どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※僻遠の四国・高知…そして…「阿波踊考~徳島~」 / 『よみがえる新日本紀行』とともに…⑥

-No.2698-
★2021年02月09日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3624日
★延期…オリンピック東京まで → 165日
★旧暦12月28日(月齢26.9)
※次回は、2月12日(金)の予定です※





◆ぼくの、こころの「僻遠の地」

 前回、11月17日(火)記事〈「ドームと盆燈籠~8月のヒロシマ~」/『よみがえる新日本紀行』とともに…⑤〉につづく四国路。

 そのなかで、ぼくは四国を「僻遠の地」と呼んだ。
 「四国・僻遠」については、きっと(おもしろくもない)感情をおもちの方がおられると思う。けれども、ぼくの知るかぎりで申し上げれば、(なるほどたしかに〝僻遠〟)とナットクくださる方、あるいは〝僻遠〟に〝俳味〟といった風情を感得される方も少なくない。

 地理的に言えば、たとえば地球規模なら〈極地〉だろうし、国内であれば〈北海道〉あるいは〈九州・沖縄〉になるはずの。ところがドッコイ、やっぱり〝僻遠〟の地は「四国」になってしまう。
 その心象風景には、いうまでもない八十八ヶ所札所巡りの「お遍路」が色濃い影響を与えていたことに、ちがいはない。

 ぼくの母は、信仰心篤く、年寄ってバスの助けを借りてながら「遍路」満願を果たしており。しかし、仏教の薫陶をうけたボクの方は、「遍路」を心に、巡礼はなしにこの世を去るだろう…そんな想いもこめての、〝僻遠〟でもあった。

 もうひとつ「僻遠・四国」のワケは、交通インフラにもあり。
 それは、ぼくがかつて青春時代にチャレンジした、当時の国鉄「片道最長切符」の旅にも、大きな影響をもたらしてもいた。
  ……………

【註1】国鉄「片道最長切符」の旅
*1
  ……………

◆四国への出入りの自由度は…!?

 この、かつて旧国鉄時代の「片道最長切符」の旅。
 キマリのルールは、始点・終点をのぞいて利用できる線区は、かならず接続する他の線区との間に、出口と入口ふたつの接点がなければならない。

 前回の記事でもお伝えしたとおり、四国の場合。ぼくが旅した1972年(昭和47)当時は、宇高連絡船(宇野/宇野線岡山県~高松/予讃本線・香川県)のほかに仁堀連絡船(仁方/呉線広島県~堀江/予讃本線・愛媛県)があったから、出入りはできたのだが。

 惜しくも線区の繋がりには恵まれなかったため、全47都道府県中、離島の沖縄を別にすれば、四国の高知県にだけは立ち入ることができなかったのである。
 鉄道好きな方は『時刻表』の索引地図、四国のところを見ていただきたい。

 いまは、土讃線高知県)と予讃線愛媛県)の間を繋ぐ予土線(〝しまんとグリーンライン〟の愛称をもつこの線は、清流四万十川を身近にするアドベンチャー鉄道として人気がある)ができているけれど、その76.3km全通(完成)は1974年春。
 ぼくの旅から2年後だったわけだが。もうひとつ、間に第3セクターの土佐くろしお鉄道の所有区間が挟まる不都合があったために、「片道最長切符」のルートには採用できなかった。
 時代という世の動きには、こうしたイタズラな側面もある……

 もうひとつ、全国統一規模の「国鉄」から「JR」5社に分割民営化されて後には、さまざまな変化があったのだけれども。
 そのひとつ、四国では「本線・支線」の区分がなくなった。
 本線・支線の関係は、たとえば東京-神戸間を結ぶ大幹線「東海道本線」には、「山手線」「横須賀線」「御殿場線」などなど…といった数々の「支線」群が存在。まぁ、ざっくり「親分子分」関係といってもいい。
 「JR四国」は民営化後、国鉄時代の「本線」名称をすべて廃止。「予讃本線」「高徳本線」「土讃本線」「徳島本線」から〝本〟を削除している。

