どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※あの頃、ステキな〈映画〉の時代があった➀ /  内田吐夢監督の『飢餓海峡』

-No.2719
★2021年03月02日(火曜日)
★11.3.11フクシマから →3645日
★延期…オリンピック東京まで → 144
★旧暦1月19日(月齢18.3)
※次回は、3月5日(火)の予定です※






◆「ひきだし」いっぱい!

 新宿の、映画人が集うバーでした。
 初対面のその人の容姿や服装、顔つきなどはもう、まるで記憶にありませんが。
 彼がそのとき、かけだしの新人助監督にぽつりとひと言、かけてくれた声と言葉はいまも、ぼくの記憶につよく焼きついています。
「ひきだしは、たくさん持ってた方がいいよ」
 笑顔の主は、昨20年、没後50年になった映画監督、内田吐夢さん。

 父親世代にあたる方の名にしては、洒落すぎてました。
 「吐夢」は、もちろん本名じゃありません。彼が銀幕世界にとびこんですぐの頃には、監督助手と役者の掛け持ちで。ハマ(横浜)の不良少年だった頃のあだ名を芸名にしたもの。
 蛇足ですが、内田さんは岡山の和菓子屋さんの倅。たしか映画界入りしたときには、家業を継いだ兄から勘当されていたはずです。そんな、まだ「映画は不良な娯楽」の時代でした。

 『飢餓海峡』の原作は1963年、水上勉さんの推理サスペンス小説。
 ぼくは、水上小説世界には冷淡でした。作家への評価とアベックのように、北陸(裏日本)の風土の暗さを過度にいわれる、そのことへの反発もありました。ぼくは表日本と呼ばれた江戸っ子・東京の人間ですが、どういうものか北陸もふくむ日本海文化がスキでしたから。

 『飢餓海峡』を映画化したのは、意外にも〈時代劇〉で知られた東映です。
 当時、東映東京撮影所にあって現代アクション路線を成功させた岡田茂が、前回1964年の東京オリンピック開催に向け、目玉商品として企画。
 監督に切望されたのが内田吐夢

 吐夢さんは、『大菩薩峠』や中村(後の萬屋錦之助主演の『宮本武蔵』シリーズでボクたちを夢中にさせたいっぽうで、アイヌ問題がテーマの『森と湖のまつり』みたいな、社会派の一面も持つ人でした。

 「この写真」(当時の関係者は映画作品をこんなふうに呼んでいました)で吐夢さんは、「W106方式」(16ミリで撮影したモノクロ・フィルムを35ミリにブロー・アップ)と呼ばれる手法を開発。これまで日本映画の主流だったウェットでキレイな画質とは一線を画す、ザラッとした、乾いて硬質な画調を追求して、観る者にリアリスティックな印象を与えることに成功しています。

 いっぽう、その凝った「写真」づくりのために撮影期間も費用も嵩むことになって、封切の予定が延びたり、興行成績も「これが東宝の製作だったらパッとウレたかも知れないが…」と惜しまれたりもしました。
 その原因は、183分(完全版)という上映時間にもあって。映画は2本立て上映があたりまえだった当時、長尺作品はキラわれもの。それで167分の短縮カット版がつくられ、地方館などでは短縮版の上映になったわけです。
 (ぼくは長尺の完全版を観ることができてラッキーでした。ほかの地方とは隔絶されてまるで別世界の、このズバ抜けた優位性が東京のすべて、でした)

 ともあれ、おおいに話題を呼んだ『飢餓海峡』。
 前半のドラマチックな舞台は北海道、津軽海峡沿い。台風にともなう烈風が原因の二つの事件、青函連絡船の転覆沈没と質屋一家強盗殺人・放火(洞爺丸事故と岩内大火に取材)という、戦後すぐの社会を騒然とさせた未曽有の出来事から。

 多くの死者をだした連絡船、収容された遺体のなかに身元不明の(連絡船の乗船名簿にはない)2遺体があることをつきとめた函館署の弓坂刑事(伴淳三郎)が、その2遺体は強殺事件の犯人2人、のこる1人(三國連太郎)が強奪した大金をひとり占めにして逃走した、と推理〔にら〕んで。
 捜査が進むと、対岸、下北半島青森県)の名勝・仏ヶ浦の岩場で、木造の小型船を焼いたと思われる跡が発見され。犯人は海峡を渡って逃げたもの…とされ追求が始まりました。

