どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉞9日目(3)釜石の奇跡…変貌とげる鵜住居あたり  今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1523-
★2017年11月22日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2449日
★ オリンピックTOKYOまで →  975日







◆9月4日(月)午後、鵜住居の新文教地区

 世界遺産「橋野鉄鉱山」からの帰途、鵜住居に立ち寄る。
 県道35号(釜石遠野線)が東北沿岸部の<命脈>国道45号に合流する辺り、海岸背後の丘陵地。ここ1~2年の活発な動きが気になっていた。
 低平市街地の復興に先駆け、丘の上に、土地の人が「文教地区」と呼ぶものが現出していた。

 国道脇の入り口から、真っ直ぐ上に昇る階段と、裾を周りこむ緩いスロープ路とが、現代の<男坂・女坂>といった趣きであり。
 どちらも急ではないが、高さはそう、20メートルくらいになるのだろうか。スロープ路を行くと、鵜住居神社を左下に、運動グラウンドを右に見て校舎に向かう。

 手前左側が釜石東中学校、その先右側に鵜住居小学校、さらに奥に鵜住居幼稚園が仲良く同居している。
 正確には<同居>ではないのだろう。けれど、正面にまわって見ると、中学校と小学校が階段を共有するかたちになっている。

 この小・中校、《11.3.11》前はJR山田線「鵜住居」駅の東側、海に近く在った。
 東日本大震災津波に襲われた中学校は4階建ての校舎が全壊・水没、近所の小学校も同じような被害に遭ったが、その時そこに見られたのは、後に「釜石の奇跡」と呼ばれることになる、ゆきとどいた訓練の結果としての機敏な避難行動。

 その<奇跡>とは、津波の襲来に気づいた教職員の誘導によって、小・中校の生徒たちは迷うことなく1.5km離れた峠まで逃げのびた。
 これぞ、まさしく「津波てんでんこ」精神の発露。
 なかには小学生の子の手を引いて、坂道を駆け上がった中学生もあったという。

 結果、小・中校あわせて約600名の生徒は全員無事(ざんねんながら保護者を失った生徒は多かったけれども)。
 じつは……
 1人だけ中学生徒が犠牲になったが、その子はたまたまこの日、学校を欠席して家にいた。
 











◆追悼施設は近くの寺の境内に移転

 鵜住居の学校には「釜石の奇跡」があったが、いっぽうで地域防災の拠点、鵜住居地区防災センターは悲劇の舞台になってしまった。
 あの大津波のとき、ここは指定避難場所ではなかったにもかかわらず、多くの住民が手近なこの施設に身を寄せたためである。

 瓦礫のなかに無慚な姿を晒していた防災センター跡地に、犠牲者慰霊の追悼施設ができたのが2013年夏。
 その後、復興工事の進展にしたがって、わずかに場所を移したりしてきたが、15年2月にようやく、250メートルほど離れた常楽寺境内に落ち着くところをえていた。

 堂内に掌をあわせて慰霊の後、整地がつづくかつての「鵜住居」駅付近へ。
 しかし、工事関係者も「だいたいこの辺り…」としか答えられない、いまは偲ぶよすがもない跡地。

 駅周辺の今後は、「釜石市震災メモリアルパーク」に整備されることになる、とのことだった。



『大草原の小さな家』シリーズすべてを通観して想ったこと

-No.1522-
★2017年11月21日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2448日
★ オリンピックTOKYOまで →  976日



◆9シーズン計204回の大ロングラン

 CATV552チャンネル「FOXクラシック名作ドラマ」、『大草原の小さな家』シリーズ。
 週1話の放送で、年間52週として、ほぼ4年。
 それを週に5日のペースで観つづけも、ほぼ丸々1年。

 それだけの時間をかけて、ようやく今年10月に、ぼくたち夫婦はこのアメリカのテレビドラマを通観しおえた。
 その直後から、また、「FOXクラシック名作ドラマ」では繰り返し再放映されているし、もちろんDVDビデオソフトも販売されているから、その人気、推して知るべし。

 地方の、自然の野趣ゆたかな大地には、このドラマのタイトルそのままの名を頂戴した店を、よく見かける。
 <フロンティア魂>の香気を漂わせるからであろう。

 しかし、テレビドラマとしては、かなり古い。
 原作はローラ・インガルス・ワイルダー(1867~1957)の『大草原の小さな家』(初めの書名は『大きな森の小さな家』)。ぼくは、その原作本を読んでいる。

 NBC制作のテレビドラマは、1974年から1982年までの全9シーズン42話に、その後の2時間スペシャル3本を加えると1984年までの放送。
 日本での放送はNHKで、アメリカに1年遅れの1975年から。ぼくは、このときも全部ではないが観ている。
 (この頃はまだ、家庭のテレビ受像器にビデオ録画の装置が一般的ではなかった)

 ちなみに、テレビドラマと原作とでは、いささか趣きがことなる…が、それはごくあたりまえのことで。
 「どちらも好き」な人が、アメリカにも日本にも多いのも、これまたとうぜんのことだろう。

 ご存知の方も少なくないだろうから、たいせつな時代背景と舞台、物語の大意にだけふれておくと。
 舞台はアメリカの西部開拓時代、年代にすると1870年代から80年代。
 (アメリカの南北戦争が1861~1865、65年には16代大統領リンカーンが暗殺されている)
 インガルス一家はいくつかの州を移り住んだが、テレビドラマの主舞台になったのはミネソタ州のウォルナットグローブという町。
 ここでシーズン8まで、貧しいが愛情と勇気とで健気に生きる家族を軸とする人間模様が描かれた。

 ぼくたち(そうしてきっと他の多くの人たちも)が、なぜ、このドラマに魅かれ、40余年を経たいまでも通して観たくなるほどなのか。
 それはとどのつまり、たとえどうあろうとしても人間は自然によって生かされている者であり、そのかぎりではほかの生きものとも同じ、したがって、できうるかぎりはたがいに寄り添って生きていかなければならない、ということに尽きる。
 
