どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/4日目⑤…(南相馬市)小高がとりもつ縁

-No.1373-
★2017年06月25日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 2299日
★ オリンピック東京まで → 1125日



◆手づくりの面影

 現在ぼくは、「よみうりカルチャー荻窪」というところで、〈木工〉教室の講師をしている。
 男女は問わないのだけれども、ずっと女性ばかり、それも、ベテランの域に達した方ばかり。

 在籍5~6名ほどの、人数からすればまぁ流行らない。 
 でも、ノコギリなどの刃物・道具を使う教室としては、これくらいがいいところ。

 どなたも、モチーフは「つくりたい」気分。
 「つくれるものなら手づくりしたい」意欲の、ぼくはサポートをする。

 〝不器用な人〟はいない。
 必要な技は、なにかをこしらえながら、身につけてもらう。

 そのために、はじめに手がけてもらう課題がいくつかあって。
 そのひとつが「A4整理箱」。
 
 吉野ヒノキの節なし無垢材で枠組みをし、持ち手(把手)と、底と、ふたと、を付ける。
 おなじものを拵えても、つくる人ひとりひとりの個性によって、表情のちがうのがおもしろい。

 けれども、どの作品も、仕上がったときを最後に、ぼくの前から去っていく。
 達成感とともに作者が持ち帰るものだから、やむをえない、のではあるけれど。

 一抹のさみしさが、いつもつきまとう。
 仕上りを写真にのこせても、実用の場面に立ちあえるわけではない。

 そんな、ありがたい場面に、ひょんなことから出逢えてしまった。
 Nさんの拵えた「A4整理箱」が、三つ指ついて、楚々とこちらを見上げていた。

◆さまざまの人…さまざまな被災…

 そこは、小高駅前に開けた町並みから、しばらく入った田園の里山
 大きな農家が、ぽつぽつと散在する風景の、なかの一軒をお訪ねしたのは一昨年夏のことだった。

 〈木工〉教室に在籍するお一人、Nさんが福島県南相馬市小高区の出身で、その実家がF1(福島第一原発)爆発事故に遭い、一人暮らしのお母さんがいまは避難生活をしておられるということは、あれから間もなく聞き知っていたのだけれど。
 それより先はプライベートなことゆえ、遠慮もあって、その近くを通るときに思い出す程度であった。

 潮目がかわったのは、避難指示解除のうごきが報じられた頃から。
「母は家に帰りたいといっています」
 まだお友だちの誰も戻っていないのに、と当惑するNさんの話しを聞いて、お母さんの帰りたがっている家がいまどうなっているのかを、知りたくなった。まことにお節介なことながら、他人ごとに思えなかった。

 訪ねた日は、あいにくの雨模様。
 Nさんから教わった住所だけが頼りのカーナビ・ガイドは、目的地に近づいたところまで、「ここ」と特定はしてくれず、尋ねる人もアテもない。範囲を広げたエリアを探しまわって、ようやく1軒、住む人のいる家を見つけ、なんとか話しが通じて、その家を訪ねあてることができた。
 
 ご近所情報を提供してくださったこのお宅は、たまたま、まもなく除染作業がおこなわれることになって、様子を見に来たとのこと。
 Nさんのお母さんの家の除染は、まだこれからだった。

 表の道から少しひっこんだお宅は、4年半の間に丈高く生い茂った雑草のなかにあって、閉じた門口の郵便受けにも表札はなく。
 それでも、雑草に〝埋もれかけた〟ほどでもなかったのは、この家が庭も住いの造りも大きくしっかりできており、日頃の手入れもゆき届いていたからだろう。

 《11.3.11》後に親しくなった被災地の家々で、ぼくらボランティアがよく口にした冗句に、「もうしわけないけれど、こんなことでもなければお近づきにはなれなかったかもしれない」というのがあった。
 これも、真実のひとつの側面であった。

 このときは、家のまわりの状況になにか不審なことはないかを観察、Nさんに電話で確認の報告をして、辞去した。
 ただし、お母さんはこれらわが家まわりの諸事情、たいがいのことは把握されていたようである。

 その1年後に、Nさんのお母さんは帰宅。日用の買い物は週に1度の移動スーパーでまにあわせている、とのことだった。
 それから、さらに1年後の、このたびの訪問。
 ひととおり除染の済んだ後に、私費で手入れの人手を頼んだのであろう、お庭はすっかりきれいになっていた。

 笑顔で迎えてくださったお母さんの面ざしは娘さんに似て…長女だったNさんは誰よりだいじに育てられたらしい。

 そんな、こんなの想いで語りのなかに、「娘からプレゼントされた箱」の話しがこぼれ出て。
 見せてくださったのが、Nさんが〈木工〉教室で拵えた「A4整理箱」。
 お母さんはそれを文箱に、重宝してくださっているとのこと。

 それが、ぼく自作の品であったら、きっと「嫁にやった娘に逢ったよう」であったろう、が。
 この場合には、もうワンクッションがあって、まるで「孫にでも逢ったよう」な不思議な気分がしたことであった。

 大きなお家にひとり暮らしのお母さんは、暮らしのスペースを玄関まわりに集約して、しっかりバリアフリー仕様、「怖い」防犯のことは専門のセキュリティー会社に依頼して、ご自身は庭の手入れに励んでおられるという。

 この里山の、これからがどうなっていくのか、それだけが気がかりなようすの、お母さん。
 屈託なく振る舞われる方には、「どうか足腰にご無理をなさいませんように」お願いして別れた。

 晴れ晴れ気分にかまけて、きれいになったお庭を写真に撮るのも忘れて……

 したがって、下の写真はいま現在ではない、一昨年夏、除染以前のもの。
 きれいになってからの風景は、たくましく想い見ていただきたい。

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/4日目④…南相馬、小高の人々

-No.1372-
★2017年06月24日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 2298日
★ オリンピック東京まで → 1126日








◆小高のおばさんトリオ「〝3B〟+1」

 F1(福島第一原発)爆発事故から、この春を迎えて6年。
 5年後の昨年7月には、避難指示が解除された南相馬市小高区だが、政府がいうような「ふつうに暮らせる場所」になっていないことは、人口が震災前の1割弱(17年3月現在約1,200人、震災前が約15,000人)しか戻っていないことからも知れる。

