どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

快生やすみ…いただいてます

-No.1493-
★2017年10月23日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2419日
★ オリンピックTOKYOまで → 1005日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ⑯4日目(5)大川小学校… 今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1492-
★2017年10月22日(日曜日)
★11.3.11フクシマから → 2418日
★ オリンピックTOKYOまで → 1006日






◆8月30日(水)、<現状保存>と<内部非公開>

 石巻市立大川小学校のその後は、混迷がつづいている。
 訴訟はこの春、控訴審が始まった。

 昨年10月の一審判決は「津波襲来は予見できた」とするもので、市と宮城県に賠償を命じた。
 一審敗訴の市と県側はあくまでも「予見不可能」の立場で、控訴
 いっぽう遺族側は一審判決の認定不備を指摘して、こちらも控訴

 大災害の復興にむけて、なんともやりきれないこの訴訟騒ぎは、その結果があまりに重大すぎた事実と、このことの責任にはじめから向きあえなかった被告側が、向きあうことに怯〔ひる〕み、なにものかを守りたい構えをとってしまったことで、混迷の溝に嵌まりこんだといっていい。

 《11.3.11》の大津波、大川小では児童74人と教職員10人が犠牲になった。
 裁判で唯一生きのこった教職員への尋問がおこなわれていないこと、そうして、提訴した側も74人中23人の遺族にかぎられたこと、二つの理不尽が雨をはらむ雲の層を厚くしている。
 どんな決着にいたったとしても、憾みを遺すことになるだろう。

 そんな重い空気の流れるなか、この4月には大川小「現状保存」の整備方針案が石巻市から示された。
 鎮魂と津波避難教訓の場として、校舎や既存の施設は現状の姿をのこす予定で、2019年度中の完成を目指すという。

 その後、市と遺族側との話し合いの結果、「旧校舎の内部を非公開とする」ことで大筋合意したことが、8月中旬に明かされた。
 非公開の背景には、公開する場合には必要となる安全対策工事が、「なるべく校舎の現状に手を加えないでほしい」遺族側の考えに寄り添えないため、ともいう。

 いずれにしても、先にふれた仙台市立荒浜小学校の内部公開事例(10月08日記事)と比べて想うとき、その落差のあまりの大きさに慄然とせざるえない。
 http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=8599973812302890988

 あのとき以来、ここを通れば必ず慰霊に立ち寄ってきた。
 そのぼくは、これまでこの旧校舎跡に、人影のなかったことがないのを知っている。
 教育関係者の訪れが多いことも……

 きょうも、案内されてきた人小人数の姿があった。
 これからどういうカタチで遺されていくのか、否応なくすぎゆく時だけがその行方を知ることになる。


《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ⑮4日目(4)女川・雄勝…〝活況〟と〝遅滞〟と 今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1491-
★2017年10月21日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2417日
★ オリンピックTOKYOまで → 1007日









◆8月30日(水)、ひたすら丘上へと駆け上がる

 女川。
 あの大津波のとき……

 沿岸各地の被災記録映像で、なにより強烈だった〝引き波〟の脅威。
 その印象とびぬけてつよい女川は、それがらずっと素通りできない地でありつづける。

 蛸壺を思わせる狭小な女川湾、国道398号に沿って、ほとんど平地らしいもののない谷間の港町は、石巻と南三陸気仙沼との結ぶ交通の要衝にもあたって。
 復興の工事と物資の往来、二つの動線が錯綜する、まさしく坩堝〔るつぼ〕
 曲がり角ひとつ間違えれば、うっかりするとアッという間に町外れまでもっていかれ、じっさい、何度Uターン&出戻りを繰り返したことだろう。

 その女川の復興、変貌ぶりが、2015年春の新女川駅完成とともに、目に見えてきた。
 女川の定点ポイントは、港のすぐ背後、地域医療センターのある丘の上。
 今年そこに立つと、駅・港周辺の商工業地から、住民の生活舞台になるのであろう宅地造成が、ダイナミックに高台へと進出し始めていた。
 将来ある町の姿がハッキリしてくるのは、(まだまだアレコレ課題はあるだろうけれども)なにはともあれ、いいものだった。