 アメリカの『大草原の小さな家』は、日本でいえば『北の国から』にあたる、といっていい。
 ぼくは、このドラマにも並々ならぬ愛着がある、といえばオワカリいただけるにちがいない。

 この物語は、インガルス家の次女ローラの小女時代から青春そして結婚までのお話し。
 (最後のシーズン9では結婚後のローラに焦点がしぼられるが、両親とは離れ離れ、彼女の愛すべきキャラクターもざんねんながら失われて〝別もの〟感をぬぐえないが)

 ともあれ……
 男の子っぽくて、いたずらで、正義感のつよいローラのキャラクターが、ふと<妖精>を、ときに<天使>を偲ばせる。
 そういえば、大草原の小さな家を守る父チャールズはあらゆる生活場面に<万能>、ゼウスにケンタウロスの力が加味されたような男として描かれているし。
 美しく賢い母キャロラインは、<マリア>か<アフロディテ>を想わせる女性像である。

 つまり、『大草原の小さな家』はそこ自体が、キリスト教世界の小宇宙。
 ドラマのなかで信教についての詳しい紹介はないし、ぼくにもその方面の知識はもちあわせがない、けれども。
 気分はまちがいのない<清教徒>の一家であり、「いつも神とともにあり、また自然とともに生きる」彼らの正直な暮らしぶりが、ときに誤りも犯すがけっしてごまかしはしない生きざまが、素直に共感を呼ぶ。

 そうして、一面きわめてアメリカ的な—傲慢と寛容の後者の方—人の生き方が、われわれ仏教的というか多分に原始多神教的な自然感ともふしぎに調和する。

 このドラマをあらためて観て、「人には土台、正直に生きたい根っこがある」ことを思い知る。

 ドラマとしてのつくりは、きわめつきのオーソドックス。
 ひとつのそれ自体が魅力ある舞台に、さまざまな人々が集散して織りなされる人間模様…これは、ふるくからあるドラマツルギーの「グランドホテル形式」といっていい。

 また一方では、このドラマ。
 徹底した<勧善懲悪>路線をつきすすむ(このあたりのストレートさもアメリカ的)あたり、日本の『水戸黄門』シリーズとも不思議に相通ずるものあり。
 それはテッテイテキな<典型>化。

 脇役というより準主役級の扱いで描かれる、町にただひとつの「オルソン」商店の、なかでも奥さんハリエットを、これでもかとばかりに扱き下ろして描く。
 ときには観る者の目に(そこまでやるか)とさえ思わせる。
 それをまたローラが、(これでもか)というほど小気味よく(ときにはやりすぎ)やっつける。

 その馬鹿々々しさが、しかし、なんとも痛快であり。
 人間、真底はすこぶる単純、複雑な頭脳のはたらきまで麻痺する、ことを思い知る。

 そうして、やがて<アメリカのいま>に想いおよぶ。
 まっこと進歩か…どうか…は別として、時の移ろいにともなう変遷はとめようがない、だろう。

 しかし、これだけは言える気がする。
 そのために、現在のアメリカがうしなってしまったもの、も大きい。
 そうして、それはいうまでもなく、日本についても同じことが言える。

快生やすみ…いただいてます

-No.1521-
★2017年11月20日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2447日
★ オリンピックTOKYOまで →  977日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉝9日目(2)釜石郊外、世界遺産「橋野鉄鉱山」   今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1520-
★2017年11月19日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2446日
★ オリンピックTOKYOまで →  978日











◆9月4日(月)つづき、いま行けるかしら…なんにもナイとこよ

 2015(平成26)年、「橋野鉄鉱山と高炉跡」が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつとして、ユネスコ世界文化遺産に認定されたときから。
 釜石市内の道路には、「橋野鉄鉱山へ」の案内標識がにぎやかになった。
 しかし、そこは遠い、遠野市との境に近い山中、市内から県道35号(釜石遠野線)を車で50分ほどかかる。
 バスはずいぶん手前の人里までしかなく、そこからだと10kmほどの歩きを覚悟しなければならない…

 大槌町での木工ワークショップの折。
 参加者の一人は言っていた。
「行ったことは、ありますけど…。いま、あそこまで行けるのかな…。それに、ぜんぜんオモシロイとこじゃないですよ、な~んにもないし…」
 道路の不通情報は昨夏の台風禍、大雨で起きた土砂崩れのことで、それは現在はもう復旧なって、目的地までは行けるはずであった。
 それでも、わざわざ行って見るほどのことはない、と、その人は親切に思ってくれているのだった。

 道はたしかに遠く、その間に慰めになってくれるものといったら、カラーの道路案内標識だけ。
 あとは、のどかな田園と山峡の自然だけ。
 ふと、(なにかくふうがあってもいいんじゃないか)気がしたけれど、すぐに思いなおした。
 せっかくの<遺産>ぶちこわしの余計なものができるくらいなら、このままそっとしておいてくれた方がむしろイイのかも知れない。
 <世界遺産>の本旨も観光にはないはずだし。

 途中、道路復旧工事中、片側交互通行の区間があり。
 いよいよインフォメーションセンターへの脇道に入る県道には、この先「車両通行止」「通行禁止」の制止線があり、「土砂崩れ注意」の標識があった。

 大きな駐車スペースを備えたインフォメーションセンターで、概要案内の映像を観、音声ガイド(300円)装置を借りて歩き出す。
 すこぶる付きの気もちのいい晴天もあって、この日はハイキング・ムード。
 「なんにもないとこ」と語っていた方が訪れた日は、天気に恵まれなかったのかも知れない。 








◆3つの石組の高炉跡など

 音声ガイダンスをスタート。
 ガイダンスは、携帯者が自由にオン・オフ、スキップができるようになっている。

 ゆるい坂になっている南の端「一番高炉」からスタート。
 この先の山中に鉄鉱石採掘場(露天掘り)があり、その間は運搬路で結ばれていた、というが、いまは立入禁止。
 グリーンツーリズムのいま、近い将来にはぜひ「見学路」を整備してほしいと思う。