 市街地でも郊外でも、持ち主が戻らずに空き家のままの住居が目だち、それはいまの住環境に安心などできないからだが、そのことが町の復興にブレーキをかけているのも事実だった。
 もとの住民が、帰還か転出かをためらって手離せないでいる住居地には、住み替わる新しい住民もまた入ってこられない。
 これは原発事故被災地のどこもが抱えるジレンマである。

 そんな小高区でふんばる、おばさん〝3B〟トリオについては、これまでにもふれてきた。
【たとえば、-No.0688-2015年8月10日(月)記事『《11.3.11》福島巡礼2015夏⑨南相馬市小高/「浮船の里」は繭から糸を紡ぎはじめたばかり…』http://blog.hatena.ne.jp/sashimi-fish1/draft-scat.hatenablog.com/edit?entry=8454420450104592337など】

 このたびも訪ねる、新たな「〝3B〟+1」の「+1」には、支援の人たちに「あなたも一緒に」の願いがこめられている。
 (いうまでもないと思うが…〝3B〟は〝3ばば〟の冗句だ)
 避難指示解除をうけて、気もちもフレッシュにということだろう。

 まず、「浮船の里」に久米さんを訪ねる。
 〝お蚕さん”を飼って糸を紡ぐことから、だんだんに、積みかさねてきた活動は順調に進んで、現在は「織姫クラブ」の参加者もふえ、「みもろね」という名の絹糸ピアス製品もできていた。

 久米さんの案内で、震災被害の大きかった小高区の海岸部と、お隣り浪江町を観てまわったのは一昨年15年8月のことだった。
 津波に浚われた後の耕地に、小分けに並べられたフレコンバッグ群があちこちに散らばり、被災し傾いたままの民家がその間に散在、汚染土入りの巨大袋を寄せ集めるかたちのフレコンバッグ団地が再整備されている段階だった。
 汚染土の大規模処置用地の取得が難航し、いっぽうではまだ、各地で除染作業がつづけられてもいた。

 途中、2度3度と検問所を通った。
 バリケードに張り番の警備員が立ち、許可証のない車は通れない。
 F1(福島第一原発)に近い浪江町の市街は人影のないゴーストタウンであった。

 いま政府は、その処理に窮した汚染土を始末する方法として、汚染レベルの比較的低い土砂を〝建設資材〟として転用しようとしており、そのための実証事業が、小高区の海岸部でも進められている。
 要は、汚染レベルの低い土砂をよりわけて積み上げた盛土の上に、汚染のない土を厚さ50センチばかりに覆う、というのだ。

 話しとしては、わからないでもない。ほかにどうしようがあるのか…というところへ、いずれいくしかないのだろう…が。
 気がかりは、それに、どれほどの安全策と気くばりがなされるものか、わからない。いずれにしても、他人のすること。

 その人…日本人というのが、ずいぶん変質しちまっている気がしている。
 たとえば〝潔癖〟という性情には、ややもすればいきすぎがあるかもしれない、けれど。
 かつては日本人にいちばんの美徳であったはずの〝潔さ〟までが、塵芥〔ちりあくた〕のごとくにうち捨てられてしまい、「汚れっちまったものはどうにもならん」気分ばかり蔓延するのが、ぼくには寂しく、口惜しく思えてならない。
 (そんなんじゃないだろう…ニッポン人)

 ……………

 常磐線、小高駅前通りにできたばかりの「小高工房」へ、「〝3B〟+1」のあとお二人、廣畑さんと小林さんを訪ねる。
 廣畑さんは住民交流の「おだかぷらっとホーム」をつくった人、小林さんは駅前の旅館、二葉屋の女将さん。

 「小高工房」は、住む人なく取り壊しになるのを待つばかりだった民家を、リフォームするなどして再生、コ・ワーキングのスペースや新規事業・事業再開に役立てていこう、というもの。
 クラウドファンディング「レディーフォー」を通じての資金づくりも進めている。

 どんなに巡り歩いても、ぼくは余所者ゆえ、ほんとうのところは正直、よくわからない。
 小高というところに、どれほどの魅力(他所からの入り込みを誘うもの)があるものか。
 それよりも、きっと、原発爆発事故とその補償という一大事を機に、平衡をうしなってしまった原住民たちの心もちの復興、もとの、まともな暮らしぶりへの復帰の道のりと、とらえるべきなのだろう。

 ぼくなりに解釈すると、そういうことになる。 
 どこの土地でも「ほかにはないよさ」と仰る、それが真に説得力をもつのは、結局、その土地人ひとりひとりが、どれほど深くまで(他所とくらべたときの)その佳さを理解しているか、愛しているかにかかっているからだ。

 つまり、「みずからの身の丈を知っている」ことが、なによりの強みなのだと思う。
 「〝3B〟+1」には、「お元気よう!」のメッセージが、なによりも似あう。
 

快生やすみ…いただいてます

-No.1371-
★2017年06月23日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 2297日
★ オリンピック東京まで → 1127日

*きょう6月23日は「沖縄慰霊の日」、そして今年のこの日は「都議選」告示*
*考える日、考えさせる日…このワタシの頭のなかまで国家に覗かれたくない気分*

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/4日目③…〝常磐もの〟の水揚げに活気…小女子漁

-No.1370-
★2017年06月22日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 2296日
★ オリンピック東京まで → 1128日









◆〝からだ〟をうごかせる、〝いき〟がはずむシアワセ

 松川浦大橋を渡り返して、相馬双葉漁協市場のある原釜港岸壁側に戻ってきた。
 定点ウォッチ・ポイントにまわりこもうとして、ふと、市場内に目をうばわれた。
 そこに、ふだんの市場の朝の活況が現出していた。
 あの地震と大津波から6年ぶり、ぼくが初めて出逢う復興の、抑えきれないざわめきの声だった。

 いっぱい並んだ青いコンテナの、漁獲は大漁の小女子〔こうなご〕
 イカナゴの稚魚で、関西では「しんこ(新子)」と呼ぶ。
 イワシの稚魚シラス(ちりめんじゃこ)より大ぶりの、常磐の海の名産のひとつ。

 愛おしそうに目を輝かせる漁師と並んで歩きながら、なにか軽口をとばしている買付の男衆もはじけんばかりの笑顔だった。
 きびきびと動く人影の半分は女性、仕事着の色も華やかに、高い声音が、高い天井へと駆け上がる。
 じつは、これがふだんの漁港の情景で、船から水揚げのあとは女の仕事だ。
 すると、そばにまつわりつく男の数が、いまは多いことに気がつく。
 久しぶりに〝からだ〟をうごかせたウレシさに、〝いき〟がはずむようなのだ。
 それでいて男も女も、いざ仕事に力が入るときは無言。