 10年…という数字が脳裡にワイプしてくる。
 一応の復興成るとき、そのときまでの目算である。

石巻市雄勝

 石巻から来た国道398号は、女川の町を出て峠にかかり、浦々浜々を巡るうちにまた、石巻市の行政区域に入る。
 かつての雄勝町は、2005年の町村合併で石巻市になった。

 《11.3.11》の大津波があって後、復興の計画と進行の遅滞が目だってくるにつれ、難を逃れて仮設に暮らす地元住民たちの間から、「石巻市になってよかったんだかどうだか…?」という声が多くなるをボクも聞いている。

 そうして、ざんねんながら、その後の雄勝地区を見とどけるうちに、その「どうだか…?」の負のイメージがむくむくと頭をもたげてくるばかり。
 復興への手もうたれてはいるのだが、点にすぎず、線や面に発展しているケースは…目に見えない。

「もういちど元の暮らしに戻りたい」
 仮設団地の空を仰いで溜息まじりだった人で、その後、古里を離れた人は少なくない。

 震災前の11年2月現在で約1600世帯4300人あった雄勝地区の人口(雄勝総合支所調べ)は、16年度推計でおおよそ7割減。
 (この雄勝地区では、こんどの震災津波で171人が死亡、いまだに71人が行方不明だ)
 これからも人口流出は避けられない見込みで、約620世帯1400人くらいになるだろう、という。
 それでも〝人里〟、〝狐狸の穴〟ではないのだ。

 雄勝の人たちが女川の活況を見たら、その落差の大きさに落ち込まざるをえないだろう。
 それも隣り同士だけに余計に。

 8月も末のこの日、浜の「おがつ店こ屋街」にも人影は絶えてなかった……
 

快生やすみ…いただいてます

-No.1490-
★2017年10月20日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2416日
★ オリンピックTOKYOまで → 1008日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ⑭4日目(3)牡鹿半島、鮎川「おしかのれん街」  今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1489-
★2017年10月19日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2415日
★ オリンピックTOKYOまで → 1009日







◆十八成浜の、その男ゾルバ

 石巻の沿岸部、南浜を後に、牡鹿半島へ。
 半島の突端、金華山を目の前にする鮎川へ、Nさんに逢いに行く。
 《11.3.11》後、鮎川にできた「おしかのれん街」にNさんの店がある。

 Nさんの店は、酒屋である。ぼくは、呑兵衛である。
 といって酒の香に誘われたわけではないが、気脈がつうじやすいこともたしかで、とにかく初めて訪れたときから親しくお付きあいさせていただいている。

 大津波から2~3年のあいだ、支援する側にもとめられたのはまず、沈みがちな被災した方々の気もちをやわらげ、ひきたてることだった。
 しかし、こちらも同じ人、カラ元気にもかぎりがある。
 そんなこちらの気分を、逆に明るく晴らしてくれた方の一人がNさん。

 半島の海水浴場、〝鳴き砂の浜〟としても知られた十八成浜〔くぐなりはま〕にあったNさんの、店舗兼住宅も流失。
 低地にあった十八成浜は、大幅な土地利用変更の必要に迫られることになり、浜の住民は高台に移転。
 そこに新築成ったNさんのお宅に、昨年はおじゃまさせていただいた。

 いまある「おしかのれん街」の店も、地域に復興の目途がたつまで。
 すでに、ここを引き払った店もある。

 Nさんのこれからも、まだ未定。
 彼は、地元でも知られた実業家のひとりで、もともと養鶏業が本職。
 酒屋も、現在は大型船舶用の取引が主になっているらしい。

 なにしろこの男、Nさんは<めげる>ことを知らないかに見える。
 『その男ゾルバ』(マイケル・カコヤニス監督、1964年公開)というギリシャの民俗・風土を活写した映画(ぼくの歴代映画ベスト10に入る名作)があった。
 主演のゾルバ役は、アンソニー・クイン
 そういえばNさんの風貌、どこかアンソニー・クインに似ている。

