どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

◎「終電」くりあげて「夜行列車」をリバイバル / ぼくらが生きる〝新コロ〟後の〝新来〟社会(8)

-No.2705-
★2021年02月16日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3631日
★延期…オリンピック東京まで → 158
★旧暦1月5日(月齢4.3)
※次回は、2月19日(金)の予定です※





◆都会に夜をとりもどしたい!

 「新コロ」の感染拡大、第3の波が深刻になりはじめた昨年暮れ。
 首都圏の鉄道各社(JR&私鉄)は来春のダイヤ改正から、終電繰り上げの予定を公表。
 これは、外出・外食自粛モードがつづくいま現在、電車の乗客減少というご時世があり。もうひとつには、これまで運行優先のシワ寄せがあった夜間の保守作業、時間確保を目指すためでもありました。

 そうして、さて…年が明けても。
 感染の波おさまる気配なく、自治体による「夜間の外出自粛」要請から、ついには遅ればせながら1月7日、国による「緊急事態宣言」の発令があって。
 首都圏の鉄道は1月20日から、終電の時刻繰り上げを最大で30分程度、「前倒し」で行うことになりました。

 こうしたうごきに対する庶民の反応は、一部から、たずさわる仕事柄「それはコマル」窮状の訴えがありました、が。おおかたは(まぁ…しょうがないかな)という、消極的に順応する態度でした。
 (まぁ、そんなもんかな)でした…けれども。

 このときにあたって、ぼくは、以下のような一文を某新聞に寄稿。
 心もちは「新コロ後に迎えたい新世界を考える」ものでした。

     ☆          ☆          ☆

 夜をワクワク眠りたい

 いうまでもありませんが。
 光り輝くお陽さまがあって、この星(地球)に生きる私たち人間です。
 そのお陽さまは、夜の闇があってのちに、輝きと幸せとをもたらしてくれます。

 これこそが大切なことを、忘れてはいけないと思います。
 夜はたしかに刺激的ですが、やっぱり、ふつうの日常じゃありません。
 徹夜して疲れた朝より、よく眠って目覚めた爽快な朝のほうが、だんぜんステキ。

 ドキドキの夜を欲ばりすぎないで、すっきりワクワクの朝を迎えたい。
 そんなふつうのことを、すっかり忘れてしまっているのが、いま。

 夜の闇にコワイものがあるのも、じつはワクワクの朝のためでした。
 そのヤクソクを忘れてしまったから、もっとコワい目に遭ってきた、ぼくたち。

 ですから……
 夜遅くまで、仕事をしなければならない、人たちがあれば。
 その人たちのために、対策をシッカリとしたうえで。

 夜遅い電車は、トクベツのときにかぎって、ふだんは減らすのがふつう。
 都会だけが、いつもトクベツなのも、ぜ~んぜんオカシイ。

 「夜のない街」には「ドキドキの夜も、ワクワクの朝もない」。
 ニッポンは、そんな「ふつうがあたりまえの国」であってほしい!…ものです。

     ☆          ☆          ☆

 人間は、闇をおそれて、灯りをもとめ。
 さりとて、灯りのある時間が広まったいま、夜の時間は短くなりましたが…闇がなくなったわけじゃなし。
 夜の闇をおそれなくなった現代人は、心の闇に襲われはじめてひさしく。

 逆に、いま〝辺鄙な田舎〟といわれる地方に行くと、夜の闇の深さにあらためて驚かされ、そこにポツンポツンと点在する家々の灯りに、ホッと胸に沁みる安らぎを覚え…これが(ふつうの夜なんだ)とあらためて思い知らされます。
 闇を追い出した夜は、〈便宜〉に潜む〈陥穽(かんせい=落とし穴)〉かも……

     ☆          ☆          ☆

 〈終電〉時刻の繰り上げといっても、キホン〈始発0時〉以降はナシでしょう。 
 途中、通過駅で日をまたぎ、終着はたとえ翌朝であっても。
 夜を欺〔あざむ〕いちゃいけない、節度がなくちゃいけない…と、かつての夜遊び人は(反省して)思います。
 終電をあきらめる日は、おとなしくギブ・アップして早めに帰るか、それとも潔く覚悟して帰るのをやめるか。