 高炉跡には現在、花崗岩の基壇の石組、高さ2.4mの4段のみがのこっている。
 この石組の内に、耐火煉瓦の炉。石組の壁はもっと高く積まれて漆喰が塗られた上に覆屋があって、総高は約7.9mだったという。
 炉には送風の「ふいご座」と「湯出し口」が設けられていた。
 見上げると、往時の活況が偲ばれるようだ、

 一番から二番、三番へと、北に向かって緑の草原を下りて行く。
 これだけの整備にも、ずいぶん人出と費用を要したことだろう。
 文化財保護も並大抵のことではない、地球規模でいけばたいへんな経済ごとで、戦争になんぞムダ金をつかっているゆとりはないハズであった…

 「三番高炉」が初期高炉の基本形であったろう、といわれる。
 花崗岩の基壇2段の上に、約5.4m四方・高さ2.8mの花崗岩5段の石組、往時の総高は約7.0mで炉の中央には「炉底塊」というものがあったそうな。

 この「三番高炉」が、「近代製鉄の父」と呼ばれた大島高任の指導によって1858(安政5)年に建設された仮高炉、のち1864(元治元)年頃に改修されて三番になったもの、という。
 明治の最盛期、橋野鉄鉱山の従業員数1000人、牛150頭、馬50頭、年間生産量25万貫(約930トン)。いうまでもなく日本最大の製鉄所であった。

 高炉跡の周辺には他に、長屋・鍛冶長屋・大工長屋、水車場や種(鉄鉱石)焼場、炭焼窯、事務所兼賃金を支払う御日払所などなどがあり、 西側を流れる橋野川から水を引いた水路が流れていた。











◆興味深かったのは「山神」の存在

 三番高炉の東、少し山側へ踏み入ったところに、朽ちかけた鳥居がのこり、その向こうに「山神」の祠があった。
 ぼくは、山の神の化身とも噂される「山姥」のファンだ。

 怖れられながら、懐深い守り神でもある「山神」さまは、このように町場を遠く離れた開発場においては飲食・賃金の次に欠くべからざるものであったろう。
 その祠こそいまはなかったけれど、がっしりと大きく刻まれた石碑が存在感を示していた。

 草原には黒く丸い鹿の糞。
 インフォメーションセンターの係員からは、「クマに注意」といわれ、蛇や虻などもいると教えられていた。
 ふんいきは、けしてワルくない。
 課題は、なにかもうひとつの魅力、それも新たにつくるのではなしに見つけることが、必要かと……





「ヒトモトススキ」と「一もとキキョウ」

-No.1519-
★2017年11月18日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2445日
★ オリンピックTOKYOまで →  979日




◆なんでやねん!

 秋が深まった…というより、季節はすでに<冬>(7日=立冬)である。
 ススキの季節に「ヒトモトススキ」の映像を観た。
 穂波より草丈ばかりが目立って、なるほどこれはカヤツリグサ科の草。
 じつに大柄で剛直。

 海浜に近い水辺によく見られる草だから、ずいぶん度々お目にかかっているはずだが、ぼくが撮った写真資料にはない。
 風景として魅力に乏しいせいであろう、枯れ薄の寂びた風情からも遠い。

 大きな株立ちになるのが特徴で「ひともと(一本)」と称された。
 うっかり扱くように触ると指が切れることから別名「シシキリ(肉切り)ガヤ」と物騒だけれど、東大阪市では天然記念物に指定されている。

 ところで話しはここから、とんでもない方向へ飛ぶ。
 低い男声のナレーションが「ヒトモトススキ」と響いた途端に、ぼくの連想が飛躍した。
 何処へ……

 あなたは『松島音頭』をご存知だろうか。
 いまはもう、ほとんどの人が知らないだろうと思う。

 なんと1928(昭和3)年の作、なんと北原白秋作詞・山田耕筰作曲である。
 いちおう民謡ということになってはいるが、じっさいに歌われるのを聞けばとうぜん歌曲に近い。
 ぼくが、なぜこの曲を知っているのか…じぶんでもよく分からない。

 歌詞の一番。
  松は松島 そなれの松の
  松の根かたに 桔梗が咲いた
  見たよ見ました 一もと桔梗
  や ほうれ ほうい
  舟ばたたたいて や ほうれ ほうい

 以下五番まである、そのすべてに「見たよ見ました 一もと桔梗」が入っている。
 つまりキメ文句である。
 松島を謳いながら、愛でているのは桔梗。

 「一もと」は「ひともと」、もちろん「一本」の意。
 「ひともと(一本)」は、「草木一本」であり、また「一本だけ離れて生えている草や木」のことである。

 別にナンのことはないので。
 ただ「ひともと」の響きが、「ススキ」から「キキョウ」へと飛んだだけなのだ、けれども。
 また、ふと、こうも想った。
 (ひょっとしてヒトモトキキョウという種でもありはしまいか…)
 しかし、それはなかった、のだけれども。

 歌手でも声楽家でもない、とくに歌好きでも音楽に造詣が深いわけでもない、ボクが、『松島音頭』を覚えている不思議が可笑しくて。
 その印象がつよすぎたせいか、ぼくはついに、その夜の夢にまで見てしまった。
 夢のなかで「ヒトモトキキョウ」はみごとに、明るい紫の花のかたまりになっていた……

快生やすみ…いただいてます

-No.1518-
★2017年11月17日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2444日
★ オリンピックTOKYOまで →  980日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉜9日目(1)山田町…JR山田線の駅を巡る   今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1517-
★2017年11月16日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2443日
★ オリンピックTOKYOまで →  981日




◆9月4日(月)朝、岩手船越駅へ

 復興への動きが町場で、だんだん顕著になってきた。
 これは復興にかぎったことではない、ふだんからそうだが、町の素顔にふれ、その町の基本的な事情を知るのにもっともいいところが駅である。