 Nさんは、教養人でもあって、地域のあれこれにアンテナの感度もよい。
 こんども、牡鹿半島をはじめこの地域一帯に特産する粘板岩(スレート)の情報を伝えてもらった。
 この粘板岩(スレート)は、大正ロマンをただよわせる東京駅の屋根材にも使われている、という。

 (ぼくは、その東京駅をかつて総合的に取材したことがあり、円く鱗状にカットされた屋根材も実物をこの手にたしかめた記憶がある)
 Nさんによると、十八成浜の家々にもかつてはこのスレート瓦が使われていた、というのだった。
 その浜の古民家もいまはない……


 
 

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ⑬4日目(2)石巻市、「南浜つなぐ館」     今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1488-
★2017年10月18日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2414日
★ オリンピックTOKYOまで → 1010日








◆8月30日(水)、雨のち曇り

 石巻の街。
 旧北上川の河口右岸(西側)、石巻城址日和山公園から見ると、山裾から海へと低平な土地の広がりが、工業地に使い勝手のよさそうな、けれども反面、大きな海波に襲われたらひとたまりもあるまいことを、イヤでもナットクさせられる。

 じっさい、あの《11.3.11》の大津波では、この海岸低地一帯、完膚なきまでに浚われ尽し、逃げ惑う車の群れに背後の市街地は大混乱に陥った。
 1年を経ても、早春の石巻はまだ、瓦礫の撤去にも…どこからどう手をつけたらいいものか…途方に暮れる風情で、他所者には足を踏み入れることもできないほどの酷いありさま。
 西の山裾にあった旧門脇〔かどのわき〕小学校は震災遺構になる予定で、学校は他校と合併、この地を去った。

 震災後は各地にでき、慰霊・見学に訪れる人たちの拠りどころにもなった献花台広場が、いつになっても荒れ果てた風景のなかに、うたた寂寥。
 3年がすぎても、南浜にはお稲荷さんの小さな祠がひとつ、立ち枯れた樹と雑草の生い茂るなかに、きぶん沈んであるだけ……だった。
 自然〔じねん〕に対して、ただひたすら、人智の遠く及ばないことを知らされるばかり。

 ……………

 その南浜に、東日本大震災メモリアル「南浜つなぐ館」ができて。
 ことし1月末にオープンしたことを知ったときから、ぼくは訪れることを決めていた。
 
 大震災のその後ずっと、とりとめもなくなった廃墟に〝導標〟でありつづけた、
「がんばろう! 石巻
 そこは、あの大きな看板のあった場所。
 あの荒れ果てていた南浜に、それこそ沖の漁り火にも似て「灯りがともった」とすれば、それだけでウレシイ。

 しかし、現実にはまだまだ厳しいものがあった。
 他所者とはいえ<巡礼>者のボクには、訪れつづけてある程度までは土地勘できていた場所…にもかかわらず。
 所在地住所をインプットしたカーナビが、現地に近づくや戸惑い(?)をくりかえし、挙句は架空の道の上へと彷徨〔さまよ〕い、流離〔さすら〕う。

 心覚えの辻を曲ってみても、あえなく行きどまり。
 雨で泥濘るんだ道を押し切って行くと、やっと離れた別の辻でナビが地上に舞い下りる。
 この繰り返しに骨が折れた。
 一帯は被災後「非居住地」とされたはず、それだけに道の付け替えなど思うがままなのであろう、どこにどんな将来計画があるのか知る由もないが、(ひとつ大きな区画ができるたびに道は付け替わる)状態らしかった。

 やっとのことで辿り着いた「南浜つなぐ館」は、しかし、扉を閉じていた。
 壁の開館案内に「土日祝日、午前10時~午後3時」とある。
 被災地施設の現状、これが正直なところであった。
 「がんばってますよ」のメッセージ。

 開館していないことを承知で訪れたのか、と問われれば。
 そういうこともある、と応えるしかない。行程にもよるし、ともかく現地を踏んでわが目わが意識に印しつけておく、こともある。
 人の世の明日はわからない。

 ここでは、震災からおよそ1ヶ月後の被災地の様子を、バーチャルリアリティー(VR)で視界360度の体験をすることもできる、という。
 「防災意識の向上に」との願いは、来館者(年間1万5000人以上とか)に届いているようだ。