◆冷たい「終電」、温もりの「夜行列車」

 大都会が「眠らない街」を目指し、「夜型人間」が幅を利かすようになって、「終電」時刻は遅く、「始発」時刻は早くなるばかりだった現代。
 ふところ具合が温かくなれば、お愉しみの時間も長くなる、わけですが。

 いっぽうで
 たとえば旅が、いまはずいぶん即物的に、美味いもの喰いと買い物ツアーに傾いて、ロマンやノスタルジアやドリームとは縁遠くなるばかりに思えます。




 かつての鉄道(国鉄)には、「夜行列車」花ざかりの時代があって。
 特急や急行の寝台列車、暗い車窓から沿線民家の灯りを遠く眺めるのは、特別な夜のすごし方。ときに映し鏡にもなる窓ガラスはポエティックでもありました。

 「夜行列車」というのは、もともと、昼夜を通して走らないと目的地に到着できない長距離列車のこと。
 ですから日本でも、新幹線網や航空路網が発達するまでは、重要な長距離の移動手段で。その運行形態は、各駅停車の普通列車にまでおよんでいたものです。

 ちなみに、いま、ぼくの手もとにある交通公社の『時刻表』1972年3月全国白紙ダイヤ大改正号(東海道新幹線が走り出して8年後)を見ると。
 東海道本線の「下り」には、東京発23時35分大垣(岐阜県)行き普通列車、通称「大垣夜行」というのがあって。なんとこの電車は、横浜で日付が変わったあと、翌朝07時10分に大垣に着くと、そこから先は7時14分発西明石山陽本線兵庫県)行きに接続する、超長距離便(逆コースの上り便もありました)。

 この夜行列車の歴史をさかのぼれば、前身(1968年まで)は…東京-大阪間ともっと長距離走者でした。
 そうして、この「大垣夜行」のその後は、旅行事情の変化をうけて96年に全席指定(新型車)の「ムーンライトながら」へ、さらに09年には定期運行から「臨時列車」への変転を経て、コロナ禍中の20年3月後には運行終了になりました。
 この背後には、深夜便の乗客が高速バスにながれた事情もあったのです。

 いま当時をふりかえると…
 じつは、東海道本線の「終電」はこのあと、23時56分発の小田原行き。
 学生時代、神奈川県川崎市に住んでいたボクは、どんなに呑んだくれても大垣行き電車には乗る、とキメていました。終電の小田原行きは最後の砦です。

 「大垣夜行」には、遠くても小田原あたりまでの通勤・通学客のほかに、中京・関西圏へ用向きの客などもあって、車内は日常・非日常が交錯、ふしぎな空気につつまれていたものです。そんな縁から、ぼくも、こころみに東京-西明石を乗り通したことがある。安い普通運賃で、西明石に着いたのは翌日11時01分でした。

 学生時代、甲斐・信濃路の山歩き。「夜行日帰り」の定番は中央本線の夜行列車。
 急行もたくさん走っていましたが、安く連れて行ってくれるので、ありがたかったのは新宿発23時55分の長野行き(終着翌11時11分)でした。

 憧れの〈北の大地〉北海道へは、東北本線の夜行列車。
 津軽海峡のトンネル未だ通じず、青函連絡船に頼るしかなかった頃、時間と宿代を節約する最上の手段は、夜行寝台列車で青森、翌朝の船に乗り換えて海を渡ること。
 特急より運賃の安あがりな急行には、「八甲田」と奥羽本線回りの「津軽」、そして常磐線回りの「十和田」。いずれも長旅には疲れました、けれどもドキドキ、なにしろワクワク。

 いまも、これらの夜行列車と同じようなかたちで運行されている「終電」近辺の電車はありますが。世の中のありようも車内のふんいきも、まるで違います。
 それをコトバにすれば、「非日常の旅」であり「とくべつな夜」だった、ことになります。

 夜を忘れる…ふだんの「終電」は早めにきりあげて、とくべつな夜を愉しむ「夜行列車」(それも超高級版にかぎらない)に旅情〝復活〟をもとめる。
 そんなのも、ちょっといい感じ…に思いませんか。