※あぁ…球磨川、されど…球磨川、人吉はるか…
-No.2543-
★2020年09月07日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 3469日
★延期…オリンピック東京まで → 320日
★旧暦7月20日(月齢19.0)
※このたびの大型10号台風、固唾を呑んで行方を見つめておりました…が、どうやら〈惨禍ふたたび〉ほどのことには、ならなくてすんだようで、〈不幸中の幸い〉というべきでしょうか……
◆〝三大急流〟と「肥後もっこす」
肥後・熊本から薩摩・鹿児島へ。
肥薩線(八代-隼人)124.2km、旅の前半は「日本三大急流」のひとつ、球磨川(あとの2つは最上川と富士川)を遡る。
球磨川には思い入れがあった。
…というのは大学時代、「アイヌ」と渾名される、やたら髭の濃い後輩があり、それに対比するように「熊(=球磨)襲」と蛮人呼ばわりされる男があって…なんと、それが、じつはれっきとした都会産まれのボクだった。
球磨川の語源は知らなかった。
けれども、はじめから親しみがあったのは、そのせいかも…あるいはボクが無類の地理好きだったせい、かも知れない。
曲流する急流が岩を転がし磨いて玉砂利となす…というようなイメージで想い描いていたのだ。
そんな球磨川の急流が、一気に身近になったのは、これも大学の同期に熊本県人あり。親しくはなったが、彼、「熊襲」と渾名されたボクより遥かに粗暴の質(天性)あり。
うっかり機嫌を損じたら股間を蹴り上げられかねない男であった。
「日本三代頑固」というのをご存知だろうか…「津軽じょっぱり」、「土佐いごっそう」、「肥後もっこす」。
その〆くくり、「肥後もっこす」にピッタシ男が、球磨川の上流、人吉の産で。いよいよ東京の大学へ旅立つというハレの日には、人吉の駅ホームで、親族一同と「水盃」涙の別れをしてきた…という昔気質なお噺の主。
彼の結婚式に、在京の友だち連中からの資金カンパを受け、旅の人(風来坊)のボクが、代理出席したのが、前の年の秋。その翌年の夏には、また、ぼくは『片道最長切符の旅』の途次、再訪を果たすという、想えば奇縁がつづくことになったのだった(なんとコレが1971年=昭和46のコト)。
……………
【注】『片道最長切符の旅』☟
*1
◆そこは…ぼくには住めない世界
そのときのボクは、『片道最長切符の旅』のまだ2日目。
枕崎をスタートして最初の泊まりは、鹿児島本線(現在の薩摩オレンジ鉄道)の日奈久〔ひなぐ〕駅。不知火の海に望み、山頭火が愛した日奈久温泉の湧く素朴な湊町で、いまは、こんどの九州豪雨で多大な被害に見舞われた球磨川、河口の八代市内である。
日奈久でにの一夜、駅待合室のベンチに寝袋を広げさせてもらったボクは、翌朝早く、5時半には人々の賑やかな話し声に起こされ。昨晩、駅員さんから聞かされていた朝市の、母ちゃんエネルギーの歓迎?に圧倒されて…。
これから行商に出かけるおばちゃんたちと一緒に、一番列車で出発させられる?という、なりゆきになっている。
三角〔みすみ〕線(現在は、地方交通線の愛称・あまくさみすみ線)に〝寄り道〟。有明海の海風を浴びてから八代駅にUターン、片道ルートに戻って肥薩線。
これで2度目になる球磨川を遡った。
大河に沿って走る鉄道の旅は、窓を開け放って爽快の一語につきる。
しかし、球磨川は名うての暴れ川。つい、この2~3年前の夏にも、台風による豪雨で氾濫をおこしていた。
それでも、ふだんの流れは〝急流〟の名もどこへやら、思わず「わぁお!」と声をあげたくなるほどの、おおらかな流れを車窓に展開する。
「球磨川沿いの肥薩線は、いい」
ぼくは、このときの旅の記録に書いている。が、そのこころのうちには、別な秘めた想いもあった。
それは、大きな川にもかかわらず、両岸にホッと気の和む〈ゆとり〉というものが見られない、合流してくる支流にしても、その〝落合〟がほとんどが直角に近い危うさなのだった。
旅情にひたる風景としてはイイ…が、自身がココに住みたいか…となれば、正直なところ(そこまでの勇気はもてない)気がする。
そんな岸辺の風景だった。
◆肥薩線の駅名が物語る「球磨川」
肥薩線の列車が停車していく駅の名を見ても、〝流れ〟とか〝急な〟感覚を意識したものがつづく。「段」、「坂本」、「葉木(吐き、崖=はぎ)」、「鎌瀬」、「瀬戸石(瀬戸=狭戸)」、「海路」、「大坂間」、「渡〔わたり〕」と、ほとんど駅ごと。
途中には、廃止されたダム跡ものこる。
そんな手狭な岸を、肥薩線の線路はガンバってギリギリ行けるところまで行き、切羽詰まったところで橋を架け、対岸に道をもとめる、ずっとそんなふう。
対岸の道もまた同じで、たがいに意地を見せあいながら、ときおり交差しながら併行して行く…というふうだった。
この流れには、昔からある「球磨川下り」の舟遊びと、くわえてもうひとつ、いまはラフティングというアドベンチャー・ワールドが若者たちの歓声を誘ってもいるのだった。けれども…
ことし2020年7月の豪雨でもまた、甚大な被害を被った流域は、他所者には(尋常ではない)自然環境が身に沁みるばかりだが。
ふだんの流れは、「日本三大急流」のひとつ…が嘘みたいに穏やかな流れの表情を見せる。