 漁協の若い方に声をかけると。
「はぁ、おかげさまで、きょうはいい漁になりました」
「これから…ですがね、、まだまだ」
 もうお一人のベテランさんが笑う、その声も朗らかだった。

 夏は海水浴場になる原釜尾浜の、荒れ果て瓦礫の散らばるままだった園地にも、真新しい石畳や海釣りの築堤がよみがえり、傾きうち捨てられていた時計塔の建物も新しく、海岸通りの内側には赤土の盛土が陽に眩しい。
 こうした復興風景の向こうにあらためて眺めると、松川浦大橋もこれまでとはガラッとかわって頼もしげで、それがなんだかとても無性に微笑ましかった。

 コウナゴ(イカナゴ)といえば「くぎ煮」である。
 ぼくらは海産物を即売する浜沿いの店へ、土産の品定めに立ち寄ることも忘れなかった。
 

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/4日目②…松川浦大橋が開通、松川浦新漁港が復活

-No.1369-
★2017年06月21日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2295日
★ オリンピック東京まで → 1129日










◆「ほんとかよぉ!」

 相馬市街から海辺へ、松川浦へ。
 見馴れてきた道すじ、見馴れてきた風景。

 相馬港の南の端にある原釜の漁港へ。
 《11.3.11》の翌春、1年がすぎても、まだ。
 ここから汐入の水路を入った松川浦まで、ひっくるめてすっかり、大津波に洗われ浚われつくした情景はまったくのところ言語に絶して。
 震える手にメモ用紙をとることもできずに、ぼくは、
「酷いデス…ここも凄まじい…というほかに、ことばが見つかりません」
 やむをえず、ボイスレコーダーに声をしぼりだすしかなかったことを、くりかえしどんなに想いだしたことだろう。

 そのとき以来、定点ウォッチポイントになった、埠頭から松川浦大橋を望む風景。
 防波堤に打ち上げられたままになっていた破船がとり除かれ、瓦礫の撤去がすすみ、新装なった岸壁に魚市場棟の建物が復活してもまだ、大橋前の信号はずっと「赤」で、大洲海岸への通行止めはいっかな解除にはならなかった。
 通行止め柵の前に立つ警備員の姿がずっと定番だった。

 待ちきれない心もちがして、反対側の大洲海岸からアプローチをこころみたこともあったが、鵜の尾岬の灯台がまだ遠いところまでで行き止まり。
 いつになったらこの〝通せんぼ〟はなくなる……
 ずいぶん恨めしい想いをしつづけてきたのだったが。

 それが、なんと、このたびばアッケラカンとウソみたい、すべての規制がなくなっていて、てんで、どうしようもなく拍子抜け。
 ゆるゆると松川浦大橋の高い橋上を渡りながら、ぼくは「ほんとかよぉ!」と叫びたいくいであった。

 結局、通行止めの柵は橋を渡りきってすぐ先に移されてあったのだ、けれど。
 こんどは〝通せんぼ〟感がまるでない。
 ここまで工事が進めば、全線開通まではもう間もないにちがいない。

 鵜の尾岬の灯台を間近に仰ぐ浜は痩せていた、が。
 コンクリートの匂いもまだ真新しい岸壁では、気もちよく晴れわたった空の下、漁師たちが仲間としきりに話しをかわしながら網の準備に余念がなかった。
「う~ん、まぁだ、これからダ…な」
 口は寡黙な、けれども彼らの笑顔が潮風に光って見える。

 この笑顔を発泡スチロールの送り箱に貼り付けてやったら、風評被害も一掃できるのではないか…そんな気がする。

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/4日目①…相馬野馬追と云ふ戦国武者絵巻のこと

-No.1368-
★2017年06月20日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2294日
★ オリンピック東京まで → 1130日





◆ぼくの〝祭り〟解禁の気分

 4日目の5月19日、朝。
 《11.3.11》以来、定宿になったビジネスホテルから、いちばんに常磐線相馬駅を訪ねる。

 道路交通の世になり、道の駅の時代になっても。
  ふるさとの訛なつかし
  停車場の人ごみの中に
  そを聴きにゆく
 鉄道の駅に沁みこんだ故郷の匂いは、石川啄木の時代からかわらず健在だ。

 大津波の被害深刻で長いこと不通がつづいていた相馬駅から北、浜吉田(宮城県亘理町)までの常磐線23.2kmが運行再開になって、これで5年9ヶ月ぶりに福島県北部沿岸部と仙台との間が鉄道で結ばれた。
 2016年12月10日のことだった。

 どこか和風旅館の玄関を思わせる駅舎とその周辺には、すでに復興の気色もないふだんの暮らしぶりが戻っており、発着する列車の本数も1時間に1本以上が確保されて幹線らしくなっていた。

 ぼくには、どこかひとつ、封印を解かれたような気分があり。
 駅西方に鎮座する中村神社にはじめて足を向ける。
 その気にさせたのは、いうまでもない「相馬野馬追」の祭りだった。

 夏7月、最終週に行われる祭事は、震災津波の災禍をのりこえ開催されてきたが、これまでは、ぼくのほうに遠慮があったからだった。
 なぜの遠慮か? これがムズカシい。

 「相馬野馬追」という祭りは、人馬一体となっての勇壮さにおいて、わが国でも他に比類ないものである。
 ぼくは、この祭り。
 多感な子どもの頃に観て深く衝き動かされた、ドキュメンタリー映像の影響だと思うのだが、なによりも、どこの祭りよりも観たい、その感動的な渦中にひたってみたい思いがあって、半端じゃなかった。

 いったいに、ぼくは祭りを遊ぶ人たちの忘我の境地をこよなく愛するもので、そんな〝祭り〟そのものを愛し、夢中になって追いかけた日々もあった。
 けれども、決められた日時刻限というものが厳としてある〝祭り〟に参加するのには、こちらの都合がそれと合致しなければならない。それがまた、きわめて難儀なことでもあった。
 〝祭り〟のある場所が遠い場合には、これに旅する日数の調整もくわわる。

 そうこうするうちに、〝祭り〟は〝夢幻〟の境に置かれるるようになり(そうしないと身がもたない…)、相馬野馬追のように究極の存在は、ますます現実に遠いという、心もちとは矛盾したものになっていったのだった……