 折から夏休みのしめくくりに…だろうか、訪れた高校生と思しき若人のグループに、熱心に説明をする方の姿があった。
 〝希望の灯り〟がともる敷地内に、ひときわ高いポール。その見上げるてっぺん辺りに「東日本大震災 津波ここまで 6.9m」と記されてある。
 ぼくの身長が171cmだから…4人分を積み上げた高さの海波であった。
 
 一帯は2020年度を目標に「石巻南浜津波復興祈念公園」に整備される予定と聞いている。




 

 
 

 

サッポロ「エーデルピルス」なる極々の旨しビールを…はじめて味わう

-No.1487-
★2017年10月17日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2413日
★ オリンピックTOKYOまで → 1011日

◆すぐる秋彼岸1日

 目黒不動に近い菩提寺に墓参りのあと。
 いつもなら軽く猪口酒にほろ酔い、蕎麦など啜って帰るところだが。
 ふと趣向をかえてみよう…気になった。

 目蒲線不動前駅近くに、安気そうな中華料理屋を見つけて入った。
 五目の焼きそばに餃子でもつつきながら、(そうだナ昼間っから紹興酒でもないか)と思って「ビールを」頼もうと、声をかけながら目をやった壁に、中ジョッキにつがれたばかりのいかにも旨そうなビールの写真。
 思わず「これかね」と注文を聞きにきたお手伝いらしい女性の顔を見たら、「おすすめします」とニッコリ。
 そのビールの名は「エーデルピルス」。

 ……………

 ぼくは、もうずっと以前に西伊豆の料理茶屋で、ひとめ惚れに気に入った給仕の女の子がいたのを想い出していた。
 客商売というなんとも摩訶不思議な小宇宙世界には、ときに、まさしく<招き猫のたくまざる天性の愛嬌>をもった人というのが、そう、ざっと千人にひとりくらいの割合でいる。
 もちろん、ほとんどの場合が女性(稀にだが男性もいないわけではない)で、日本なら「侠〔きゃん〕」、欧米なら「キュート」な存在といっていいだろう。
 それはときに、<もてなし(接待)>の領域を軽々と超える。

 極端なことをいえば、少しくらい酒肴・料理のほうに遜色があっても、その女性のもつ気分でそれくらいカバーできてしまうし。
 いうまでもなく、料理も店のたたずまいもケッコウとなれば、これはもう贔屓にしない手はない、というやつ。
「あの子を手放しちゃいけませんよ」
 ぼくは、その料理茶屋の女将にそっと耳うちしたものだった。
 この店の繁盛いうまでもない。

 そのときの子と似たふんいきが、(ちょっと珠は小粒ながら)この中華料理屋の女性にもそなわっていた。
 いい昼下がりになりそうな予感。

 ……………

 「エーデルピルスをひと口、舌から喉ごしへ。
 ちょっと妙な表現になるかも知れないが、はんなり、こおどり。
 ビールの〝昼下がりの情事〟。

 <ピルスナー>といえばホップの苦味が特徴というが、このビールは爽味がまさる。
 サッポロビールの、熟成期間もたっぷり、限定醸造版。

 家に帰って調べたら、「エーデルピルス」は「高貴なピルス」。
 ドイツの名門醸造所がもつ商品名の、使用許可を得てサッポロが麦芽100%で製造・販売。
 ふつうの新製品開発にはあたりまえの市場調査もなし、技術者のこだわりで最高のビールを目指したものだそうで、同社通常ビールの3倍のホップ(チェコ・ザーツ産)が使われているという。

 じつは、このビール、意外にも発売は1987年。
 しかし、当時の時流(流行り)にはあわず、わずか3年でいったん市販を終了していた、と。

 その頃というと、ぼくはちょうど日本酒の吟醸世界にどっぷり嵌りこんでいた…とはいえ、キホン酒類は選ばず呑兵衛を自認していながら、てんで、まるっきり知らなかった。

 それからしばらくのときを経て、20周年記念の2007年から限定販売、翌年からは全国販売。
 ぼくはそれさえ知らずにいた。
 これ、迂闊ではスマナイ。

 齢とともに、夜の街を呑み歩くことが少なくなった所為だ。
 長の歳を経て、酒味の好みもほぼ定まった所為もアル…が。

 まだ、新手の酒味をあきらめてしまいたくはない、口惜しい。

 樽生を、ぜひもういちど、あのお店で。
 缶入りなら通販でも買えるようだから、そっちも、ひとつこんどの正月にでも……


 