 道路交通が主役になった現代では、主要道路沿いの<道の駅>やショッピングモールが、従来の鉄道駅にとってかわる勢いだけれども、そこで町の素顔や実情がつかめるようになるには、もう少しの時が必要だろう。

 船越半島の付け根、内陸側に山田線「岩手船越」駅を訪ねてみる。
 小さな駅前広場の周囲にお店が数件、しかし人影はない…よくあるローカル駅の風景だった。

 津波の被害に遭った線路は不通になり、駅舎はベニヤ(構造用合板)で囲われていた、が。
 ホームに出て見ると、線路や鉄道施設の復旧が進んでいた。

 JR山田線は、盛岡―宮古—釜石のうち、宮古—釜石の沿岸部区間で甚大な被害に遭い、復旧に難航、一時は廃線の危機さえ憂慮されたが、それを乗り越え、遅まきながら回復の途にある。
 すでにお隣りの大槌町で感じていたその動きを、山田町でもたしかめることができた。
 



◆もうひとつ…「織笠」駅を探す

 「岩手船越」駅のお隣りが「織笠」駅。
 国道から脇道にそれ、(ここら)と思しきあたりに目を凝らすが見あたらない。どうやら駅舎も線路も流されてしまっていた。
 さらに心もとない細道を進むと、鉄道工事と思われる重機の動きが見られ、「そうです山田線の壊れた橋を架け直してます」工事監督の人が言う、その先、山田線のトンネルがぽっかり入口を開けているのが見えた。

 いったん国道に出て、もういちど脇道にそれ、トンネルの出口を探す、が。
 こちら側でも、やっぱりトンネルから先の線路は消えていた。
 土地人に尋ねてやっと、新しい「織笠」駅のできる予定という場所を知る。

 ほかには…手がかりになるものがない…あらためて酷くやられたことを痛感させられたことだった。
 



◆町の中枢「陸中山田」駅

 山田町は、他所者にとっては拠りどころのない町。
 山田湾の海辺を通る国道の、内陸側は、これといって特徴のない、山を背後に開けた<釜谷>地形。
 これといった寄る辺もなく、車で走るとなおさら、いつのまにか町中を通りすぎてしまう。

 ……いや、そればかりではない……
 海の方。牡蠣養殖の筏など、たくさん並べた山田湾の風光が明るく開けているので、ついそちらに目をうばわれているうちに町を出てしまう、言ったほうがいいかも知れない。

 「陸中山田」駅は、そんな町中も中心部にあったが、ことごとく流され失われた。
 その後の町の復旧というか、再開発の波に後を押される感じで、駅舎も再建が進んでおり。
 線路が南北に伸びはじめているところであった。

 ……………

 しかし、と想う。
 山田線の宮古—釜石間は、線路復旧後の運営が三陸鉄道に引き継がれることになっている。

 はっきり言えば、JR東日本にはもう「この区間の面倒を見る気はない」ということであり。
 まことに冷たい、実利主義は民営化の必然とはいえ……

 けれども一方で、この路線の将来を想うと、楽観できるものもない。
 新たに開通、運行再開されれば、その当初はおおいに沸くことであろう、けれども。
 利用客の多くを観光に依存するかぎり、根本的な再生はないはずで。
 沿線地域がこぞって住民の利用促進に熱心でなければなるまい、からだ。

 その意気どこまで、あるだろか。

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉛8日目(3)山田町…佐藤辰也さんの写真集   今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1516-
★2017年11月15日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2442日
★ オリンピックTOKYOまで →  982日




◆9月3日(日)、イベントおえて日が暮れて…

 ぼくの手もとには、記念の本。
 「木工ワークショップ」助っ人のお一人、山田町(釜石在住)の佐藤辰也さんの写真集である。

 『東日本大震災岩手県山田町を見続ける—』全3集。
 これには、2011年3月9日(水)11時49分にあったマグニチュード7.3の三陸地震(これが東日本大地震の前震だった)から3月11日(金)14時46分マグニチュード9.0の本震、およそ1時間後の大津波到達を経て、同年7月25日まで4ヶ月半の記録が集められている。

 佐藤さんは、この震災大津波で住まいも職も失いながら、シャッターを切りつづけた。
 カメラを手に、故郷の惨状を撮りつづけた人はほかにも各地にたくさんいたことを、ぼくは知っている。
 それらの人たちのなかには、東京での写真展に作品を寄せた方もあり、その後の人生がかわった方もある。

 佐藤さんも《11.3.11》で人生がかわった一人。
 奥さんは被災地支援のボランティアに訪れた女性で、奇しくもぼくらはボランティアの頃の彼女と〝支援基地〟遠野で出逢っており、それからの縁がつづいている。
 ボランティアとのロマンスが実った話しは、ほかにも少なくなかった。

 佐藤さんの記録写真を見ていくと……
 大津波から1ヶ月後が、やはりひとつの境目になっていたことがわかる。
 それまでは瓦礫の撤去といっても、とりあえず行き来を塞がれた道をまず通すのが先決で、とりあえず瓦礫を脇に除けたかたちであり。
 1ヶ月後あたりから、本格的に<片づける>瓦礫撤去作業が始まっている。

 東京に居て、救命・救急の邪魔にならないように堪え、待ちに待っていたぼくらが、ようやくの思いで駆けつけた時期がちょうどその頃だった。
 海水でぬかるんだ道はいたるところで車列が渋滞し、やっと乾いたところに待ち構えていたのは、こんどは日干しか火災による煎り焦げたような異臭、これが強烈に鼻をついてきた。

 うっかり細い道に曲がり入ってしまうと、そのころ乗っていたぼくのワンボックスカーはいかにも顰蹙モノで、濡れた畳を運んでくる人に(ドコのドイツだ)険しく睨まれたりもして。
 たまらない思いで帰宅してすぐに、ひとまわり小さい、いまの車に乗り換えたことを忘れない。