 ともあれ、相馬野馬追。
 じつは昨日、飯舘村から宿への途中、南相馬市博物館に立ち寄り、さまざまの文物とともに野馬追の祭り人形にも逢ってきていた。この博物館は、野馬追のクライマックス「神旗争奪戦」の行われる雲雀ヶ原祭場に隣接する。
 このように、〝解禁〟の気分が、ぼくにできて。
 今朝は、相馬神社を訪れる。
 まだたぶんに〝露払い〟の感、ではあったけれど。

 平将門(相馬氏の祖という)の時代、10世紀頃の創建とされる相馬中村神社(国の重文)がおおもとであり、野馬追神事の出陣式もこちらで行われるのだけれど。
 戊辰戦争後の1880年に建てられた中村城本丸址の中村神社もあり、調べてみると、野馬追に登場する馬を飼育する厩舎もこちらの方にあるというので、まず相馬神社の方に挨拶を…となったしだい。
 ぼくには、たぶんにそうした気分も濃いのであった。

 城址の緑濃い公園に着くと、(これが馬場か)と思われるものが真っ先に目にとびこんできた…が、これはふだんはグラウンド、祭事のときには馬場にもなる用途らしかった。
 神社の参道を通って、近くに相馬高校があるからそちらの生徒だろう、紅顔の男女生徒が気もちよく挨拶してくれる。

 神社への急な石畳道を登ると、途中に厩舎があらわれ、朝の手入れでもあろうか、1頭のこよなく立ち姿に優れた馬が繋がれていた。野馬追に出陣する馬の1頭にちがいない。

 ことしの「相馬野馬追」は、7月の28日(金)~31日(月)。
 ぼくの予定は、まだたっていない……
  

快生やすみ…いただいてます

-No.1367-
★2017年06月19日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 2293日
★ オリンピック東京まで → 1131日

補聴器と声のバリアフリー…そして『聞き間違えない国語辞書』

-No.1366-
★2017年06月18日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2292日
★ オリンピック東京まで → 1132日









◆音声表現のバリアフリー

 ぼくは〝難聴〟です、両耳に補聴器を装用している。
 …といって、〝両耳装用〟だから程度が重い、というわけではなくて、それはより聞こえを良くするための方便にすぎません。
 聴覚検査による診断によれば、ぼくのは〝中度〟の難聴。

 静かな環境で、明瞭な音声での会話のやりとりなら問題ありませんが、騒がしいなかでは高音域の不明瞭な声が聞きとりにくいか、聞きとれません。
 これ、りっぱな〝障害〟ですが、周囲はなかなか認めてくれません。

 まわりに理解がないばかりでなく、本人もまた〝障害〟とは思わず、自覚もしない欠点があります。
 ぼくもそうでした、人の話しが聞きとりにくいのは、話し手の発音がよくないか明瞭度がわるいのだとばかり、ずっと思ってきました。ひょんなことから聴覚検査をうけてみるまで…結果にビックリ愕然。

 まわりの人の〝難聴〟への対応も、似たようなもの。心底、思いやってはもらえません。
 他人〔ひと〕の身になることじたい、とてもむずかしいことですから、やむをえないのではありますが。

 たとえば、声が小さい(上品なのとは別デス)、発音が不明瞭、語尾が消えやすい話し方、などなど。
 ほんとうのことを言えば、口をきちんと開いて話してくれるだけでも、いいんですがネ…。

 聞きとれないので「スイマセンもう一度ハッキリ」とお願いしても、あいかわらず同じ調子でのくりかえし。
 話し方をくふうしてくださる方でも、いちど話しが通じると、なぜかあとは、またもとに戻ってしまう。

 医療関係の仕事にたずさわる方が相手でも、事情はほとんどかわりません。
 話しがよくわからないの → 耳が遠いのね → しょうがないなぁ…でおわっちゃう。
 〝難聴〟という障害を思ってもみてくれません。

 〝視覚障害〟者には、鉄道ホームから転落の危険がある、とすれば。
 〝聴覚障害〟者には、道路で自動車の接近に気づけない危険がある、わけですけれども。

 〝視覚障害〟にくらべて〝聴覚障害〟は認知がおくれている気がします。
 ぼくは、おかげさまで、まだなんとか自身で注意できていますけれど。
 認知症とおなじで、高齢になるほどリスクは増します。

 そのぼくは、北里大学病院の補聴器外来で定期的な検査と診察をうけています。
 先日、患者の「補聴器装用の実態」を調査させてほしい、ということで協力を承諾。
 より高度・精密な聴覚検査をしてもらいました。
 結果は…まぁ、〝中度〟にかわりはなかったわけですが。

 ひとつハッキリしたことがあります。
 それは、「聞こえ」はつまるところ「脳の認識と理解」の問題だということ。
 つまり。「聞こえ」はしても「認識がちが」えば「聴こえた」ことにならない。

 聴覚検査に、五十音の短音の聴きとり、というのがあって。
 発音の大小や、状況の変化(静謐のもとか雑音のなかかなど)で、どこまで聴き分けられるかを、試されました。
 それでじつは、〝難聴〟の障害の多くは「聴きちがい」に起因すること、「聴きちがい」を少なくするには「言いかえが有効」なことに、気づかされました。

 こういうこと、デス。
 五十音の母音「あ、い、う、え、お」に、それぞれの子音群がある。
 たとえば「あ段」なら「あ、か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ」というように。
 …で、この同じ段の子音同士というのを、「聴きちがい」やすい。

 実際に、ぼくには「」だか「」だか、「」だか「」だかがよくわからず、虚をつかれたぼくの脳はその認識に迷うことになりました。
 これを、会話のなかの単語に例をもとめると。
 「くしゅ(握手)」と「くしゅ(拍手)」を聴きちがえやすい。
 ならば、「手を握る」「手を叩く」に言いかえればイイ。

 ついでに、これは話し手の側のこと、表現法になりますが。
 じゃ聞き手の側、受け手として、ただただ話し手の表現努力に待てばイイのか、ということがある。
 とうぜん、そりゃナイでしょう、いうまでもない。

 「聞きちがえ」やすい子音群を課題に、認識の補正につとたらイイんじゃないのか。
 年寄りには年寄りのとるべき途というものがある…ことに思い至りました。

 そんな折も折(こんなこともあるか…)、天与のこと、としか思えない記事を新聞に見いだしました。
 「相手の話しが聞きづらくなる」高齢者の悩み解決に、話しかける側が言葉の言い換えや発音をくふうしようという、バリアフリー研修の取り組みが進んでいる、というのです。

