どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※波濤の太鼓~奥能登・外浦~ /         『よみがえる新日本紀行』とともに➁-補遺-

-No.2550-
★2020年09月14日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 3476日
★延期…オリンピック東京まで → 313日
★旧暦7月27日(月齢26.0)





◆輪島の銭湯で「男湯」と「女湯」をまちがえたこと、など

 すでに書いた記事を〈補遺〉したくなったワケは…
 たとえば、そう、背中の手の届かないところが痒い、とか。あるいは、頭のどっか隅っこに忘れ去られたのを拗ねるモノがある。そんな感じ…
 置き忘れた荷物に気がついた、といってもいい。

 能登は、ぼくの愛着する風土のひとつで、幾度も訪れてきたところだった、が。
 ふと気がつけば、いつのまにか鉄道の記憶が希薄になっており、それはつまり「レールと駅がなくなっている」からにほかならない。

 能登半島へは、以前、北陸本線・金沢から3つ目の津幡駅から岐れて、七尾線日本海側の〝外浦〟輪島駅まで走り。途中、穴水駅から分岐して、富山湾側の〝内浦〟方面へは能登線蛸島駅まで行っていた。
 けれど、いざ取材で駆けまわるようになると、小まわりのきく車の便利にかまけ、鉄道はマイ・カー車窓の風景になっていった…のだった。
  ……………

 そんな日本の、かつて、「国鉄」(現在のJR)を軸に全国に鉄道網が張りめぐらされていた、〝最盛期〟も晩年の頃に、ひとつ。
 能登の風土を印象づける風景があったことを、ぼくは想い出していた。
  ……………

 9月11日(金)「波濤の太鼓~奥能登・外浦~ / 『よみがえる新日本紀行』とともに➁」記事に述べたとおり、『新日本紀行』の放送が1971年(昭和46)、ぼくが御陣乗太鼓との出逢いを果たしたのが76年(昭和51)だったわけだが。
 『新日本紀行』放送の翌年72(昭和46)に、ぼくは能登・輪島を、鉄道の旅で訪れている。
 それが「片道最長切符」の旅だった。
  ……………

【注】『片道最長切符の旅』☟
*1
  ……………

 このときは、65日間という長途の旅の24日目。
 京都・丹後半島宮津線から舞鶴線小浜線敦賀駅から乗り継いだ北陸本線津幡駅で一度お別れ。七尾線に〝寄り道〟して輪島駅まで。
 「風のつよい1日だった」と旅のメモに記したボクは、この能登半島の奥まった終着駅の、いつものとおり待合室のベンチに泊めてもらっている。

 この日は、好きな日本海がチラホラとしか見えなかったうえに、北陸トンネル(全長13,870mは新幹線をのぞく在来線狭軌では日本最長)付近では前を行く急行列車の人身事故による影響で遅延したり、ほかにもアレコレあって、ぼくは草臥れ、気もおもくなっていたから。
 七尾線への〝寄り道〟が、いい気分転換でもあった。

 さて、輪島駅。
 能登半島…といえば、「波荒い日本海」いつも目の前のイメージだ、けれど。
 駅は輪島の町中にあって、波音も聞こえず、すでに日暮れて暗い。
 〝旅〟には、そんな一面、思いどおりにはならないゲンジツが、つねにつきまとう。かわりに、思いがけない出逢いもある…そのへんがたまらない魅力でもあった。

「この町の銭湯もおもしろかったな。」
 ぼくは、そう記録している。
「造りが、とっても変わってる。脱衣所の隣りに座敷があって、ここで涼めるようになっている。ここなんかにも北前船の頃の面影…というわけだろうか。浴場はもっと変わっていて、女湯との間の、壁の一部がガラス張り…」
 と、まだ若かったボクは一瞬、ギクリとしている。
「…だったけれども、ガラスの間にはカーテンがあって、どちらからも覗けないようになってる。さらに、水をかぶりたい人のためには庭に水槽の備えまである、というふうでさ、これにはすっかり感心させられちゃった。」と。

 さらには、もうひとつ。
 このときボクは、間違って女湯の方の戸を開けてしまい、「キャッ」などと叫ばれている。これにはワケがあって、ぼくの経験によるかぎり、「男湯」と「女湯」の位置関係は左右のキマリがない。
 それが知れたのは、この旅でボクは、ほとんど毎日のように、見知らぬ土地土地の銭湯に入ったからであり。結果、「いくぶん男湯を右にしているところの方が多かったようだ」と感じている。

 したがって、このときは御陣乗太鼓の「ご」の字もない。
 「朝市」も「白米千枚田」も、〝外浦〟特有の「間垣」風景もない。
 ナニを食べたかも記していない…ほど、草臥れていたと見える。

 翌日は、朝から冷たい雨降り。
「この雨と豊富な杉と漆があって、はじめて輪島塗があるんです」
 駅員さんに教えられたボクは、そぼ降る雨のなか、穴水から岐れる〝内浦〟の汀に沿って能登線にも〝寄り道〟往復。
 景色にも、人々の顔つき、人情にも、〈内・外の違い〉があることを感じとっている。
  ……………

 なお、七尾線の現在は「穴水-輪島」間が2001年に廃止。
 能登線は1988年、第三セクターのと鉄道」になった後、2005年(平成17)には 「穴水 - 蛸島」間 が廃止。
 いまは、七尾線の「和倉温泉-穴水」間だけが、「のと鉄道」としてのこされいる。否も応もない…そういう時代になった。

 

*1:『片道最長切符の旅』  現在「JR」の旧国鉄時代。列島の国鉄全線を対象に(航路も含んで)端から端まで、「一筆書き」の〝片道最長〟を記録する旅遊びがあって、「全線完乗」と並ぶ究極の〝乗り鉄〟チャンレジだった。  ぼくのチャレンジは1972年(昭和47)5月15日から7月18日にかけて。枕崎駅指宿枕崎線、鹿児島県)から広尾駅広尾線=現在は廃線、北海道)まで、切符通用日数の65日間をかけて、総距離1万2771.7キロ(当時の国鉄営業キロ2万890.4キロの約61%)。なお、コース外の線区にも〝寄り道〟乗車した分を加えると、1万6027.8キロ。地球の赤道直径と全周の1/3を超える〈鉄旅の人〉になった。  その間の駅数2848(総数3493)、切符の運賃2万7750円(寄り道分を除く)。これは、いまでも「安い!」と思う…けれど、その頃、まだ若かったボクには大金。ちなみに、この旅の間の泊まりはほとんどが駅の待合室。それが許されたイイ時代でもあった。