この〈嘘みたい〉な表情に騙されやすいのが、この地を知らない他所者の哀しさ…ならワカルのだけれども、実際は逆で、「そんなことはない、自然はきっといつか、かならず牙を剥くときがある」と、窘〔たしな〕めなければならない立場ヒトたちが、束の間の嘘みたいな環境に酔っている、ところがいまでもある。
このときの旅では、ぼくは〈盆地の小京都〉人吉から岐れて、球磨川の源流部を目指す湯前〔ゆのまえ〕線(現在は、くま川鉄道湯前線)にも寄り道。下流部とはまたちがった表情の車窓風景に旅情を満喫。
日暮れの人吉駅に、友のお父さんと妹さんに出迎えられ、旅装を解くとすぐに「〝銭湯〟がいいんでしょ、汗を流してらっしゃいな」と町へ送り出された。
友の実家は旅館であり、彼のお母さんは女将さんであった。しからば、ふつうなら内湯をいただけばいいところ、「入浴は銭湯」がこの旅のキマリみたいになっていた(それでいて寝所だけは、キマリのはずの駅待合室ではなく宿の布団にぬくぬく…つまりは身勝手にすぎない)のだった。
その折、土地人に混じって湯を浴びた中央温泉も、彼が結婚の式を挙げた神社も、球磨焼酎の酒蔵も、道すじの家々もみな、こんどの豪雨水害の被害に遭い。しかも、現在の「新コロ」禍にあってボクは、支援の手助けに行くこともままならない。
友の実家の旅館、いまはなく。住まいを郊外に移した妹さんの身にかわりはない、との報にわずかにホッと安堵する…ほかになかった。
この〝暴れ川〟球磨川の治水、これまでの歴史をふりかえれば、ダム一本槍でどうなるものでもないのは、どう見たって明らかで。だから
こんどの事態をうけ、熊本県知事もダム頼みのみによらない「抜本的な治水見直し」を宣言しており。
流域の将来は、これからが長い歴史の始まりになるかと思われる。
ぼくら、このニッポン列島に住み暮らす者たちも、他所事ではない、この球磨川地域の成り行きを見つめて、忘れたくない。
◆大畑ループで廃車寸前のD51に逢う
※以下は、この地域の復興に向けて、支援に訪れてほしい旅人たちへの誘い、として…
翌日は、なまけて昼すぎの列車。
肥薩線は、前半(八代-人吉)が球磨川沿いの通称「川線」、後半(人吉-吉松)が九州山地えびの高原の真っただ中を往く通称「山線」。
これだけでも、その自然の成り立ちがイメージできると思う。
そのとき、1972年(昭和47)の旅では。
ぼくは人吉駅の肥薩線、下り吉松方面行きのホームで、こんなフシギ場面に遭遇している。
「貨物列車が来て停まっている…変だな、と思って。よくよく見たら前の方に1両だけ客車がついていた。」
これは、「貨客混成列車」と呼ばれるもので、むかしの国鉄時代、田舎の地方交通線では珍しくない風景だった。
ディーゼル機関車の2重連に曳かれ、人吉駅を出発したこの貨客混成列車はまもなく、えびの高原の眩しすぎる緑のなか、ちょいと日本離れしたワイドな天地のあいだをコトコトと、のんびりムードで走る。
行く手に待っているのは、レールが長い距離をかせぎながら円を描くカタチになる珍しいループ線「大畑ループ」。しかも、ただのループではない、途中にスイッチバックという登山鉄道クラスの仕掛けもある。
人吉駅から大畑駅(〝おこば〟の名は焼畑に由来するという)までの間だけで、かつてはD51形蒸気機関車が1トンもの石炭を罐焚き消費し、1分間に250リットルもの水をボイラーに送りつづけて喘ぎ上ったという。
つまり大畑駅には、乗降の「駅」というより「信号所」兼「給水所」の重い役割があって。ここでスイッチバックを折り返して矢岳駅(肥薩線最高所)まで上る。
したがって
大畑駅付近に集落はなかったが、いまは旧保線詰所を改装したレストランが営業。矢岳駅にはSL展示館ができている。
ぼくはまた、このとき、矢岳駅で往年の名蒸機「デゴイチ(D51)」に出逢っていた。しかも、まとめて5機。
……おそらくは廃車を待つ身であったろう、「老兵は去りゆくのみ」のセリフがあまりにも似合いすぎて、思わず涙目になってしまった覚えがある(この写真のD51が展示館にのこっているかどうかは知らない)。
この肥薩線「山線」人吉ー吉松間には、いまも3往復の列車が走り。
肥薩線の終着「吉松」駅からは、吉都線が日豊本線の「都城」駅まで旅人を運んでくれている……
*1:『片道最長切符の旅』 現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。 ぼくのチャレンジは1972年(昭和47)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅(指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅(広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027.8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。 その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の間の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。