 佐藤さんの記録をさらに追っていくと……
 地域により、自治体にもよって、違いはあるものの、人が考えてする<片づける>ことには、とどのつまり大差なく、みな似たようなものだったのが、いまになってみればふと微笑ましくさえある。

 そうして。
 佐藤さんの地元に密着したヨコの繋がりと、ぼくら<遍路・巡礼>というかたちでのタテの繋がりとが、あの日以来ずっと、いまにいたるまで織りなされてきたことの不思議を、あらためて想い知るのだった。

 ……………

*なお、佐藤辰也さんの『東日本大震災岩手県山田町を見続ける—』全3集。購入をご希望の方がいらっしゃっいましたら、このブログ記事にコメントください。ご紹介させていただきます*

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉚8日目(2)大槌町…慰霊のフォトフレーム   今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1515-
★2017年11月14日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2441日
★ オリンピックTOKYOまで →  983日





◆9月3日(日)、木工ワークショップをうちあげて…

 昼食後。
 ワークショップにも参加くださっている越田さんの案内で、大槌町の南へ浜つづきの室浜へ。
 浜つづきでも、こちらは釜石市

 小さな浜に面して新築の家が建ち並ぶ。
 なかの一軒に、亡くなった佐々木政子さんのお宅がある。
 佐々木さんは、少しの間でも新居に住むことができたのが、せめてもの慰め。
 現在は東京から帰郷した娘さんが住む。

 佐々木さんとは、被災地支援プロジェクト「まごころ花」の手芸サークルが縁。
 シュシュや飾り付きヘアゴムなどを、鵜住居釜石市)の仮設団地でお母さんたちが手づくり、なかでも刺子にいちばん人気があった。
 これらの品々を、ぼくらも東京のお祭りなどで代理販売のお手伝い。
 <巡礼>の旅でも立ち寄って、新作のうちあわせをしたり、お茶っこしたり。

 佐々木さんは、そのグループの技能リーダーでデザイナー。
 おまけに天性ほがらかな方で、はじけるように明るい笑いが、まるで苦労を感じさせなかった。

 お仏壇に慰霊の、桧の薫る木製フォトフレームをお供えさせていただく。
 ガラス押えのないつくりは、ご遺族と自然な息づかいを共有しつづけてほしいから。
 写真は、もちろんトレードマークのはじける笑顔……合掌。

 ……………

 こんどの旅は、ほんとうなら、これまでの<遍路・巡礼>からワンステップ先へ。
 しっかりとした復興の歩みを見つめる<巡訪>の旅にしたいところだったのだ、けれども。
 お二人の方のご不幸があって<巡礼>の旅をつづける、そのことについては出立前にお話しておいた。

 ……………

 亡くなった方、もうお一人は、大槌町安渡の小国兼太郎さん、93歳。
 お宅へは前日にうかがって、やはり同じフォトフレームをお供えさせていただいた。

 行って見ると、お宅が仮設団地からも近い復興住宅になって、まだ引っ越したばかり。
 三陸の大津波を三度も経験して生きのびた兼太郎さんは、
 「できることなら復興した町を見とどけたい」
 と語っていたのだ、けれども、新しいお家の部屋に腰をおろすこともできずに逝った。

 でも。
「兼太郎さんは、幸せな人だったよぉ」
 奥方ヤスさんの言うとおりかも知れない。

 兼太郎さんも《11.3.11》後は、刺子の技を身につけて生きがいにした。
 ぼくは、この人の作品も代理販売させてもらった。

 ホテルに戻る道すがら、お宅にヤスさんを再訪。
「いろいろ、あれこれ気づかってもらって、ありがたいけど…あんたたちも、もう若くはないんだから、これからは自分たちのことを考えてちょうだい」
 こんなこと言ってくれる人ほかにない……

 ぼくの、ぼっさぼさ頭を散髪してくれた「澤とこや」の奥さんも、もとは安渡の人で。
 被災後の仮設暮らしではじめて、小国ヤスさんという人を知り(すごい人がいる)と思ったと語っていた。
 木工ワークショップの常連さんの一人、土橋綾菜さんも「兼太郎さんの遺影の写真は私が撮ったんです」と誇らしげに言っていた。

 それらのことを話すと、
「安渡でわたしを知らない人がいたらモグリだょ」
 それなりに歳はとっても、その達者すぎる弁舌、けっしてめげない破顔一笑に、かわりはなかった。







快生やすみ…いただいてます

-No.1514-
★2017年11月13日(月曜日)
★11.3.11フクシマから → 2440日
★ オリンピックTOKYOまで →  984日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉙8日目(1)大槌町…木工ワークショップの1日  今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1513-
★2017年11月12日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2439日
★ オリンピックTOKYOまで →  985日












◆9月3日(日)9時、和野っこハウスにて

 7回目を迎える今年も、「木つつき集会」には10人が参加。
 ボクらお助けスタッフ4人を加えて、総勢14人でスタート。
 このたび作ってもらうのは「フォト・パズル」。木製の20駒(タテ4×ヨコ5列)に写真を焼き付けたフィルムを貼って作る、遊ぶ。

 《11.3.11》後、さまざまな支援者が趣味や実益のサポートに立ちあがったわけだが、もっとも多いのが女性・主婦向けの裁縫・編物系だった。
 これは仮設住宅団地の集会所の多くが畳敷きの座卓式に出来ていたから、自然そういうことになったわけだし、とうぜん女性の参加者がほとんど。

 彼女たちがお茶っこ愉しみながら輪になっているとき、お父さんたちは囲碁・将棋か散歩かカラオケで時間をつぶすしかなかった。
 (いまの世のなか、女性の社会進出の話題でもちきりだけれど……ふとボクは思う……じつは、いったん自分の職場・持場を離れてしまうと、てんで社会的でないのが男性一般なのである、したがって地域社会では孤立しやすく、それがやがて孤独死にまで至ってしまう流れなのだった)