 まずはサービス関係の業界を主に、はとうぜんでしょうね。
 これからはイヤでも高齢者が大多数をしめていくことになるのですから。

 日本の補聴器メーカーの大手パナソニックは、言い換え用スマホ向けのデジタル『聞き間違えない国語辞書』を開発、これを活用した話し方研修講座を企業向けなどに開催。
 NPO「日本スピーチ・話し方協会」でも、同様の活動に力をいれている、ということデス。

 いいですね。
 でも、そこでたいせつなのは頼りきりはダメよ、ということ。
 受け手の側にも、それなりの心がけがなくちゃいけません。

 それは「つう(普通)」ですか、「つう(苦痛)」ですか。
 ほしいのは「んきゅう(連休)」ですか、「んきゅう(電球)」ですか。

 ところで、あなた「とう(加藤)さん」でしたっけ、それとも「とう(佐藤)さん」……

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/3日目③…飯舘村、山津見神社の天井画オオカミ絵

-No.1365-
★2017年06月17日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 2291日
★ オリンピック東京まで → 1133日
















◆どうなる飯舘村民〝帰還〟の動き…

 飯舘村の北のはずれ、霊山町との境近くにあるオオカミ(白狼)伝説の山津見神社へ。
 祭神の山の神「大山津見神」には、国生みの伊邪那岐神伊邪那美神御子神とされる由緒が伝わる。
 ここは、再訪。

 参考までに、前の記事は3年前の春。
 -No.0280-2014年6月28日投稿『人無き家や田畑でつづく除染作業…飯舘村/《3.11》2014年春の巡礼15日目(4月17日)』だった。
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 ぼくは、日本ではすでに絶滅したといわれるオオカミという動物に、ふかい愛着をもつ者だ、けれど。
 このときの訪問は、放射性物質の〝ホットスポット〟と呼ばれるところが、どういう地理的条件をもつ存在なのかを体感しておきたかったからだった。
 そうして、実際に行ってみればなるほど、風の通り道にあたって深い森をなすそこは、(降り積もり蓄えうる)環境にあることが実感された……

 さて、そこで、お礼の参拝を思ったところが、社殿がない。
 拠りどころを探しもとめると、ビニールシートで覆われたところが、どうやら仮殿らしく、そこで宮司さんにお目にかかることができた。
 事情をうかがうと、あの震災大津波原発爆発事故のあと、たびかさなる不幸の火災(13年春)に遭って拝殿を焼失、原因は不審火とのことだった。その拝殿天井は、およそ240枚といわれるオオカミの天井絵で飾られていたという。
 「惜しいことを」との思いから、わずかながらの金一封を置いて帰ったものだった。

 その後、文化財修繕に携わる東京芸大チームのおかげで天井絵が復元(16年春)され、追って焼失した拝殿の再建(同年初夏)も成ったことから、天井絵は無事復活(同年冬)。
 それを新聞報道で知ったぼくは、信仰の力づよさに驚嘆したものだった。

 もともと、あの原発爆発事故騒ぎにまきこまれるまでは「日本で最も美しい村」連合に加盟していた飯舘村
 唱歌『故郷〔ふるさと〕』そのままの山川田野がうしなわれたわけだはなかったけれども、見た目の風景だけはのこって住む人のない環境はもう自然とはいえず。
 「風景というものは、そこに人の営みがあってこそ」といわれることのたしかさを、あらためて思い知らされる。

 そんな村のなかでも山間の佐須地区。
 3年前には山津見神社周辺の農家に人の気配すらなかったのが、このたびは姿こそ見えなくても、そこここに、そこはかとない生活の匂いがただよっている。それだけで風景が活きてきていた。

 拝殿に仰ぎ見るオオカミたち、さまざまな姿態・生態の天井絵にも生命感が薫っていた。
 が、あの宮司さんの姿は見えず、現在の若き権禰宜さんに尋ねると、前宮司はわけあってここを去られたとのこと。
 くわしい事情は知るべくもないが、この6年という時間の不条理を想わないわけにはいかなかった。

 ……………

 山津見神社から下って県道12号(原町川俣線)に出ると、深谷のあたりで活況の槌音が響いて、聞けば「道の駅ができる」とのこと。愛称の「までい館」、「までい」とは土地の方言で「手間をかける」こと。飯舘村はもともと「までいの村」で知られていた。
 道の駅は、ことしの夏休み中にはオープンの予定という。
 
 この県道沿いにも施設建物がいろいろ、車の通行量にも目を瞠らせるものがあって、やはり気もちの張りを覚える。
 
 南相馬市を目指して走る県道12号、飯舘村の名産は飯舘牛だが、途中の緑の牧野には草を食む馬たちの姿が見られ。
 村と市の境、矢木沢峠付近には「復興トンネル建設中」の看板文字、峠道のカーブをなくすバイパスが通るらしい。

 あれこれいろいろ、にぎやかな人車の動きが、ふるさと飯舘村に帰還したい人たちの背中や肩を押すことになるのかも知れない、と思えば他所者にもウレシイ気分だったが…。
 万が一、それが掛け声だおれにおわったときの反動を思うと、また肝が冷える。

 来年の夏くらいまでには、そうした帰還の動向のほどを、判断する材料が揃いそうな気がする…… 
 




快生やすみ…いただいてます

-No.1364-
★2017年06月16日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 2290日
★ オリンピック東京まで → 1134日

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/3日目②…飯舘村の〝復興〟への槌音

-No.1363-
★2017年06月15日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 2289日
★ オリンピック東京まで → 1135日









放射能汚染被災地にようやく見えてきた人の動き

 《11.3.11》からの6年ほど、飯舘村役場の仮庁舎が置かれていた飯野町を経て、川俣町に入る。
 国道114号(富岡街道)にある道の駅「川俣シルクピア」に立ち寄ってみると、ふだんの人出にもどった感があった。

 飯舘村、川俣町、浪江町、3町村にだされていた避難指示の一部が解除になったのは3月31日のこと。
 これで避難指示区域は、あいかわらず高い放射線量の「帰還困難地域」をのこすだけになり、翌4月1日には富岡町にも解除があった。
 帰還困難区域のない川俣町の場合は、これで全町が避難解除になったわけである。

