-
★2020年09月16日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 3478日
★延期…オリンピック東京まで → 311日
★旧暦7月27日(月齢26.0)




◆なんか妙にちんちくりんな…

 この魚は、実物よりも先に名を知った。
 魚体はなるほど「アナゴ」タイプだけれども…はて?
 「チン」(chin=あご)のココロがワカラない。「アゴなしアナゴ」じゃ洒落にもならない、じゃないか。
 こういうときは調べてみるもので、即、解決。
 この標準和名は、小型犬の「狆」に似ているからだ…そうな。
 しかし、ぜ~んぜんナットクしかねる。

 なぜなら、図鑑の写真を見たって。さらに、後には実物を水族館で確かめてからは、なおのこと妙ちくりん…でしかない。ぜひ「改名」してもらいたい。
 だって、だって、体長35センチほどの身体は、まぁ、かわいいと言えるかも知れない、が。灰白色の体に黒っぽい斑点模様は、なかなか侮〔あなど〕りがたい、いかにもクセ者ふう。
  ……………

 いまはじめに、ぼくは「妙にちんちくりんな」と表現した。
 「妙ちくりん」というコトバは、「ちんりくりん」から出たものだろう。ふつう「背が低い」とか「寸たらず・すん詰まり」の様子を、軽んじて言う。そういうことになってはいるが…じっさい場面での用法は、もっと幅が広い。「妙ちくりん」がそのへんの事情を語っている。
 「ちんりくりん」と同類の語に「つんつるてん」があって、どちらも語源は不明だ、けれども。語感のイエテる響き、幼児語ふうの表現はツミが軽く、コレはコレでまぁいいか…の気もする。
  ……………

 チンアナゴを観察して見る。
 穴に隠れる生活様式だから、穴掘りは巧みで、魚体の半分を占めるという尾を使って抉〔こじ〕るように、体をくねらせ、全身が安全に隠れるほどの穴を開けて、吾が棲み処とする。
 好みの環境をいえば、流れの速いサンゴ礁、外縁の砂底。なぜなら、そこには餌になるプランクトンがいっぱい流れてくるからだ。

 しがって、彼らが見せる珍なる生態風景。
 ひとつのグループのチンアナゴたちは、みな揃って流れに向かって上半身を伸ばし、丹念にひとつひとつ、獲物を目でキャッチしてから捕食する慎重派。

 つまり、ふだんは穴に潜めた半身を軸に食餌、敵があらわれるやいなや、すばやく全身を穴に引っ込めてやりすごす、そんな生き方。
 海の生態系では、弱小グループに属するから、小心らしくつねに警戒をおこたらない、でいながら。その眼差しの抜け目なさは、スキあらば反撃も辞さない、したたかさを秘めて、生存競争の厳しさを物語る。
 水族館の水槽を覗きこんでいた子のひとりが、この眼に気づいて「怖わっ!」と逃げ腰になるのを、ぼくは目撃したこともある。

 日本では高知から琉球列島にかけて棲むという熱帯系だが、性格はおおらか…とはいかない、狷介〔けんかい〕かつ老獪〔ろうかい〕な性質〔たち〕もあわせもつ…らし!

 ただし、繁殖期の生態(産卵の様子)はじつに微笑ましいもので、オスがメスのお腹にキスをして産卵をうながす。しかし、この場面をとらえたドキュメント映像のなかでも、チンアナゴの眼はオス・メスとも、とうぜん真剣そのものであり。
 その前哨戦、メスを獲得するオス同士の争いには厳しいものがあって、闘い烈しく、敗れてスゴスゴと退散するオスの、背は(トホホ…)に曲り、萎れていた。

 チンアナゴの英名は「spotted garden eel」、その意味するところは「斑点のあるツンツン庭草のごときウナギ」。
 やっぱり「ちんちくりん」を(好意的な見方ながら)軽んじてござる……