◆風景は「箱庭」から「懸崖の千枚田」へ

 ぼくは、ここ四国に足かけ4日、実質2日ほどの〝鉄旅〟をさせてもらったわけだけれども。「四国は箱庭的だ」と感じたボクには、やはり、やや斜に構えたくなるような気分があったのかも知れない。
 車窓の農村風景は、ひたすら長閑〔のどか〕に展開して、ときに「桃源郷」さえ想わせ、瀬戸内の海に沿う家並はあくまでもオットリと眠気を誘い、その間に散開する小さな町々はあくまでも温かく明るい。そうして、総じて見たときには「とりとめがない」という風であった。
  ……………

 そんなわけで、というか。
 そんなワケがあってもなくても、なにしろボクは、〈寄り道〉をしてでも県境を越えて高知県に足跡を記しておきたかった。

 以下、ぼくの「片道最長切符」の旅。20日目と21日目の行程記。
《20日目》
伊予西条-(予讃本線)-多度津-(土讃本線)-佃-(土讃本線、※寄り道区間/往)-高知(泊)
《21日目》
高知-(土讃本線、※寄り道区間/復)-佃-(徳島本線)-佐古-(徳島本線、※寄り道区間/往)-徳島-(徳島本線、※寄り道区間/復)-佐古-(徳島本線)-池谷-(鳴門線、※寄り道区間/往)-鳴門(泊)

 高知県への寄り道は、とくに「乗り換え」とか「列車待ち」を必要としない。
 「片道最長切符」の旅程では、多度津から乗った土讃(本)線の列車を、「佃」駅から岐れる「徳島本線」に乗り換えることなく、そのまま行けばよかった(運賃は別途清算)。

 その土讃(本)線は、佃の駅を出ると次の「阿波池田」駅でもう、徳島県にお別れ、高知県に入る途端に、〈杣〉の風情濃厚な渓を眼下に、「祖谷口」…「小歩危〔こぼけ〕」…「大歩危〔おおぼけ〕」と、まるで列車がそのまま吊り橋を行く風情。道路もそのすぐ隣りを寄り添うように、危うく抜けて行く。

 覗き込めば吸い込まれそうな谷は、逆に見上げても空が驚くほど遠く高い、まさしく天地の狭間。
 その深い谷を切り拓いた千枚田が、クラクラするほどストーンと落ち込んだ下から、それこそ天上まで「耕して天に至る」一幅の画におさめ。

 旧い列車の乗降デッキに腰かけ、それを眺めていたボクは、車掌さんから「落ちないでくださいよ」と、まんざら冗談ばかりでもない口調で声をかけられた。
 鉄路はそんななかを怖々風情に、一度スウィッチバックしてから、あとはもう一気に、すっかり田植えもすんだ高知平野へと駆け下って行くのだった。




 高知では、高校時代の友に迎えられ。おたがいさまにまだ独身時代ながら、そろそろ年貢の納め時を近くする、彼の独居に泊めてもらった。
 独文学カフカ研究の道を歩んだ彼は、東北大学を出て高知大学の教壇に立っていた(その彼も半世紀後の現在は退官して名誉教授…)。

 前夜は種々〔くさぐさ〕の話しを晩くまでして。さて翌日の日曜日は、彼が「きみにぜひ見せたいものがある、きっとよろこぶと思うよ」と、「川上不動尊早安寺へ案内してくれた。
 いやマイッタね、一本とられた。
 友が、ぼくの性向(あるいは性行)をここまで心得ていてくれたとは…。

 この、お不動さんの本堂壁には「おひろめ」の紙がペタペタ貼られてある。
 つまり、このお不動さんが庶民のあれこれ祈願に応えてくださる、その徳を讃え、ご利益に感謝する記しの「おひろめ」であった。
 「〇〇の望みをかなえていただきました、ありがたく、おひろめさせていただきます」と。
 たとえば東京・巣鴨の「とげぬき地蔵」ほか、全国に同趣の信仰形態はさまざま見られるわけだけれど、このお不動さまもそのひとつ。年代を問わず、幼子から高齢者までの「おひろめ」には、こころ根を癒されるものがあった。

 そのあとは高知市内、大手筋で開かれている日曜市を覗きながら、ぶらぶら歩き…ここまでで滞在はタイム・アップ。ぼくは、ふたたび「旅の空」にもどった。
 そういうわけで、ぼくはこのとき、高知城にも、浦戸・桂浜の「坂本竜馬像」も見ていない。
 その後、足摺岬へは取材行のチャンスがあったけれど、高知市は素通りで友とも逢えずじまい。ぼくの、高知の想い出ほかにない。
 でも、そもそも〝旅〟とはそんなもの…〝旅情〟に絶対必須「なくてはならない」ものがあるわけじゃない。