 しかしその一方では、全町が帰還困難区域のままの双葉町大熊町のほか、計5市町村(飯舘、浪江、富岡、南相馬、葛尾)にはまだ帰還困難区域がのこるから、実際は〝避難解除は表向き〟にすぎない。

 国道114号を浪江町方面へさらに進むと山木屋地区。
 じつは福島第一原発事故の直後、ぼくは、ここにあったオートキャンプ場を取材のベースに考えたのだが、予測よりも西北に広がった放射能汚染地域のなかにここもスッポリ含まれてしまい、すでに電話も通じなくなっていたのだった。

 現在の山木屋地区で明るい話題はソーラー発電、なかでも「ソーラーシェアリング」が農民たちの関心を集めている。
 ソーラーシェアリングというのは、耕作地の上3メートルほどの高さに支柱を立て、藤棚のような架台に太陽光パネルを設置、営農しながらに発電(売電)も行おうというもの。もちろん架台には、下の作物にもちゃんと太陽光があたるような隙間が設けられている。

 いわば「農業+発電」の2階建て方式で、まだまだ研究課題も多いというものの、うまくいけば数年で設備投資分が回収できるという。
 すばらしい発想の転換というか、困らされてもめげない気骨精神の発露というか、いずれにしても見上げたものだ。
 
 これから飯舘村へと向かう、途中にそんな光景が発見できればありがたい…と思ったわけだけれど、ざんねん、走る道すじに見えるのは、除染作業で出た汚染土などを収納する大きな袋、フレコンバッグを集め連ねたあいかわらずの被災地風景でしかなかった。

 ……………

 やがて、国道114号に「この先、通行止め」の標識看板がでて、帰還困難区域に近づいたことを知らされる。
 この道はいずれ、浪江町の山間部、ホッとスポットの津島地区に至る。

 その手前で、ぼくらは町村境、比曾坂越えの県道に左折、飯舘村に入る。
 この道も飯舘村の帰還困難区域、長泥地区に至るわけだが、さいわい〝進入禁止〟バリケードの少し手前で国道399号に左折することができる。
 6年にもわたって幾度も通ううちには、不慣れな道にもだんだん詳しくなってくる。

 ……………

 飯舘村の役場に着くと、駐車場には〝所狭し〟いう感じに、車がおしかけて盛況。自家用の乗用車もあれば、なにかしらの業務用であろうボックスタイプの車も多く、なかの1台のバゲッジルームからはドローンがもちだされて、なにかの「調査です」とのこと。
 これまで仮庁舎に移転を余儀なくされていた役場機能のもどったウレシさ、無言のうちにも隠しきれないように見える。

 ぼくも、あのとき以来はじめて、役場内に入れてもらう。
 復興対策課の若手職員さんに、いくつかのことをたずね、所在などを教えてもらう…そんな些細なことでさえ、これまではずっとできないでいた。
 役場でも把握できていないことが、なかに1件あったが、これはやむをえない。いまは、情報によっては、役所より民間レベルの方が早かったりする。

 役場のすぐ脇では、運動公園の建設が進んで、町民の帰還に応えようとしていた。
 そのすぐ近くでは、すでに紹介した「会津電力」の親戚筋とでもいうべき「飯舘電力」の、小規模太陽光発電パネルがすでに暑い陽ざしを浴びていた。
 そのほか村内各地で、復興にむけたかずかずの村民福利施設が姿をみせはじめている。

 ことし5月には、待ちに待った7年ぶりの田植えが、村内8軒の稲作農家、作付面積計約7ヘクタールではじまっていた。秋になって収穫後、放射性物質の検査結果を待たないと、まだ出荷できるどうかはわからない、けれど。
 村では12年から試験的な栽培をし、検査もつづけてきており、これまでのところ基準値を超える放射性物質は検出されていないから、期待はおおきいのだった。

「まだまだこれから…だけどね」
 関係者は口をそろえる、が。
 除染作業員など復興工事関係者以外の人の動きがでてきた、というか、ここへきて一気に活発化してきたようで、これには関係者もいちように予想外の目を瞠っている。
 
 実際ボクらも、緑の曠野に人の姿を探してきたこれまでがウソのような、人車の動きに圧倒される想い。
 道端に車を一時停止させるのにも、はじめて、通過車両に注意の目をむけるようになっていた……  
 




《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/3日目①…猪苗代湖から〝浜通り〟まで

-No.1362-
★2017年06月14日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2288日
★ オリンピック東京まで → 1136日






猪苗代湖の朝

 2日目、5月17日の泊まりはグランドサンピア猪苗代リゾートホテル。
 「宝の山」磐梯山麓にあって、ついこの4月までゲレンデに遊ぶ人たちの姿が見られたスキー・リゾートである。
 〝表磐梯〟に宿をとるのははじめてのことだった。

 目覚めた翌朝、早暁、ホテルの部屋の窓からは、眼下に猪苗代湖の薄い朝靄の景が広がっていた。
 すると、ぼくの脳裡にはセピア色に古びた映画の冒頭の場面がフェードイン。
 囲炉裏端に寝かされていた幼な児が、囲炉裏に落ちたはずみで、自在鉤に架かっていた鉄瓶だったか鍋だったかの熱湯を浴び、泣き叫ぶ声が雪の猪苗代湖畔に響き渡る……

 それは小学校にあがって初めての映画鑑賞会で観た、題名は忘れたが野口英世医博の偉人伝であった。
 このときに負った左手の大火傷がきっかけになって、清作少年は長じて医学を志すことになるという…子ども心にはなんともフクザツ混沌としか言いようのない印象をあたえれらた記憶がある。
 猪苗代という湖の名も、そのとき、その厳冬の寒々と凍てつく情景とともに脳裡にきざみつけられた。

 まさにその湖畔の景が、眼下に目覚めのときを迎えていた。
 きのうも述べたように猪苗代という湖は、余所者にとっては、湖畔に近寄りがたいところがあって損をしている。

 しかし、いま、湖畔の北岸低平地に、早春の、鏡面のごとき水田の広がりを見せる姿は…たとえば〝弥生の世〟…あるいは国の〝まほろば〟…というのはコレではあるまいかと想わせるものがあった。
 ぼくはコーヒーカップを手に窓辺に佇み、それから小1時間ものあいだ、そんな原風景に目をうばわれつづけた、鏡のような水田の面にやがて陽が射し染め、朝風が漣をたてるまで……