 

 
 

快生やすみ…いただいてます

-No.1486-
★2017年10月16日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2412日
★ オリンピックTOKYOまで → 1012日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ⑫4日目(1)東松島市、手彫りの仏さま  今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1485-
★2017年10月15日(日曜日)
★11.3.11フクシマから → 2411日
★ オリンピックTOKYOまで → 1013日








◆8月30日(水)、清泰寺

 このたびの<巡訪>は、「復興への道すじ」をたしかめることと、「忘れもの」はないか。
 もとより個人的な<すきま風>行脚に「もれなく」など望むべくもなく、「虫喰い」にすぎないことはもとより承知。
 だが、気づきがあって可能なかぎりは「忘れもの」を少なくしたい…そんな想い。

 東松島市でも、奥松島を離れ鳴瀬川を渡ってしまうと、お隣り石巻市までの沿岸は心理的に遠いままだった。
 幾度か浜へのアプローチを試みたけれども、そのつど、〝復興〟の横断幕、車両のフロントに巻きつけたダンプカー群に追い立てられた所為もある。
 つまり、お呼びじゃなかった。

 そんな浜からは奥まったところ、JR仙石線矢本駅より、三陸自動車道よりも北の地に清泰寺というお寺がある。
 田園のなかに、泰然と腰を据えた感のある、昔ながらの檀家寺。
 折から生憎の雨模様のなか、朝から境内清掃にいそしむ人々の姿があった。

 清泰寺の住職、小池康裕さん(75)が、東日本大震災からの復興と安寧を祈願して観音像を彫りつづけている。
 という記事を、いつのことであったか新聞で読んだ、それが、時を経ても消えずに記憶にのこっていた、ことによる。

 ゆるやかに上る坂の上、本堂の脇に六角の小堂があって、こちらへ、誘われるままに。
 入らせていただくと、そこに、位牌・遺骨・卒塔婆に囲まれ、もろもろのお供物にうもれるように観音さまが微笑んでおられる。
 (実際には、そんな、しおらしい風情ではなくて、率直なところは…入ると観音さまが微笑んでいた…のだ、けれども)

  あっ、いいな、いいな。
  ほっ……だね。

 あとは、掌をあわせれば、それでよかった。

 小池住職に、木彫りの観音像制作にうちこませたものは、「人にはなにかすがるものが要る」との思い。
 家族を亡くした人たちの心のよりどころになれば…と、60センチほどの欅の木に一体一体、観音さまを刻み、希望する檀家におくりつづけてきた。
 小池住職に、木彫りの心得はあったにしても、専門職の技とはちがう。「手がしぜんにうごく、こころを彫る」という。
 その自然体がいいのだろう、ノミの彫りあとが巧まず穏やかだ。

 想えば《11.3.11》後はなにしろ、再起・復興への気もちの切り替えにせまられるまま、各地各所にかずかずの慰霊のモニュメントが造営され、かず多くの観音さまが建立されてきた。
 折あるごとに、そこ、ここを訪ね、手をあわせてきたぼくたちには、ひとつの(ほっとしたい…)想いがあった、それがかなった。

 ぼくは、中・高を浄土宗の仏教校に通い、大学は一転(本人にそんな意識はないが)カソリックであった。
 かみさんは、プロテスタントの中・高に寮生活で学び、洗礼もうけた。が、実家は曹洞の禅宗、ぼくん家とおなじ。
 なにふしぎなく、人の世の諸事それなりに、そつなくこなてし生き。
 いまは、ふたり声をそろえて般若心経を仏前に唱えている。

 そいうものだと思う。
 このたびの参拝も、その心をもってのこと。

 境内の一角にある作業場に、その朝、仏像制作のノミ音は(おそらくはまだ)なく、ぼくたちは一礼、雨の境内をあとにした。
 

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ⑪3日目(7)東松島市、はばたけ宮野森小学校  今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1484-
★2017年10月14日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2410日
★ オリンピックTOKYOまで → 1014日