◆「阿波踊り」の徳島、「渦潮」の鳴門

 ぼく、このとき「片道最長切符」の旅では、各駅停車の列車に乗ること、そして各駅のホームに足跡を記すことを、みずからテーマに課していた。
 帰りの土讃(本)線の〈各停〉普通列車は、よく停まり、そして長く「列車待ち」を繰り返す。

 運行の列車待ちには、単線区間での対向列車待ちと、複線区間での優等(特急・急行)列車待ちがあって。じつは、それまで土讃(本)線には特急がなかった(!)ところ、その春の「国鉄ダイヤ大改正」から晴れて特急列車が走るようになった経緯があり。
 そんな特別な事情が、ボクの頭にあったせいかも知れないが、じつにたびたび、チョコチョコと停まっては、そのたびに特急・急行に追い越された。

 特急列車の導入は交通の利便性向上が眼目とされる…けれど、このときボクは幾人かの〈各停〉普通列車の地元乗客から、正直な感想の声を聞いている。
「格が上がった…とか言ってるけどもな、こっちは、かえって不便になったさ」と。
 そこへ、車掌の車内放送がながれる。
「おいそぎのところ、たいへんもうしわけありませんが…」
「ジョウーダンじゃねぇよな、とても急ぎで乗れたもんじゃない、バカにしてるよ」
  ……………

 「佃」駅で徳島(本)線に乗り換え、「片道最長切符」のルート上に復帰。
 しかし…この線の終着駅「徳島」は、また、ルート上の駅ではない。〈鉄道好き〉でもない方にはモウシワケナイけれど、1つ手前の「佐古」駅が高徳本線との接続駅にあたるため、佐古-徳島間は寄り道区間になる。
 …といっても、途中下車せずに乗り換えるぶんには、別料金をとられることはないのだけれど。ぼくは徳島の街をひと目…いや、街の匂いをぜひとも、ひと嗅ぎしておきたく。それはいうまでもない「阿波踊り」ニオイであった。

 ぼくは、隠れもない「お祭り好き」である。
 そこの土地の、真の〝底力=地力〟といったものは、祭りでしか味わうことができない。極端にいえば(近ごろはいよいよ増して)、ふだんの暮らしは〝借り着〟にすぎない、気さえしている。

 なかなかチャンスには恵まれないけれど、たとえば青森の「ねぶた」を、ぼくは祭り本番の日だけじゃなく、その「祭りの後・先」も含めて知ってはじめて、「祭と人」に出逢えた実感があったからだ。

 徳島の「阿波踊り」も、そのひとつ。
 NHKの『新日本紀行』で「阿波踊考~徳島~」の放送があったのは、昭和45年(1970)。ぼくの「片道最長切符」の旅の2年前だった。
  ……………

【註2】『新日本紀行
*2
  ……………

 映像は当時の世相を描き出すことからスタートしていた。
 つまり、徳島にも「安保闘争反戦集会のデモが繰り出す様子が紹介され。しかし、これとて阿波徳島名物の「踊る阿呆」にはまるで勝ち目がない…といった様子をうかがわせる。

 徳島…は、吉野川の河口で、「藍」の名産地。
 藩政時代は蜂須賀家が幅を利かせていたものだ、けれども、それもいまはむかしで、影が薄い。

 徳島の夏といえば、8月13~16日の「阿波踊り」これしかない。
 …というのも、他所からやってくる観光の客よりなにより先に、地元が「踊らにゃそんそん」と浮き立ってしまうのだから、失礼もなにもあったものではない、と。
 徳島の街は「阿波踊り」じゅう、毎年100万人もの人出で大賑わい。その懐をネラう、掏りにも絶好の稼ぎ時になるので、警察も特別警戒にのりださねばならないほどである。

 ともあれ、なにしろ
 藍を育てる農家の人も、鮮魚の行商をする母ちゃん婆ちゃんも、役所のふだんは堅物の職員さえも、この4日間にかぎっては「踊る阿呆に」なりきってしまう。