 ホテルの駐車場の脇に、赤い昔のポストが「一緒に写真を撮ってよ」と言わんばかりに微笑んでいた。
 きのうは「はじまりの美術館」に、紙粘土かなにかで造形された〝遠い記憶のなかのポスト〟とでも名付けたいアーティストの造形作品を観たばかりで、ぼくはなぜか、この退役ポストのきわめて息の長い存在感に頭の下がる思いだった。
 それには〝郵便〟以前の〝逓信〟の匂い、「順次にとりついで音信を通ずる」カタチが見えるようだった。

 会津には、きのう別れを告げてきた。
 ここ〝中通り〟から、きょうはこれから〝浜通り〟を目指す。

 時間距離からすれば磐越道から東北道経由になる、が、ぼくは思うところあって安達太良山山麓あたりを逍遥する国道すじを選び、まずは裏磐梯へと上り抜け、五色沼の先から〝磐梯吾妻レークライン〟へ。

 裏磐梯は、ぼくら夫婦そろって、〝ラングラウフ〟という歩くスキーに邂逅した地。スノーモービルの愉しみにも出逢ったところで、とりわけ想い出がふかい。
 レークラインには〝三湖台パラダイス〟と呼ばれる展望所があり、秋元・小野川・桧原の〝裏磐梯三湖〟に磐梯山をくわえた眺望が愉しめる。

 新緑の瑞々しく風薫るなか、初啼きのウグイスが「ホ~、ホッ、ケッキョ、ケキョ」とたどたどしく、まだつかえつかえしながら懸命に啼きの修行の声が、ぼくらはたまらなく好きだった。
 そのウグイスたちも盛夏の頃になれば、立派に〝谷渡り〟の美声を林間に響かせるようになる。

 レークラインから安達太良の北麓を巻いて、二本松市へと下る途中、磐梯吾妻スカイラインへの入口を見送る。
 このルートを選んだわけは、阿武隈川が気になっていたから。

 那須岳に源を発して福島県を北流、宮城との県境を東に流れてやがて太平洋にそそぐ。阿武隈川がいまだに、その上流地域にいたるまで〝遊漁自粛〟をつづけている。
 山林を除くかぎられた土地は〝除染〟できても、水系から放射能汚染をとり除くことは至難、というか不可能なことで、あとはただひたすら自然減衰の時の流れにゆだねるしかない。
 農作物の汚染に神経を尖らす人々にも、あんがい水の中への関心は薄い。

 ぼくは、できれば、阿武隈川のどこか一ヶ所でもいい、そんな世に警鐘を鳴らせるような情景に出逢えれば…と思っていたのであったが。現実には、ただの通りすがり程度でモノにできるほどアマイものではなかった……


《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/2日目④…「はじまりの美術館」猪苗代町

-No.1361-
★2017年06月13日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2287日
★ オリンピック東京まで → 1137日








◆〝感覚〟のちがい…〝実感〟の落差

 時間がゆるすかぎりは、その土地々々の表情とふれあえる一般道を走るのがぼくらのスタイルだ、けれども。
 やむをえないとき、気分をきりかえる必要のあるときは、高速道路を走ったり、自動車専用道路をとばしたり。

 2日目のラストステージ、猪苗代湖畔を目指しては磐越道走りで〝気合〟を入れなおす。
 つよい暑気のせいで、予想外におおきいエネルギー・ロスに身体が悲鳴をあげていた。

 猪苗代湖は大きな湖だが、湖岸の平坦なところには田が開かれていたりするからだろう、余所者は湖畔に親しみにくい。
 こんども、湖畔でひと休みしたいと思いながら 車窓に水面を覗いたきり。
 市街地に入って、目的地に着いてしまった。

 訪ねたのは「はじまりの美術館」。
 「あなたが感じていることと、わたしが感じていることは、ちがうかもしれない」展というのを、7月9日(日)までやっている。

 ぼくがこの美術館を知ったのは、新聞取材にこたえた館長、岡部さんのコトバ。
原発事故によって福島県は障害を背負った」
 だった。
 (そうだな)
 素直にうなずけるボクがいた。

 岡部さんのコトバに、もう少し、耳をかたむけておきたい。
「(福島第一原発事故の)避難者の子どもがいじめを受けたりするのは、親の意識を反映している。この構図は障害をめぐる構図とおなじです。共通するのは、ひとごとであるという無責任さ。まずは自分の五感で感じてみることが大切でしょう。たくさんの人が福島に来て、現実を見てくれたらいいなと思います」
 これは、そうしてきたボク自身が、そう思いつづけてきたこと、でもあった。

 この美術館は、障害者支援の専門家が開いた〝出逢いの場〟だけれど、それよりも。
 障害を背負った福島の復興に、内面からの生の表現と理解の〝きっかけづくりの場〟と、とらえた方がよさそうだ。

 いま開かれている展覧会も、障害のある人の自由奔放にきらめく作品ではないが、そうした〝気づき〟に近づかせるものを展示。
 そのために、気鋭アーティストたちの作品を、まず見て、つぎに触って、それで感じられる「ちがうかもしれない」世界を体験してください…という仕掛けになっている。

 展示作品のあれこれについては、ぼくには好ましさを言うくらいしかできないし、余計なことだから、やめておく。
 ぼくは、この美術館の基本の理念「アール・ブリュット」(フランス語で「生の芸術」の意とか)についても、まだ語る資格はないと思われる。
 
 ただ、ひとつだけ。
 はっきりと自覚できたのは、「触れることで世界がかわる」こと。
 触れることを禁じられた社会で、ぼくたちも障害者のように扱われている、発見もできた。
 それだけでヨカッタ。

 もうひとつ。
 ぼくはずっと、じぶんは障害のある人たちにやさしくない、差別化して生きて来たイヤなヤツ、と思ってきたのだけれど。
 そのじつは、じぶんもいま難聴という障害をかかえて、他者〔ひと〕からは理解されない同じ立場にあり、だから、たがいに傷を舐めあうようなことはしたくない、気分がつよいせいだとも知った。
 そうして、さらに言うなら、ぼくらのまわりにたむろする人たちもまた、なんでもないような顔をしながら、そのじつはさまざまな障害にあえぐ者たち、なのだった。

「障害とは、社会生活をするえうでの摩擦のようなもの」
 このコトバを、ボクはいま〝ひとり〟かみしめています。
 行って、観て、そうして感じてください……






快生やすみ…いただいてます

-No.1360-
★2017年06月12日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 2286日
★ オリンピック東京まで → 1138日