◆8月29日(火)午後、復興後の奥松島野蒜地区を想う

 東日本大震災からの復興がなったとき。
 ぼくが、想い描く東北の沿岸部、市町村の立地は、こうである。
 
 港とその付近の低地は、漁業施設とそのほかの事業所・事務所、いずれにしても〝ワーキングエリア〟(前衛)で、原則ここには日常、誰の住居もない。
 防潮堤は堅固に築くが、それは万が一のとき背後の住民居住地を守るためのものであり、そのためには海が見えないのは愚かでしかないから、〝望海〟を限度にする。
 職場からの避難訓練はしたがって厳しく、後背高台への避難がままならなくなったものは、引退するか転業する。

 次の、やや後背地寄りは商業中心の〝賑わい地区〟(中衛)で、地震津波に対する備えも救命・減災のセンター。(前衛)地区で防ぎきれなかった災害余波もここまでで喰いとめる。
 避難所への誘導など避難訓練も、この地区では災害弱者対策が重要になる。
 (前衛)地区で威力を減殺された津波は、ここまでで喰いとめられなければならない。

 高台の〝居住と教育・行政・文教のエリア〟(後衛)地区には、医療機や幼・老施設も集まる。
 ここは津波被害のおよばない安全地区だけれど、体力維持のための訓練の時と場はきちんと確保されている。

 ……………

 そんな期待をつよく抱かせるところ、見た目にわかりやすい土地柄は陸前高田市が筆頭だろう。
 しかし、もうひとつには、小さいながら〝奥松島〟東松島市の野蒜地区がくわえられていい、かもしれない。

 前回記事(12日)でも紹介した津波「伝承館」のある旧野蒜駅からも望める高台。
 沿岸低地からは20メートルほどあがった台地上に、付け替えられた仙石線の線路が通って、新しい野蒜駅もすでに開業。
 駅前近辺の商業用地はまだ閑散としてしているが、隣接する住宅地には人々の生活がしっかり根付きはじめている。

 そんな復興地区の象徴的な存在が、中心部山側に建つ宮野森小学校。
 「宮野森」の名は、合併した旧宮戸小の「宮」と旧野蒜小の「野」、それに新たにスタートする学びの場のコンセプト「森の学校」の「森」からなる。
 学校の開校は2016年の4月、そこに素晴らしい新校舎が完成して3学期の始業式があった、と伝えられたのが今年1月。

 ぜひ、その片鱗にでも触れることができたらウレシい…思いで教職員室に声をかけた。
 これまでにも申し上げてきたとおり、予定はできても確定のむずかしいボクたちの行脚旅は、アポのとれないぶっつけ本番、あくまでもよろしければお願いのスジ、それ以上は望めない。

 にもかかわらず僥倖、ぼくらの旅の趣旨をわかってくださった教頭先生が、授業に差し障りのない範囲で校内を案内してくださる。
 
 職員室からして、古い学校のイメージからは遠い明朗なふんいき。
 渡り廊下越しに見える教室の風景にも、緑陰に憩うような空気がただよい。
 図書室にも、子どもたちの自由な動線を見守る設計がなされており。
 設備も整って大きな体育館にいたっては思わず「わぁお」感嘆のため息、〝現し〟の木組みこれでもかと贅沢なばかりの、これぞまさしく「森の学校」。
 
 他愛もなく月並み…ではあるけれど。
 ここから未来に羽ばたく人材の、たくさんに巣だってくれることを願わずにはいられなかった。

 …………

 もりだくさんに充実した1日。
 この夜の泊まりは、ここも《11.3.11》巡訪の定宿となった、宮戸島月浜の民宿「山根」。

 大津波の災難を克服し、やっと回復した海水浴シーズンながら、今夏は8月に入っての天候不順が客足に響いたとのこと。
 それでも、ようやくにとりもどせた日常に表情は明るい。
 夜の食卓には、シーズンも仕舞いに近い生雲丹が旅の舌をヨロコばせ、酒をすすめて……


