どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※「ドームと盆燈籠~8月のヒロシマ~」 /    『よみがえる新日本紀行』とともに…⑤

-No.2614-
★2020年11月17日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3540日
★延期…オリンピック東京まで → 249日
★旧暦10月03日(月齢1.9)







中国山地を越えて山陽…山陰…往ったり来たり

 1972(昭和47年)。
 枕崎(指宿枕崎線、鹿児島県)駅をスタートした、ボクの(当時の)国鉄「片道最長切符」2ヶ月の旅は、11日目に九州をあとに、本州入りしてからの1週間を山陽から山陰へ、また山陰から山陽へ…と、中国山地を挟んで往ったり来たり。

 九州のアチコチ汽車旅でも、つくづくと感じ入った日本の国土の成り立ちだったけれど、中国地方の脊梁山脈を軸に細長い風土に立ち入ると、よりいっそうに、南北に狭小な島国の成り立ちをイヤというほど実感させられた。

 ちなみに、その〈18日目と19日目の行程〉を辿ってみると。
 18日目/用瀬-(因美線)-東津山-(姫新線)-新見-(伯備線)-倉敷-(山陽本線)-福山-(福塩線)-塩町-(芸備線)-三次(泊)
 19日目/三次-(芸備線)-広島-(山陽本線)-三原-(呉線)-仁方-(仁堀航路)-堀江-(予讃本線)-伊予西条(泊)
 (ここ中国地方でも、過疎&赤字で廃止になった鉄道線路が多いなか、ぼくがこの2日間に乗った線区は、おかげさまでいま現在も健在)
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
  ……………

 ぼくは少年時代から、どうも情緒不安定なところがあって(あるいはただのワガママであったか…とも想う)、家出の真似ごとをくりかえして、家族に心配をかけていた。
 真似ごと、というのは、さすがに家出のリスクは大きすぎたので、フラッと家を出ては夕方まで、家からそう遠くはない辺りをほっつき歩いては、暗くなると家に帰って。さすがにスグには内に入れないので、しばらくは外をウロウロしながら「入りなさい」と声がかかるのを待つ…というふうだった(カワイくない奴)。

 それが高じて、電車通学の中学に進むとすぐに、旅ごころが芽を吹き。小遣いを貯めては、当時の国鉄「学割乗車券」と「ユースホステル」を利用して、高校卒業までに北は東北、西は中国地方まで足跡を記していた。

 したがって、山陽・山陰路には少しばかり親しみがあり、しかし…それだけに、新たなカタチの「片道最長切符」の旅にあたっては、(馴れてしまうことには気をつけなければ)自戒する気分もあった。

 このたびの、中国山地を挟んで往きつ戻りつの旅で、まずボクは、「山陰の赤(赤茶)、山陽の黒」という屋根瓦の色の対象に目を奪われている。はじめは、〈明・暗〉色と〈陰・陽〉とのとりあわせに意味合いを見いだし、やがて、その瓦色にも天候や立地によるさまざまなバリエーションがあることに気がついて、なぜかホッと安堵したり…。

 鳥取砂丘では、観光乗り物に連れてこられたラクダの、異国の風に吹かれる目の奥から哀しみをうけとり。「流しびな(雛)」行事で知られる用瀬〔もちがせ〕では、溜まった汚れ物の洗濯に、前に投宿したことがある民宿のお世話になり。
 しかし、倉敷や尾道には、惹かれても敢えて立ち寄りを避けてもいた。

 広島も…通りすぎた、が。
 それは、この〝原爆〟の街には、安易な気持ちでは立ち寄れなかった…からだ。

 その広島は、ぼくの旅の3年前、昭和44年(1969)に『新日本紀行』にとりあげられている。
  ……………

【註2】『新日本紀行
*2
  ……………





 「原爆の日」から「お盆」までの、ひと夏を追う…そんなカタチの番組だった。

 この年(44年)、「広島平和記念式典」がある「原爆の日」は、慰霊45回忌にもあたっていた。
 8月にはいると〝ヒロシマ〟の街には、各地から「平和行進」の人たちが到着したり、平和公園を〝反戦広場〟に『夜明けは近い』を唄う若者たちが集うなど、日々、喧噪に包まれていく。
 カメラは、そんな街の〈非日常のなかの日常〉を掘り起こしていきます。

 感性が、やっぱり、ふだんよりいっそう敏感にならざるをえない被爆者たちにとっては、「原爆の日」が前とは違ってきていることがわかる。それは、原爆の記憶も薄れ、消えかけているからだ…と。
 (あれから、さらに半世紀後の2020年いま現在は、もう70%もの人が「原爆の日」を知らなくなっている…という)