 そこでボクは、もてる手技<木工>の集いをもくろんだわけだが、床に椅子・テーブルの集会所はかぎられていたし、すべてをこちらで準備しなければならない道具立てから、材料揃えにいたるまでが半端じゃなしにたいへんで、しかもカサばった。

 ふだん東京のカルチャーセンターで開講している「木工教室」の場合、講師一人では生徒さんは7~8人までが限度である。それぞれが好きなモノを作るわけだし、道具が切る・叩く・削るの世界だから、指導も楽じゃない。

 被災地での木工ワークショップ「木つつき集会」も、もちろん初心者ばかりだったから、最初はそれこそ目のまわる忙しさ。
 回数をかさねるうちに、大槌町の佐々木さん、山田町(釜石在住)の佐藤さん、お二人の助っ人協力をいただいて、なんとか無難にこなせるようになってきた。
 かみさんも、いまは写真係から助っ人に変身してくれていて、これもおおいに助かる。

 想えば、そんな6年半だった……












◆作品は小さくても細密、精工な手仕事

 このたびの作品「フォト・パズル」は、仕上り15×18cmくらいの、これまでで最も小さい。
 道具立ても、材料の量〔かさ〕も、呆気ないほどコンパクトで、これまで車のラゲッジスペース満杯にして走ってきたのがウソみたいにお手軽。
 けれどもなかなか、そう易々とコトがはこぶものでもない…ことはわかっている。

 だから、助っ人のお二人とも事前に相談して、見込まれる失敗に対処する用意もしておいた。
 まず、パズルのケースを作る。これがウマくできないと先々コマることになる。
 2~3予備材料の差し替えで、最初のハードルは無事クリア。
 今回はなんと、予定の時間まで見積もってある。

 いよいよ20駒のパズル切り出しにかかって、予想したとおり、皆さんご苦労さまがはじまる。
 3センチ角の正方形が20駒、揃わないことには美しくない。
 あぶなっかしい人には手助け、イケそうな人にはすべてまかせて、とにかく数だけ切れたら、サンドペーパーで滑りよく磨きをかけ、ケースに納めてみてもらう。
 じゃ~ん!

 思ったとおり、思ったより以上に、並べて見ると不揃いが目だつ。
 これも各人、半分くらいは差し替えが必要かも…との予測のもと、予備の駒を用意しておいたのが、ホントにあやういところで、ぎりぎりセーフ。
 参加者も助っ人サイドも、全員がもっとも盛り上がった瞬間……
 











◆フィルム貼りは皆さんお上手に仕上げて…お茶っこ

 さぁ。いよいよ仕上げのフィルム写真貼り。
 これは市販のフィルムラベルシール(粘着)に、ぼくの<フォト文庫>所蔵写真のなかから絵柄をピックアップしてプリント。
 パズルとして、やさしいのは絵柄のはっきり分かりやすいもの、むずかしいのは満開の桜花とか新緑とかの込みあったもの。
 (上の写真、左のパプリカと、右の茶の木の新葉)
 人数分より多めに用意したなかから、それぞれの好みで選んでもらった。

 裏紙を剥がし、並べ揃えたパズル面に貼りつけるのが最後のハードル――貼り直しがきかない一発勝負だから――と思っていたのだ、けれど。
 これは案ずるより産むが易しで、皆さんおみごと、きれいにクリア。
 あとは1駒1駒を丁寧に切り離して完成。
 恒例の作品披露、全員揃っての記念撮影をもって、ことしも終了。

 予定時間も、ほぼピッタリ。
 あとに30分の<お茶っこタイム>がとれた。

 これも、これまでのワークショップでは、なかなか実現できなかったこと。
 かぎられた(3時間、9~12時)時間内にまず作品を仕上げることが優先、作業の遅速には個人差もあって、あとは時間にゆとりのもてる方と個別に雑談するしかなかったのである。
 
 それをなんとかしたくて、今回こころみたタイム設定策、上々の成功もウレシかった。













 ……………

 なお、これは後日談だけれど。
 「フォト・パズル」ご自身の作品管理にあたっては、「駒がバラバラにならないように、とくに並べなおしが難しい絵柄の場合は、コピーをとっておくなどしてほしい」旨お願いしておいた。

 それが現実に、持ち帰って見たらすでに「バラバラに零れしまっていた」人があり。
 その方、懸命にあれこれ試行錯誤を繰り返した末に「なんとか元どおりにできました」と、証拠写真を送ってくださり。
 ……で、しかし……なるほど納まっているかには見えるけれども、撮影者であるボクにはどうもナットクしかねるところがあり。

 制作中の記録写真を探した結果、正しい絵柄が判明。
 下の写真、左が制作時の絵柄、右がバラけて後に並べなおした絵柄。
 おワカリいただけるでしょうか……
 これが、パズルのおもしろさ、おかしさ!


《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉘7日目(2)山田町・船越半島「鯨と海の科学館」  今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1512-
★2017年11月11日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 2438日
★ オリンピックTOKYOまで →  986日






◆9月2日(土)、「防災の日氷雨の午後

 木工ワークショップ「木つつき集会」を明日にひかえたこの日。
 ボッサボサだった頭をさっぱりきれいに散髪してもらって、気分は晴れ晴れだったけれども、空は生憎、太平洋沖にそれて北上した台風の影響があって冷たい雨模様。

 木工<助っ人>のお二人、大槌町のSさんのお宅でお昼に鮎をいただいて、打ち合わせ。
 夕刻には、もう一人の山田町のSさん夫妻と会食、打ち合わせの予定で、その間にゆとりの数時間があって。

 ぼくらは山田町の船越半島に「鯨と海の科学館」を訪ねた。
 《11.3.11》の大津波は船越半島の付け根、南側の船越湾から北側の山田湾へと、高さ8mの波高で跨ぎ越え。
 これによって「鯨と海の科学館」は大きな被害を被った。
 ぼくら被災地東北<巡礼遍路>の旅、このあたりでは山田町船越(陸側)の「ビジネスインやまだ」が定宿。
 したがって、船越半島とばくち付近は、毎度おなじみの復興チェックポイントでもあったから…