 

快生やすみ…いただいてます

-No.1483-
★2017年10月13日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2409日
★ オリンピックTOKYOまで → 1015日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ➉3日目(6)東松島市、津波「伝承館」旧野蒜駅 今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1482-
★2017年10月12日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2408日
★ オリンピックTOKYOまで → 1016日











◆8月29日(火)午後、生活復興はこれから追々…

 松島があり、奥松島がある。
 この場合の「奥」は「北」ではなく「東」、「山方」ではなしに「海方」である。
 松島の海岸線から南へと、手を広げるように宮戸島。
 この島には、名勝の嵯峨渓や松島四大観のひとつ「壮観」大高森がある。

 日本三景「松島」の小島の群がりは、その内側に抱かれる格好で点在する。
 大津波の被害も、とうぜん、松島湾内より外海側の奥松島に甚大であった。

 なかでも奥松島へのアプローチ、野蒜海岸が完膚なきまでの被害を被った。
 その惨状は、これまでにも繰り返し報告してきた。
 複雑に入り組む海岸線、狭間の低地からはいつまでも浸水した潮水が引かず、立ち入ることさえできない場所が長くのこっていた。

 そんな野蒜地区一帯が、気がついて見ればここ1~2年で、たしかな復興ぶりを遂げてきていた。
 そこには行政の力もあれば、住民の協力もあったろう、まず迅速といっていい。

 廃止後、震災復興メモリアルパークとして整備中の旧野蒜駅(震災遺構)は、憩いと交流のスペースに衣替え中。
 駅舎2階には大津波被害の実況を伝える展示室「伝承館」が昨秋オープンしていた。
 伝承館などに働くスタッフのなかにも津波被災者がいて、明日への希望を託しているかに見える。
 けっこうなことだ、けれど。

 それにしても、人気が少ない。
 これはきっと、都会暮らしのぼくの人いちばい寂しがり屋のせいだろう…とは思うのだが。
 そうして、おそらく、ここ宮城県でこれくらいなのだから、これから岩手県に入ったら…もっと人の姿が恋しくなるのだろうが。

 なにしろ〝復興〟のはずの工事が進んでも、それを喜ぶ人の笑顔がまだまだ少ない。
 それはこれから追々…のことなのだろう…けれども……

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ➈3日目(5)仙台、蒲生干潟探し        今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1481-
★2017年10月11日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2407日
★ オリンピックTOKYOまで → 1017日


◆8月29日(火)、仙台市宮城野区

 まだ仙台にいる。
 このたびは、もうひとつ、復旧再生のほどを確かめておきたい場所があった。
 
 そこは仙台港にほど近く、七北田〔ななきたがわ〕の河口部に広がる蒲生〔がもう〕干潟。
 この仙台湾岸の干潟は、いうまでもなく《11.3.11》の大津波被害に遭って「地形に大きな変化」が生じているとの広報があったきり、後報を知らずにいた。

 水鳥たちのバードウォッチングや潮干狩り行楽で知られた蒲生干潟には、別に興味を惹かれる名所があって、それは国土地理院認定の「日本一低い山」、標高わずか3mの日和山〔ひよりやま〕
 ほかにも全国各地に存在する「日和山」は、むかし帆船時代の船乗りや漁師たちが、海況を観望する(日和る)ために利用したものだ。

 明治42(1909)年に仙台港に築かれた日本でいちばん低い日和山のその後は、環境省の「鳥類観測ステーション」に指定されており。
 東日本大震災の大津波被害によって一度は「山体消滅」と報道されたが、2014年春の再調査で山が確認されたはず…だった。

 できれば、そこを訪ねて見たかったのだ、が。
 県道10号塩釜亘理線の高砂橋から、東に折れる七北田川沿いの道は未だ通行止め。
 もうひとつ先、工場群のなかを行く道もやがて行き止まり、交通整理の係員が「そっちへなら行けます」と丘の上を指す。