 とうぜん、「広島平和記念式典」の賑わいにも、これまでとはまた別の、より濃い翳りを佩びて感じられる。
 広島平和記念公園内の中心施設は、向こうに原爆ドームを望む原爆死没者慰霊碑だが、うすれゆく記憶を呼び覚ますようにありつづけるのが、1955年建立の原爆供養塔。円墳のような土盛りの中には数万柱の無縁仏の遺骨が納められ、その上に石造の塔が立てられている。

 広島は、いまも「誰かを探しつづけている」人のいるところ…と、ナレーションが語りかける。それは原爆死没者の「遺族探し」のこと。
 (2020年のいまは、遺族探しの数も814人まで減ってきている、という)

 たくさんの人が訪れる「広島原爆の日」の6日夜は、灯籠流し。
 数万にものぼる慰霊の燈籠が川を彩って流され。河口ちかくの下流に住み暮らす人のなかには、それらの燈籠が無事に海まで流れていくように、淀みに滞留する燈籠を棹で流れに押し出すことを、毎年のみずからの役目にしている人もある……

 「原爆の日」がすぎると、すぐに、お盆がやってくる。
 広島は、鎌倉・南北朝時代からつづく浄土真宗本願寺派〝安芸門徒〟の多い土地柄。盂蘭盆には朝顔の型に作った盆燈籠を墓に供える習わしがあり、この盆行事がすんで、暑く長い〈広島の夏〉も終えることになる。

 『よみがえる新日本紀行』の映像はそのあと、2020いま現在の広島市街、「川があって成り立つ街」を空から見渡す。
 …と、かつての「くすんだ」佇まいの街がいまは、「垢ぬけて明るい」ことに、あらためて気づかされる。
 もともと広島は、熱く(プロ野球の広島カープなどで盛り上がる)、明るい町なのだった。
  ……………

 「片道最長切符」の旅のボクは、そんな広島駅を通りすぎ、呉線に入って軍港の町呉も通り越し、19日目の夕暮れちかくなって、中国路をあとに四国へ渡っている。
 でも、さて、どこから…?

◆いまは無い「仁堀航路」のこと

 いまの、よほど旅の好きな人でも、JRの旧国鉄時代にあった鉄道航路で知っているのは、「青函連絡船」(青森-函館、青函トンネルの完成により1988年=昭和63年に廃止)か、「宇高連絡船」(宇野=宇野線岡山県-高松=予讃本線/香川県、瀬戸大橋開通にともない2019年=令和元年に事実上の廃止)くらいのもの。
 「仁堀連絡船」というのがあったことなど、ご存知なかろう、と思う。
 (蛇足を加えれば、あの名高い「安芸の宮島」にも、旧国鉄(現在はJR西日本)の「宮島連絡船」が運航されている)

 それも無理のない話しで。
 呉線「仁方」駅(広島県)と予讃本線「堀江」駅(愛媛県)の間に仁方航路が開かれたのは1946年(昭和21)、なんとボクが生まれた戦後の、すぐ翌年。宇高連絡船を補助する目的の航路であった。

 しかし、活躍できた期間がごく短く終わったのは、「多島海」とも呼ばれる瀬戸内海には民間フェリーも多彩に活躍したからであり。存在意義の薄いローカルなフェリー航路に格が下がってからは、マイナーな立地もあって「国鉄職員でも知らない者が多かった」と言われるほど。
 実際には、列車の乗り継ぎに利用されることは「皆無に近かった」そうな。

 それでも、交通公社の『時刻表』には掲載、接続列車の紹介付きで掲載されており。ぼくの「片道最長切符」計画でも、この仁堀航路と宇高連絡船の2つがあってはじめて、四国をルートに取りこめることになった、貴重な存在。
 (ぼくが鉄道に興味をもたず、最長切符を企てることがなければ、知らないままになった可能性がある)

 当時の『時刻表』(1972年3月号、148頁に掲載)による「仁方航路」は…。
 営業キロ70.0km(実キロは37.9km)、運航は朝・午後・夕方の3往復。
 (注記には、仁方駅から港まで徒歩5分、堀江駅から港まで徒歩10分、とある)
 所要2時間5分で、運賃は300円。
 ちなみに、就航船は安芸丸234トン、定員196名、中型自動車8台。

 このときのボクは、山陽本線から呉線に乗り入れる3938M列車で14:07仁方駅に着き、仁方港発14:30の5便で堀江港着16:35、堀江駅発17:14の予讃本線1138D列車で伊予西条駅(泊)に19:20に着いている。