 徳島名物には、もうひとつ「人形浄瑠璃」があって、町民のなかには、ふだんはコレにハマっている人も多いのだけれど。その人形浄瑠璃の舞台にも阿波踊りの場面があるほど。
 しかも、阿波踊りを〝芸〟に仕立てたのも人形浄瑠璃といわれるほど、底が深い。
 したがって、浄瑠璃ファンもこぞって夏のお盆は「阿波踊り」に浸りきる。

 「盆踊り」は、盂蘭盆供養の「精霊踊り」が起源とされ、「阿波踊り」も元は「輪踊り」であった、そうな。
 街のメイン通りに8ヶ所の見物桟敷が設けられるほか、演舞場も特設される。
 
 創意工夫を凝らした「ふり」に踊り手の個性あふれる「男踊り」と、揃いの衣装で妍を競う「女踊り」とがあり、近ごろは「男踊り」に進出する女性も多い。
 「男踊り」の身体の動きは、「なんば」と呼ぶ日本古来の歩行法(右手と同時に右足が出る式…なので腰に負担がかからない)を踏襲。
 男踊りにも、女踊りにも、それぞれ名人(たとえば男踊りなら「御座留連」の四宮生重郎さん=19年9月死去、など)と呼ばれる人たちがいて。それぞれに「踊らにゃそんそん」と、なにしろ多士済々…。
  ……………

 しかし。
 祭りにはまだ間のある徳島、ふだんの姿は県庁所在地の大きな街にすぎない。
 どこかの集会所では、踊りに稽古がつづけられているのだろう、けれど、初見参の旅の身には知る由もなく、ニオイもなく。
 しかたなくボクは、あきらめて「鉄旅」をつづけ…。

 次に目指したのは、「うず潮」の鳴門。しかし、鳴門線も端っこ線、すなわちボクには「寄り道」線。
 途中の「立道」駅で、スタートから1000駅を数えたことが、当時の「旅のメモ」に記録されてある。

 しかし。
 ここ鳴門でもまた、夜に到着・朝早く出立のスケジュールでは、「うず潮」を見る時間もとれないまま。
 四国で最後の夜を、高知で食べはぐれた「カツオのたたき」腹いっぱいに満たして鳴門駅のベンチに寝て。
 もう翌日、昼頃には宇高連絡船に乗って瀬戸内海を中国路へと渡り返している。

 宇高連絡船で特筆すべきは、名物「讃岐うどん」.
 船の後甲板に「連絡船うどん」の店が開いているのだけれど、この「うどん」がバカ美味! 
 後日再度、わざわざカミさん連れで四国を訪れることになったほどだった。




 
 

*1: むかし「乗り鉄」の憧れ。現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。つまり、二度と同じ駅・経路を通らずに行くかぎり、1枚の切符にすることができた。このルールを最大限に活用して挑むのが「片道最長切符」という、超贅沢の夢世界。新しい鉄路が生まれる(誕生したり延伸したりする)たびに、記録更新の可能性も更新された。  ぼくが、小出-会津若松135.2kmの只見線(新潟・福島)の全通を待って、当時の新記録を達成したのが、1972(昭和47年)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027 .8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。

*2: NHKで、1963年から1982年までの18年半の間に、制作本数計793本という記念碑的な番組のひとつ。日本の細やかな地域風土を紹介する紀行番組の草分けで、その紀行精神は、後の『新日本風土記』(2011年春からBSプレミアムで放送)に受け継がれている。  あの頃をふりかえると、この『新日本紀行』につづいて民放では日本テレビが、当時の国鉄キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』とタイアップするかたちで 1970年(昭和45)から『遠くへ行きたい』をスタート…いまから想えばセンチメンタル・ドリーミーないい時代。  この『新日本紀行』でとりあげた日本各地をもう一度訪れ、当時からその後の歴史をふりかえって紹介しようと、新たに始まったのが『よみがえる新日本紀行』の取り組み。新日本紀行の制作は、16mmフィルム撮影(VTR=ビデオテープ録画ではない)で行われたおかげで、フィルムライブラリーに記録がのこった、昔のものでは珍しいケース。1967年からはカラー放送になっていたものを、2018年から、高精細の4K画質に変換・制作、ハイビジョン放送されている。