 ダメもと…で行って見ると、なんとそこはサーファーたちの駐車スポット。
 向こうに仙台港の施設を望む眼下の海には、点々と波乗りを楽しむ姿があるばかり。

 展望所に立って右手を見やると、砂浜が長くつづく、そちらがどうやら蒲生干潟。
 だが道はなく…諦めてまたの再訪を期すしかなった。

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ➇3日目(4)仙台、若林区長喜城…「いぐね」の里    今回のテーマ「つぎのステップにむけて」

-No.1480-
★2017年10月10日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2406日
★ オリンピックTOKYOまで → 1018日

*現在の休日「体育の日」は昨日、9日(10月第2月曜日)になっている、が。ぼくら戦後すぐ世代にとっての「体育の日」は、あくまでも10月10日。1964(昭和39)年の東京オリンピック、開会の日を記念するもの(祝日の施行は2年後)だったからだ。それはいま措くとして、あのときの唄、三波春夫の『東京五輪音頭』(一般には、オリンピック音頭)がまた採用されるらしい。なるほど…このニッポンらしさはちっとも古くない!*




◆8月29日(火)、仙台伊達の<里山>へ

 あの《11.3.11》から7年目。
 太平洋沖の見えない深い海溝に向かって、沿岸部に張り付きつづけてきたボクの視点にも、ようやく背後を振り返る余裕が生まれてきた。

 震災大津波遺構の荒浜小学校から、仙台東部道路下をくぐり抜けてまもない辺り。
 仙台市の沿岸部は南から、名取川河口に始まる「六郷地区」、荒浜のある「七郷地区」、仙台港に近い「高砂地区」と3地区に区切られる、その真ん中、荒浜を含む「七郷地区」の陸側西部に。
 「長喜城」という地名は戦国風を匂わせるが、じつは、砺波平野(富山県)の「垣入〔かいにょ〕」ほかにも見られる田園地帯の「屋敷林」があって。
 この地方では「居久根〔いぐね〕」と呼ばれる。

 防風雪の(洪水・地震対策も兼ねる)屋敷林が、現代では貴重な自然環境と生態系の保全に役立っていることには、前から知識があったけれど、まだ見ぬ「居久根」が案外に海岸線から近いことに驚いた。
 その語感から、ぼくにはもっと内陸にあるものかと思われていたのだ。

 「居久根」と思しき風景、ひときわ目だつ緑の屋敷林はすぐに見つかった。
 宅地化の波が寄せつつあるらしい現代の「長喜城」地区だったが、もともと平坦な田地緑野に、分厚く高く濃い緑樹の浮島は、それだけでたっぷり裕福<ステータス>感のある風景だった。
 
 見つけた「居久根」の周囲を歩いて見る。
 むかし豪族の築いた館が伝えのこされたものという「居久根」、いまは4~5軒の家で共有されているものが多い。
 緑樹の壁の厚みに差が見られるのは、吹く風の卓越する方角(ここでは北西)により厚く、ということのようだ。

 屋敷林「居久根」の樹種はおおかた、ケヤキ、クリ、スギ、カシ、ヒバなどの建築用材・燃料材種を外縁に、カキ、クルミ、ウメ、イチョウなどの果樹を内縁に、その内側には鑑賞用樹も混じる、という。生活の知恵。
 屋敷林ひとつで資源の活用と循環の成り立つ<マイ里山>世界ともいえる。

 そんな「居久根」の好環境、生物多様性の面では、(イネの害虫)カメムシの天敵アシナガグモや、カエル、トンボなどの越冬繁殖にも貢献している、という。
 もうじき稲刈りのシーズンを迎える田園緑野、浮島「居久根」のある風景を眺めてぼくには、ひとつ確信できる想いがあった。

 それは「棲み分け」。
 といっても、この国が成長期にあったときの国土拡張策や、勝手な土地のぶんどり開発のことでは、もちろんない。
 災害多発の火山列島に生きるこの国の、大所高所から見たあるべき姿の、ほんとうに賢い〝棲み分け〟を、これからは追求していかなければならないだろう。
 少なくともこの国が、将来も安心立命でありつづけようとするのなら……
 

快生やすみ…いただいてます

-No.1479-
★2017年10月09日(月曜日、体育の日
★11.3.11フクシマから → 2405日
★ オリンピックTOKYOまで → 1019日