 この航路について、ぼくは「ウラサビシイ船旅」と記している。
 いうまでもない、片や1日18往復もあって、特急・急行列車との接続にも恵まれた宇高航路と比較してのこと、その「雲泥の差、まるで比べものにならない」ことを嘆き。ついでに「仁方駅には駅員一人、堀江駅は無人」と、そのやりきれなさを綴ってもいた。
  ……………




 そんな仁方航路の、廃止は1982年(昭和57)。
 道路交通時代になった現在は、尾道今治〔いまばり〕ルート、通称「瀬戸内しまなみ海道」の橋がこの辺りを通っている。
  ……………

 四国に入っても、ぼくはしばらく、屋根に見惚れていた。瓦の色であった。 
 中国路では、山陰の赤瓦、山陽の黒瓦の対照が印象的だったけれど、四国のあたりでは、その屋根瓦の色が銀鼠(淡路瓦というらしい)の、じつにイイ色あい。そのせいで屋根の勾配まで平たくやさしく見えて…さすが南国。
 この屋根瓦に、ミカンの木の緑が匂うように映えていた。

 「今治」駅に列車が停まって。
 ぼくには、瀬戸内の、いまは海の向こうになった尾道の、ほんの数年前の、甘酸っぱいような感傷の記憶がよみがえる。
 そのときは失恋の痛手から逃れる旅で、瀬戸内の波静かな海に糸をひく雨が、ぼくにフと〝自死〟を想わせ。思いきり気分転換を励ます足が、フェリー乗り場へと向かったのだった…が。

 そこで、ぼくは、ひとり遊びの縄跳びに熱中する女の子に出逢った。
 せつなく人恋しくなる宵どき、ひとり遊びの事情は知る由もなく。
 ただ、その子の、ひたむきな熱中ぶりにボクは心ひかれて、つい声をかけたのだ。
「ここから出る船は大きいの?」
 女の子の背後に、「今治行き」の看板が見えていた。

 しかし
「うぅん、ちぃっちゃいわよ」
 ぼくは、なぜか、その声に救われた想いで乗るのをやめ、失恋感傷旅行にもケリをつけることができたのだった……
 
 そのときまで、ぼくにとって四国は「僻遠の地」であった。
 大袈裟ではなしに、外国よりも「遠い」感覚があった。心(理)距離というやつで、もろもろとりあわせての森羅万象が現実距離を超えて「遠ざけ」ていた、といっていい。
 そうして、それだけ思い入れも深いといえる四国路の、ぼくにとっての初夜が予讃本線の「伊予西条」駅、待合室の寝袋であった。

 その夜、駅近くの銭湯「福助湯」に1日の旅の疲れを癒し。
 閉じた瞼のスクリーンに想いだされた、過ぎし中国路とっておきのシーンは、古びた列車のボックス席。ぼくの前に坐って、ひとときの旅をつきあってくれた土地のお婆ちゃんが、ぽつりと言ったのだ。
「この川は、すてきに水が多いで。4~5日も雨が降ったら、もう、あっちもこっちも、み~んな水に浸かってしまいます」

 列車は、山陰本線「江津」駅から、山中の「浜原」駅まで分け入る〝寄り道区間〟の三江北線(2018年=平成30年春に廃止)。
 車窓に大きく流れる川は、中国山地貫流広島県島根県)するこの地方一の大河、中国太郎の別名もある「江〔ごう〕の川」。
 恵みの川は、また、氾濫を繰り返した川でもあったが。この川を、老婆は親し気に、奥深い趣をこめて「すてきに水が多い」と表現した。

 島国日本の、内陸へ。山や峠を越えていく道も鉄道も、川沿いに拓かれるのがキマリのようなもの。ほとんどの路や線路が流れに臨み、したがってトウゼン、天候が荒れれば崖は崩れ、低い土地は氾濫することになる。
 これからの旅も、ずっと、こうした海・川の流れとともにあることを、ぼくは思った。景観は佳い、潤いもある…が、災害ともいつも隣りあわせだ。

 後日談をすれば
 この旅の終わる7月中頃、現実に全国各地に豪雨被害があって。山陰地方もかなり酷かったらしい…ことは、このとき旅で知り合い、親しく接していただいた車掌さんからの便りで、詳しく知ることになり。
 国鉄(当時)は各線区でズタズタに寸断、なかでも江の川氾濫ぶりはもの凄くて。
「三江北線はいまなお全線不通、開通は来年にもちこされそう」
 とのことだった……


 
 







 

*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。