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/2日目③〝蔵の街〟喜多方、大和川酒蔵と会津電力

-No.1359-
★2017年06月11日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2285日
★ オリンピック東京まで → 1139日















◆かつてあった日中線

 会津坂下の町から、会津盆地の北に位置する喜多方市に向かう。
 喜多方と言ったら、いまはいうまでもない「ラーメンの町」なのだろう、が。

 かつての鉄道ファンには、磐越西線喜多方駅山形県境に近い熱塩駅との間を結んでいた日中〔にっちゅう〕線という、わずか11.6kmと短い、鉱山用の小さな鉄道線のあったことが想いだされる。
 この日中線、SL時代にはC11形が活躍して、終点の熱塩駅には機関車が方向転換するための転車台が設けられていた。

 日中線の名は、終点熱塩駅の先にある日中温泉にちなんだもので、日中の国交と直接の関係はない。
 …とはいいながら、1938年開通のこのローカル鉄道、じつは日中戦争(1937~45年)の影響を受けており、熱塩駅の転車台がそれ。
 もともと短小路線には贅沢だった転車台、C11形機関車は転車台で方向転換しなくてもバック運転(逆機)でも支障が少なかったから、せっかく設置されながら間もなく使われなくなった経緯があった。

 ぼくも一度だけ、乗るためだけの目的で1972(昭和47)年、この熱塩線に往復乗車したことがあったが、当時すでに朝・夕・夜、わずか1日3往復のきわめて不便な運行…「日中は走らん線」と揶揄された鉄路は84年春には廃止になっている。

会津電力と大和川酒造

 喜多方(名前の由来は北方)は蔵の街、また漆器の街でもある。
 味噌蔵や穀物蔵と並んで酒蔵があり、酒造でも知られる。

 〝寒造り〟の日本酒には、良質の水と米、そして酒質を磨く雪の効能がいわれ。
 なるほど越後(新潟)をはじめ東北各県には名酒・銘醸が多い由縁で、ぼくたち夫婦はそろって酒(といったら日本酒でアル)を愛する。

 ただし、ご新規さん呑兵衛の仲間入り、若年の頃にまず知ったのは「末廣」(会津若松)であり、「栄川〔えいせん〕」(磐梯町)であり、喜多方では「会津誉」であった。

 このたび訪れる大和川酒造を知ったのは、その後のことになる。銘柄は「弥右衛門」。
 その大和川酒造、《11.3.11》後の福島復興活動で一躍、名を上げた。

 「地産地消」を地で行く蔵元、大和川酒蔵の9代目弥右衛門さんが音頭をとって呼びかけた「会津電力」構想が、「エネルギーも地産地消」の主張が、首都圏民にもつよい共感とともに迎えられた。
 「自然エネで〝独立運動〟」のタイトルが新聞紙面に踊ったのは12年冬のこと。
 もとより豊富な水資源はいうにおよばず、太陽光、地熱、風力、バイオマスと、あらゆる知恵をしぼって、福島県の「原発との共存拒否」決別気運をリードすることになった。

 その後13年8月には、会津地域の会社経営者らで立ち上げた会津電力(株)がスタート、その社長に大和川酒造の佐藤弥右衛門さんが就いた。
 まず、いちばんに手がけたのが太陽光発電事業、都合15ヶ所に合計出力約2,200キロワット(一般家庭600世帯分相当)の設備をして、東北電力に売電することから始まった。

 会津電力のスタンスは、その母胎となった「会津自然エネルギー機構」のときから一貫している。
 その根底には、かつての福島は「エネルギーの植民地」であったする認識がある。
 その過去に正面から向きあって原発依存から脱却、「中央(東京)と地方(福島県)の関係を新しく創り直す」。
 そこに脈々と伏流するのは、叛骨の〝会津魂〟の感、とうぜん色濃い。
 「会津っぽ」がゆく。

 それにしても、なぜ「酒」か、「酒造」かの想いが、いっぽうにある。
 あの《11.3.11》があってからこれまで、被災地東北に、現代の〝行脚の杖〟をひいてきたボクには、感慨深いものがあった。

 復興に向けた動きのさまざまを伝える報道に、なんと、どれだけ多くの酒蔵ネタが登場したことか。
 いまこころみに、ひとつ代表例をあげれば岩手県陸前高田の「酔仙」酒造。
 未曽有の大津波被害に遭って、重要文化財の酒蔵と7名の担い手をうしなった蔵の、そのときとその後は、産業経済関係の話題のトップを占め。
 少なくとも、あの大津波の被災から2年後くらいまでの復興初期には、ナンバーワンの注目をあつめた。

 庶民の話題は多彩をきわめたなかで、「酒造」が突出して脚光を浴びつづけた…というのは、けして〝吞んべ〟のボクの思いすごしではなかったろう。
 しかも、これには「酒呑む人」ばかりでなく「呑まない人」にも異論がなかった不思議、どういうことか、〝呑んべ〟のボクの気がひけたくらい。
 
 その証左と思える事実は、たとえば、たいへんな呑兵衛の夫を抱え苦労しつづけたその妻が、酒蔵家のことに話しがおよぶと途端に尊敬の態度にかわったこと、があげられるだろう。いまも地方には、こうした話しが少なくない。

 たとえば、かつての日本では、郵便局長さんと学校の校長先生、最寄りの駅長さんが地元の名士であった。いわば真面目系。
 それとは、また少し異なった色彩をはなつ資産家系の名士が、酒造家であった。こちらは、さばけたムード派だった。

 〝口噛み酒〟の昔から神をよろこばせ、神と人との仲をとりもってきた酒にはまた、酒の神があった。
 そんな歴史とも関わりが深いのかも知れない。

 もうひと組の先客と一緒に、新人社員の案内で蔵を見学させてもらった。
 大和川酒蔵の展示資料には「北方風土館」の名が与えられている。
 もちろんこの「北方」は、「ほっぽう」ではなく「きたかた」である。

 ドライバーであるボクには、酒造のテイスティング・ルームは我慢どころ。
 試飲はかみさんにまかせて、わが家と酒好きな友への土産に宅配を頼み、別に今宵の晩酌用に1本つつんでもらう。
 すでにこの真夏のような陽気のもとでは、陽あたり放題の車に酒を積んでは行けない。

 「会津電力」への支援を伝え、喜多方ラーメン食べて、〝蔵の街〟をあとにした。