 そこに位置する「鯨と海の科学館」の再開は、6年4ヵ月ぶりの今年7月、朗報であった。
 ここでも瓦礫撤去や資料類の洗浄などに、述べ800人ほどのボランティアが汗を流している。

 このあたり三陸の海、むかし沿岸捕鯨の盛んだったところで、山田町もかつては捕鯨基地だった。
 1992年開館の科学館、自慢の展示はマッコウクジラ(歯鯨)とミンククジラ(髭鯨)の骨格標本。この巨大標本展示を中心に、鯨と三陸の海のあれこれを回遊式に紹介している。
 なかでも興味深かったのは、髭鯨の口の模型。
 オキアミや小魚を海水ごとグヮバーッと丸呑みにしておいて、顎に並べた髭の隙間から海水だけを吐き出して食餌する、その細密に構成された髭のありようにナルホドの説得力があった。

 高度経済成長期からそれ以降、国内各地に続々と誕生した<わがふるさと館>、これもそのひとつであろうか。
 小さな地方自治体の財政では、なかなかにむずかしい展示の充実。
 それを想うと注文は付けづらいところだが、さらに一層のくふうを凝らさないと先行きはキビシイと思わざるをえなかった。

 ……………

 さて。
 その翌朝は、カラっと天気回復して気もち佳い青空。
 絶好のイベント日和。

 「ビジネスインやまだ」のベランダ、ベンチ背もたれの絵柄は宮沢賢治注文の多い料理店』お話しのイメージ。
 そう、ここも心象風景世界の理想郷「イーハトーブ」のうちであった。
 
 ぼくたちは朝食休憩もそこそこに、いざ「木工ワークショップ」の会場へ。
 

快生やすみ…いただいてます

-No.1511-
★2017年11月10日(金曜日)
★11.3.11フクシマから → 2437日
★ オリンピックTOKYOまで →  987日

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉗7日目(1)大槌町で頭髪をサッパリ…してもらう  今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1510-
★2017年11月09日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2436日
★ オリンピックTOKYOまで →  988日







◆9月2日(土)、雨にけむる大槌町

 大槌町
 ここは《11.3.11》後、救命・救急が優先・大事の初期1ヶ月を堪えて、ぼくが4月11日に初めて被災現地入り、大槌高校の避難所に救援物資を届けたときから、もっとも訪れた回数の多い土地になった。恒例になったマイカーでの<遍路>に加え、鉄道・バスを乗り継いでの来訪も果たしている。

 車を転がしても遠い<みちのく>の被災地支援。
 個人のボランティアはその多くが、鉄道とバスを乗り継ぎ、あるいは夜行の長距離バスに揺られてやってきた。
 いまあらためて、その労を多として、ともに、ささかに褒めあっておきたい。

 大槌町の定点は、町役場裏の城山。
 今朝は生憎の雨模様だったが、とにもかくにも高みに立つ。
 立って、見て、<遅れ>を痛感する。

 個々の地域では、さまざまな事情にもよって復興の進捗に遅速があるのはやむをえない。
 …が、市町村の単位で括ってみたときには、その差がより大きく顕著にならざるをえず、見すごしにはできないものがある。

 大槌は、震災・大津波被災後の瓦礫撤去の頃から、他の市町村にくらべて進みが遅かった。
 町民のなかにも、それに気づき指摘する人は少なくなかった。
 町長を被災で失ったことが大きかった、町の財政的な弱さも大きかったようだ……けれどもくわえて……それだけでは説明しきれないナニか要因があるのではないか、との感がいつもつきまとう。
「大槌の町の人はみなさん、おとなしいんでしょうかね」
 ぼくは、冗談まじりに言ってきた。

 これも雨のせいか、眼下の市街地に、復興を印象づける動きが見えないのが寂しい。
 城山上には、ことし2月に「東日本大震災津波物故者納骨堂」ができていた。
 大槌町では、1285人の方々が津波の犠牲になっており、そのなかには42人の行方不明者が含まれる。
 このお堂は、身元不明の遺骨70柱(被災市町村で最多)を納め、縁者にひきとられる日の来ることを願う。
 けれども、津波後に大きな火災が発生した大槌町の遺骨はDNA鑑定できないものが多く、現実にはざんねんがら難しい。
 木づくりのお堂。追悼行事のあるときを除いて、ふだんは扉が閉じているが、毎年3月11日午後2時46分のその日その時には、堂内には太陽光が射しこむ設計になっている、という。

 寒さが身に沁みた。
 この旅に発った8月末、東京はすでに暑夏のピークをすぎていたとはいえ体感はまだ夏、だから持参の着替えの半分は夏物。
 そんな季節感であったのだ…が。

 <みちのく>路は日ごとに秋冷の気配。
 ぼくらはついに、陸前高田のショッピングプラザで長袖のシャツなど買いこんでいた……

◆大槌の床屋さんを紹介してもらう

 ぼくたちの旅立ちの前日に、マイカーのバッテリー故障という不測の事態があって、予約してあった行きつけの床屋さんでの散髪もキャンセル、ぼさぼさ頭でハンドルを握る破目になったことは、すでに述べた。

 近ごろはターミナル駅などにも床屋が営業する時代だけれど、男にとって散髪はこれでなかなかデリケートな課題。
 吾が頭の散髪と髭剃りに、およそ1時間ほどの時を他人手にまかせる、それだけでも事情はハンパじゃない。
 ましてやボクの場合、短く刈りあげるかたちの頭は、技術によるチガイがおおきく、下手な手にかかると不興のときが長びくことになる。
 したがって、ぼくの場合には、行きつけの床屋さんは、日常生活に必須のことだった。

