どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

◎「新コロ〝濃霧〟」の道を照らすフォグランプ/  点灯中!しばらくは〈模索の旅〉がつづきます   ㉓「ソーシャル・ディスタンス」

-No.2451-
★2020年06月07日日曜日
★11.3.11フクシマから → 3377日
★延期…オリンピック東京まで → 412日
★旧暦4月16日、十六夜の月
(月齢15.4、月出20:33、月没05:25)


【ボク自身への超個人的朗報】〝新コロ〟禍のストレス&運動不足で増量してきた体重に、ようやく自制のブレーキがはたらきはじめ、今朝の計量で3月ぶりに74kg台から73kg台に戻りました。世の中とは別に、個人的にはハッキリ〝快復〟傾向。次、72~71kg台に復帰できれば、そろそろ、ウイルス感染を怖れず活動を再開できそうデス!






★〈愛惜〉と〈警告あるいは虐め〉との落差=距離に悩む★

 ソーシャル・ディスタンシング(social distancing=社会的距離)なる表現と、なによりもその実現が、日本だけでなく地球上のあらゆる社会に定着した。
 それは、おおよそ2m(1フィート)の間隔を空けよう…ということ。

 イギリスなら「1ビートルズ(4人分)離れよう」だし、昔流の日本なら「たたみ一畳離れよう」、今流なら「本マグロ1本分離れよう」、「自転車1台分離れよう」なんかもワカリやすいかも知れない。

 いっぽうで、このコトバがそろそろ一人歩きはじめる頃に、WHO(世界保健機関)が呼びかけた「フィジカル・ディスタンシング(physical distancing=物理的あるいは身体的距離)」という表現への言い換え(ソーシャル・ディスタンスには社会学の別概念があったからだが…)は、ついに成功しなかった。

 コトバのもつ意味合いよりも、馴染みやすさが勝った典型である。
 ヒト社会では、これが決定的なことになりやすい。つまり、ウマくつかめば風を呼び波に乗れるし、つかみそこねれば大敗を喫する。

 ぼくは、吾が子どもの頃の、とある情景に想いがとぶ。
 わんぱくガキどもが、てんで勝手に遊びまくる…なかに、いっつもオレにくっついて離れない〈みそっかす〉がいる。
 ジャマだから「離れてろ」と怒鳴れば泣きべそかくし、「ついて来い、離れるな」とでも言ってやろうものなら仔犬みたいにジャレついて来る…甘ったれ。

 ふだんなら「かわいい」ですむが、新コロ時世じゃ「あぶなっかしい」存在に落ちこぼれる。みずから感染しやすく、他人にもウツシやすい、困りもの。

  ……………

 三密(密閉・密集・密接)がイケナイ、風通しをよくしろ。

  ……………

 いっぽう「新しい生き方」における仕事の場面では、IT(情報技術)活用の「テレワーク」化がもとめられる。
 出社がなくなるのはイイようだけれど、時間の管理や使い方までの自己責任は重荷であり。それより心の負担は、
 ヒトリでいるようでも、いつもダレかに見張られている。
 自由なようで、自由じゃない。
 リードに繋がれていない飼い犬、みたいなものかも知れない……

 このブログで、『「パーソナル・スペース」と「つながらない権利』について記事を書いたのは、昨19年12月5日-No.2266-。
blog.hatena.ne.jp

 テーマは「ヒトの心と距離」だった。

 「パーソナル・スペース」で言われる「排他域=50cm以下」は、つまり、ごく親しい間柄のみにゆるされる距離であり。
 「会話域=50cm~1.5m」は、日常的なお付き合いの距離。
 「近接域=1.5m~3m」は、それよりもさらに離れるが、
 「相互認識域=3m~20m」ほど遠くもない。

 したがって、「ソーシャル・ディスタンシング」の約2mは、「排他域」と「会話域」の間くらい、じつに微妙な距離感になる。

 古くは「考える葦」に譬えられたヒトは、「距離に悩む生きもの」でもある。
 「離れてはすごせない」いっぽうで、「近づきすぎてもわずらわしい」
 しかも、それはヒトとヒトとの間柄にかぎらない
 ヒトと自然ヒトとウイルスとの間柄でも、距離感がだいじ。
 これからはいよいよ、そんな大変革の、悩ましくも新らしい時がはじまる……