 この手漕ぎの小舟による海峡越え、という設定には後に、元連絡船乗員から「流れの速さからして不可能」との指摘があったことも、話題になりましたっけ。
 ぼくの感想をいわせてもらえば、実際はそうであろうけれども…ここは苦境に喘ぐ人間一匹、ギリギリ生きのこる魂魄の力がなせる業…生き態〔ざま〕としていいのではないか…

 ぼくの「ひきだし」が、またひとつ、ふえました。
 さらに、別の「ひきだし」が、もうひとつ。

 「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ処なりけり」(大町桂月)と詠まれ、古くから霊界の入口とされてきた仏ヶ浦は、緑色凝灰岩を主とした海蝕崖の岩石地形。
 「北の大地」北海道に憧憬を抱いたぼくも、幾度となくこの沖合を通り津軽海峡を越えて渡道してきたし、険しい陸路を辿って訪ねたこともあるのだ、けれど。
 しかし、そこが仏か鬼か、いずれの所行にもせよ霊界との硲〔はざま〕であるなら、それらしい異観を見せてくれてもよさそうなものを。現実場面、北辺の果て「仏ヶ浦」に、その真相が観られることは稀有でしかなかった。
  
 物語、前半区切りは、下北の港。
 大湊(現むつ市)の娼婦、杉戸八重(左幸子)へと捜査の手を進めた弓坂刑事が、大男(犬飼多吉=三國連太郎)の犯人像にようやく辿りつくところまで。
 しかし、犬飼から思いもかけない大金を受けとった八重は、その金で苦界からの清算を決意。恩人である犬飼のことを弓先刑事には明かしませんでした。
 ……………

 物語の後半は、戦後の縮図、闇市の東京。
 ここでも厳しい現実に直面して、やっぱり娼婦世界に舞い戻らざるをえなかった八重が、ある日。新聞記事に恩人の顔写真を見つけ、「ひとことお礼を…」と出かけて行った先。舞台は、大陸からの引揚船の着く港、舞鶴に移ります。

 犬飼は、いまは樽見京一郎と名を変えて、刑余者の更生事業に寄付する事業家。風貌も変わっていましたが、八重につよく刻みのこされた印象は欺けません。
 結局はそれがアダとなって、八重は犬飼の手で殺され、情死を装って海岸に捨てられます。

 戦後すぐの世相に織り交ぜて描かれる裸の人間模様。この辺、吐夢さんの出演者を起用する眼も冴えていました。
 ヒロイン八重役には、はじめ企画者岡田から佐久間良子が推されていましたが、吐夢さんは左幸子に変更。さらには主演男優も、岡田の意向を押し切り「これを演れる役者は他にいない」と三國連太郎にキメてますし、伴淳三郎の田舎刑事もはまり役。
 もう一人、ぼくが好きな高倉健を東舞鶴署の若手刑事役に抜擢したのも吐夢さん。この「写真」での健さんには、まだ、「若い」印象でしかありませんでしたが。

 その健さん(味村刑事)の捜査から、糸がほぐれて函館署の弓坂老刑事へとつながって、ついに大事件も解決を見ます。
 大団円は、現場検証に赴く青函連絡船のデッキから〝飢餓〟海峡の流れへ、戦中・戦後の混乱期を生き抜こうと藻掻いた者たちへのレクイエムか、樽見(犬飼)が無言で身を躍らせます……

 およそ半世紀の時を経て、フィルムは古くなりましたが、どっこい「写真」は骨太な存在感そのままに生きていました。こんど、あらためて観ても、まるで色褪せてはいませんでした。
 吐夢さんが、ぼくにのこしてくれた「ひきだし」です。
 
 『飢餓海峡』は、1965年の第20回毎日映画コンクールで、監督賞:内田吐夢脚本賞鈴木尚之/男優主演賞:三國連太郎/女優主演賞:左幸子/男優助演賞:伴淳三郎、の5部門受賞。

 その後は3度テレビ・ドラマ化もされていますが、ぼくは観ていない…か、あるいは観ても覚えてはいません。ぼくの『飢餓海峡』は、内田吐夢監督の「写真」だけ。

 内田吐夢さん、1970年没(行年72)。
 ぼくが吐夢さんにお逢いしたのは、死の前年かあるいは前々年あたり…だったことになります。

 この世に現出した〈浄土〉の世界。
 そんな仏ヶ浦の景に出逢えたのも、ぼくは20年も前の盛夏ただ一度きり。
 それは…涼風の渡りはじめた午後、大間港発・函館行きのフェリーになんとか間にあうぎりぎりまで、待ちに待っての、いっときでした。
 岩肌に斜陽の射す角度もよく、静謐な夕凪の海を前に、仏さんの群像が合掌して、ひたすらなにごとか念じておりました……