※ちょっとヒトコト…フタコト…ミコト ~No.102~ 現代はじめに耀いたスターたち ④ポール・ニューマン
-No.2418-
★2020年05月05日(火曜日、こどもの日)
★11.3.11フクシマから → 3344日
★延期…オリンピック東京まで → 445日
★旧暦4月13日、十三夜月
(月齢12.0、月出15:55、月入03:26)
※きょうは、二十四節気の「立夏(夏の始まり)」。たしかに…されど…ガマンの日々がつづきます。
★やんちゃで一本気な〝アメリカン〟★
大作映画『ジャイアンツ』制作終了後に亡くなった、〈伝説の青春スター〉ジェームズ・ディーン。
彼の次回作に予定されていた『傷だらけの栄光』(56年、ロバート・ワイズ監督、アカデミー撮影賞と美術賞を受賞)の主役を、代わってつとめることになったのがポール・ニューマン(1925~2008)でした。
ボクシングの元世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラシアーノの生涯を描いたこの作品で、ポールは拳ひとつで栄光をつかみとる青春像を好演、一躍脚光を浴びました。
ちなみに、後の大スター、スティーブ・マックイーンが端役で映画デビューした作品でもあります。
ジミー(J・ディーン)が、どこか少年っぽいふんいきを漂わせていたのにくらべて、ポールは初めから青春そのまんまの印象。「憎めない負けん気の利かん坊」キャラクターは、アメリカ人(とくに女性)がだ~い好きな男のタイプ。
第二次世界大戦では兵役(海軍)で沖縄戦にも参加した彼は、その後、紆余曲折の人生を経て、52年にアクターズ・スタジオに入学。同期に、ジェームズ・ディーンやマーロン・ブランド(次回登場)がいました。
しかし、ポールの俳優スタートは波乱万丈、J・ディ-ンが『エデンの東』で、M・ブランドが『波止場』でトップスターの座へと駆け上がったのに対して、彼は「第2のM・ブランド」と呼ばれる始末。
実際、彼ポールとM・ブランドには、似かよった印象を与える一面がありましたが…これはポールのために言っておきましょう、彼ほどの爽やかさはM・ブランドにはなかった…と。
そうして、若いときの屈折もまた、アメリカ女性たちに愛されるキャラクターの要素で、ポールはそれをふんだんにもっていました。
★『ハスラー』で最高の耀き★
高感度のたかいポールは、数々の〈賞〉にも恵まれた俳優で、『熱いトタン屋根の猫』(58年、リチャード・ブルックス監督、エリザベス・テイラー共演、作品賞・主演賞など6部門でアカデミー候補作)が、そのはじまり。
けれども、ぼくが圧倒的な存在感をもって彼の代表作と認めるのは『ハスラー』(61年、ロバート・ロッセン監督)。この作品も、アカデミー賞において作品賞や監督賞を含む8部門にノミネートされましたが、受賞したのは撮影賞と美術賞だけ(イギリス・アカデミー賞では男優賞)。
けれども、そんな〝受賞〟とはまた別の、主役ポールのインパクトが半端じゃなかった。
主人公のエディーは若手のビリヤード・ハスラー。
〝ハスラー〟は、「相手を巧みに騙して金を巻き上げる勝負師=ギャンブラー」のこと。ですが、この映画の影響で「プロのビリヤード・ギャンブラー」と誤解している人がいまでも多い。
ほかでもないボクなんかも、そのくちで、学生時代にはキャンパス(四谷)近くのビリヤード場で、講義休みには仲間とオダをあげていましたっけネ…。
映画は、そんなビリヤード・ハスラーの姿をとおして、若い男の、おもむくままの暴力と性を追っていく。まるでポール・ニューマンのためにできた映画、のようなものでした。
主人公エディーが傷つきながら真剣勝負を挑んで、ついには完膚なきまでにその牙城を崩す。鋼の柱のごとき相手の、伝説的なビリヤード・プレイヤー「ミネソタ・ファッツ」を演じたジャッキー・グリーソンの存在感もまたよかった……
俳優としての彼は、その後、西部劇『ハッド』(63年、マーティン・リット監督)から3度(65・67年にも)、ゴールデン・グローブ賞の「世界で最も好かれた俳優」に選ばれ。
みずから監督をつとめ、妻ジョアン・ウッドワードを主演に起用した映画『レーチェル レーチェル』(69年)では、自身がゴールデン・グローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞、くわえて妻にも女優賞をもたらし。
さらに、ロバート・レッドフォードと共演の『明日に向かって撃て!』(69年、ジョージ・ロイ・ヒル監督)では生涯最高のヒットを記録。マネー・メーキング・スターの1位に選ばれる、などなど。
ほかにも、やはりレッドフォードとの競演が話題を呼んだコメディー映画『スティング』(73年、ジョージ・ロイ・ヒル監督)では、アカデミー作品賞。つづいてパニック映画『タワーリング・インフェルノ』(74年、ジョン・ギラーミン監督)でもアカデミー2部門受賞…などなど。
いつも、どこかで、なにかしらの受賞作にかかわりつづける。
いっぽうでは、他の分野への進出にも積極的で。
レーサーとしても44歳でプロ・デビュー、映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立、過激な反戦運動ならびに公民権運動を展開。
そして食品会社「ニューマンズ・オウン」の経営(その純利益すべてを恵まれない子らに寄付)など、50年代から半世紀にわたって第1線で活躍、つねに好奇心の塊〔かたまり〕、社会の関心を集めつづけましたが……
◆その栄誉のすべては『ハスラー』が根源!
83年には、ゴールデン・グローブ賞の生涯功労賞にあたる「セシル・B・デミル賞」を受賞。
85年には、長年の功績を称えられて「アカデミー名誉賞」。
おまけに、これでもか…と
翌86年には、ついに『ハスラー2』で初のアカデミー主演男優賞に輝いてみせました。
つまり、彼ポールの、なにもかもひっくるめてのすべては、あの61年の映画『ハスラー』に根源が求められるのです。
ポール・ニューマン。
一代のナイス・アメリカンな男は、07年に引退を宣言。
08年に、83歳で亡くなりました。
(バラク・オバマ大統領の時代は、その翌09年から始まるのですが…じつは、いまになって想えば、アメリカのイイ時代のオシマイが見えはじめたのもこの頃だった…感があります)