◎「新コロ〝濃霧〟」の道を照らすフォグランプ/ 点灯中!しばらくは〈模索の旅〉がつづきます ㉓「ソーシャル・ディスタンス」
-No.2451-
★2020年06月07日(日曜日)
★11.3.11フクシマから → 3377日
★延期…オリンピック東京まで → 412日
★旧暦4月16日、十六夜の月
(月齢15.4、月出20:33、月没05:25)
※【ボク自身への超個人的朗報】〝新コロ〟禍のストレス&運動不足で増量してきた体重に、ようやく自制のブレーキがはたらきはじめ、今朝の計量で3月ぶりに74kg台から73kg台に戻りました。世の中とは別に、個人的にはハッキリ〝快復〟傾向。次、72~71kg台に復帰できれば、そろそろ、ウイルス感染を怖れず活動を再開できそうデス!
ソーシャル・ディスタンシング(social distancing=社会的距離)なる表現と、なによりもその実現が、日本だけでなく地球上のあらゆる社会に定着した。
それは、おおよそ2m(1フィート)の間隔を空けよう…ということ。
イギリスなら「1ビートルズ(4人分)離れよう」だし、昔流の日本なら「たたみ一畳離れよう」、今流なら「本マグロ1本分離れよう」、「自転車1台分離れよう」なんかもワカリやすいかも知れない。
いっぽうで、このコトバがそろそろ一人歩きはじめる頃に、WHO(世界保健機関)が呼びかけた「フィジカル・ディスタンシング(physical distancing=物理的あるいは身体的距離)」という表現への言い換え(ソーシャル・ディスタンスには社会学の別概念があったからだが…)は、ついに成功しなかった。
コトバのもつ意味合いよりも、馴染みやすさが勝った典型である。
ヒト社会では、これが決定的なことになりやすい。つまり、ウマくつかめば風を呼び波に乗れるし、つかみそこねれば大敗を喫する。
ぼくは、吾が子どもの頃の、とある情景に想いがとぶ。
わんぱくガキどもが、てんで勝手に遊びまくる…なかに、いっつもオレにくっついて離れない〈みそっかす〉がいる。
ジャマだから「離れてろ」と怒鳴れば泣きべそかくし、「ついて来い、離れるな」とでも言ってやろうものなら仔犬みたいにジャレついて来る…甘ったれ。
ふだんなら「かわいい」ですむが、新コロ時世じゃ「あぶなっかしい」存在に落ちこぼれる。みずから感染しやすく、他人にもウツシやすい、困りもの。
……………
三密(密閉・密集・密接)がイケナイ、風通しをよくしろ。
……………
いっぽう「新しい生き方」における仕事の場面では、IT(情報技術)活用の「テレワーク」化がもとめられる。
出社がなくなるのはイイようだけれど、時間の管理や使い方までの自己責任は重荷であり。それより心の負担は、
ヒトリでいるようでも、いつもダレかに見張られている。
自由なようで、自由じゃない。
リードに繋がれていない飼い犬、みたいなものかも知れない……
このブログで、『「パーソナル・スペース」と「つながらない権利』について記事を書いたのは、昨19年12月5日-No.2266-。
blog.hatena.ne.jp
テーマは「ヒトの心と距離」だった。
「パーソナル・スペース」で言われる「排他域=50cm以下」は、つまり、ごく親しい間柄のみにゆるされる距離であり。
「会話域=50cm~1.5m」は、日常的なお付き合いの距離。
「近接域=1.5m~3m」は、それよりもさらに離れるが、
「相互認識域=3m~20m」ほど遠くもない。
したがって、「ソーシャル・ディスタンシング」の約2mは、「排他域」と「会話域」の間くらい、じつに微妙な距離感になる。
古くは「考える葦」に譬えられたヒトは、「距離に悩む生きもの」でもある。
「離れてはすごせない」いっぽうで、「近づきすぎてもわずらわしい」。
しかも、それはヒトとヒトとの間柄にかぎらない。
ヒトと自然、ヒトとウイルスとの間柄でも、距離感がだいじ。
これからはいよいよ、そんな大変革の、悩ましくも新らしい時がはじまる……