 それが不調におわって、放り出された旅の空(正直そんな気分だった)。
 どこで、どうやって、この散髪の一大事をクリアーしたらよいか。
 あれこれ思案するうちに、(そうダ!)ほかにない、大槌の知友、佐々木さんに頼みのメール。
「行きつけの床屋さんに、ぼくの予約を、お願いできないだろか」

 いいとも、オーケー…の、その日そのときがこの日の10時。
 大槌町大槌の「澤とこや」さんは、女性理容師の店だった。

「都会では男の床屋さんがふつうかも知れませんけど、地方では女性の床屋さんがふつうなんですよ」
 その人、澤さんはそんなふうに世間話しながら、ハサミを動かしていく。
 後日、帰京して後、行きつけの床屋さんにこの話しをしたら、彼、笑っていわく。
「そうですよ、それで奥さんの方が旦那よりもよく稼ぐっていうんで、引く手あまたなんだって…理容師学校だって女性の方が多かったんですから」

 なるほど……
 いろいろと、まだまだ教わることは多い。
 髭を剃ってもらうとき、剃刀のあたりが柔らかいのに懐かしい快感があった。
 子どもの頃、がきんちょの散髪はもっぱら床屋の奥さんの仕事で、肌に触れられたときのひんやりソフトタッチの記憶が蘇ってきたのだった。

 散髪がすむ頃、佐々木さんの奥さんが迎えに来てくださり、すぐ近所のお宅におじゃま。
 佐々木さん手釣りの鮎を、早昼にいただく。
 
 釣道楽の彼は、ぼくと同い年。
 その人が震災後はずっと、釣糸を垂れる気になれないでいるのをぼくは聞いていた。
 その佐々木さんが、ようやく川に出かけられるようになった…というので、ぜひその釣果を味あわせて欲しいと、お願いしておいた。

 テーブルに皿一杯の鮎が供され、大槌の川苔の香りを存分に舌に沁ませることができて、ぼくたちには至福のひとときであった。
 佐々木さんには明日、和野っこハウスで恒例の「木工ワークショップ」の助っ人もしていただく。その打ち合わせもすませて辞去。

 この日の夕刻には、もう一人。
 「木つつき集会」のお手伝いをつづけてくださっている、山田町(現在は釜石在住)の佐藤さん夫妻と会食。
 こちらとも事前の打ち合わせをすませることができた。

 なぜ、そんなことをわざわざ報告するかといえば。
 (当日とは別に)そんな時間をとることが、なかなか難しいからで、実際、これで7度めになる今回はじめて、お二人と事前の打ち合わせするこたができたからである。

 お二人には、かならず前もって試作をお願いしている、とはいえ…ぶっつけ本番の不安は毎度のこと。
 それが今回やっと解消できた、それにはボクたちの<巡訪>スケジュールに余裕ができてきたことも大きいのであった。
 大槌町で存分にあじわった、はじめてのありがたいゆとりの1日……
 

《11.3.11》被災地東北、18次<巡訪>/ ㉖6日目(5)鉄の釜石…「鉄の歴史館」     今回のテーマ[つぎのステップにむけて]

-No.1509-
★2017年11月08日(水曜日)
★11.3.11フクシマから → 2435日
★ オリンピックTOKYOまで →  989日









◆9月1日(金)、釜石市街背後の高台

 釜石という街の成り立ちを確認するため、ぼくはあの《11.3.11》があってから2度ほど、釜石大観音から港内外の状況を眺望している。
 あのとき大観音には参拝客の姿なく、事務にあたっていた人々は、窓ガラスの向こうから盛り上がり寄せてくる海嘯の圧倒的な迫力の前に、港が呑みこまれていくのを成す術もなく、固唾を呑んで見守っていたという。

 釜石大観音と同じ南の高台の、国道を挟んだ林地には「鉄の歴史館」があることを知っていたけれども、とくに興味を魅かれることもなし、他人からすすめられることもなしに、見すごしてきた。
 いまふうに言えば、なんとなく「面倒い」気がしていた。

 それが2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコ世界遺産に登録されて、見なおす気分になった。
 製鉄・製鋼の分野で、釜石の「橋野鉄鉱山」が含まれており、そこを訪れてみる気になったらあらためて、では関連ある「鉄の歴史館」も見ておこうか、という流れになった。

「シアターで上映が始まったばかりです」
 入館するとすぐに、職員に劇場へと案内され。
 そこでは、原寸再現された橋野高炉跡・三番高炉を中心にした舞台で、「釜石の鉄づくりの歴史」が映像で物語られ……

 あとになって気がついてみれば、それがこの博物館のすべて、といってよかった。
 展示物はほかにも、さまざまな資料類があるのだけれども、<熱く燃え滾る炎>の現場の臨場感にはほど遠い、如何にもとりすまして醒めた表情なのであった。

 このテの、「とにかくつくりました」式の資料館の類いが、この国には、公私ひっくるめて数多ありすぎるほどにある。
 このテの〇〇館に特徴的なのは、「見せる」姿勢がモノ集めにすぎないお座成りで、積極的に「見てもらおう、わかってもらいたい」という明確な意識に欠けること。
 だから入場者は、つめたい通路を一巡させられるだけの「行ってきました」におわる。

 「鉄の歴史館」に、そのときも他に数組の来館者があったのだけれど。
 皆シアターを観たあとは、ほかに時間をつぶすほどのこともないままに、出口へ向かうしかないようだった。

 入館料、一般500円ならこんなところ…そんなもんか。
 パンフレットには、鉄の記念日(12月1日)には昔「たたら製鉄」の実演、体験もあるとのことだった…けれど。
 ふだん日常の展覧にも、もちっと熱意をもってほしい。

 館外に出ると、釜石大漢音の向こうに太平洋の大海原を遠望。
 大津波に耐えきれず破壊された防潮堤、そこに、いまは修復なったのが白い一筋。
 それらのことについても、館内には一言の解説もなかった。

 このままじゃ、せっかくの世界遺産も涙目に霞む……