どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※日本は〈天皇制〉を断念すべき…と語る /   『感情天皇論』について考える

-No.2404-
★2020年04月21日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 3330日
★ オリンピックTOKYOまで →  延期開会まで459日
★旧暦3月22日
(月齢27.7、月出04:22、月没16:33)




◆日本は「天皇制を断念」すべきではないか…という問いかけ

 2016年7月。
 平成の天皇(現上皇)の生前退位(譲位)の意向」表明が、なぜか、その意思の堅さ(強さ)を弱める(薄める)かたちの「お気持ち」として、語られることになり。
 そのながれのままに、一連の皇位継承の儀式・行事が進行、象徴的な「万歳三唱」(これにヒジョウな違和感を覚えた国民は少なくなかったと思います)によって、ともあれ「令和」の新(?)時代がスタ-トしてしまうと。

 もはや、「万世一系」と唱される男系にかぎっての皇位継承や、女性天皇の是非・賛否を問う声も、すっかり絶えてしまった…感がある。

 ナゼ人(日本国民)は〈考えようとしない〉のか?
 〈思考停止におちいって恥じることがない〉のか?

 困惑と憮然たる心境の真っただ中にあったときに、一冊の本『感情天皇論』(大塚英志著、ちくま新書)に出逢って、(ふむ)と思った。

 著者の大塚さんは、1959年皇太子(現上皇)ご成婚のパレードのとき、一人の少年が皇太子と美智子さんが乗った馬車に石を投げた事件から説き起こして、〝象徴〟としての天皇にまつわるアレやコレやの事象を分析。
 
 ぼくには、全体をとおしていまひとつ、ワカリニクイところものこります、けれども、大意。

 戦争の犠牲者やその遺族、あるいは災害被災者たちに〈寄り添い〉つづけることを、もっともたいせつな〈象徴天皇の務め〉としてきた平成天皇・皇后の〈しごと〉の中核は、つまるところ感情労働だったのであり。
 それが〈すべてでいい〉と受けとり、そのさきの〈個人としての天皇の意向・意見とか人権とか〉については、これっぽっちも考えようともしなかった〈主権者たる国民〉と、そして、それをいいことに〈天皇の人気を利用しようとたくらむ勢力〉が存在する以上。
 〈日本の天皇制に将来はない〉〈日本に天皇制は必要ない〉と思われるので、〈日本は天皇制を断念〉した方がよい、いや〈断念すべきなのではないか〉とする。

 その理由を、つきつめれば。
 〈個の人としての天皇の意志や人権が尊重されることなく〉日本国憲法(第1章第1項)に「主権の存する日本国民の総意に基く」と規定される〈「象徴天皇」の公務は苛酷に重い負荷である〉ことにあり。
 しかし、そんな主権者たる国民の天皇感は「かわいい」(大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇中央公論1988年12月号)に集約されるほかないもので。

 こんな酷く不釣合いな価値観はないから、いっそ〈日本は天皇制を断念した方がよい〉との結論にいたり。
 以下のような提案がなされる。

「皇居を含む皇室財産や歴史遺産・文化遺産バチカン市国のように「国」として日本から切り離し、その新たな「国」の管理下に置く

 その国の「「国民」はいまの皇族の人々のみで、結婚によってのみ新たに加わることができる。職員はこの「国」に帰属してもいいし、「日本国」から出向してもいいだろう。徴税は国民が少なすぎて難しいから、存続が可能な基金を独立時に付与する。それを運用して予算化してもらう。」

「彼ら(皇族=筆者注)が一族の宗教的儀礼として何を行っていくのか、どういう伝統を選択するのか、それこそ近世における仏教徒としてのあり方を復興しようが「信教の自由」である。「国」であれば、外交権もあるから皇族外交で雅子妃のような女性が国際社会で生きることも可能になる。」
無論、その「国」からの離脱も自由である。

その上で、「この「国」が、文化財の保存以外に大学や研究機関を運営していくのもいい。近代の天皇たちが関心を示してきたエコロジカルな領域や医療や福祉領域の人材育成などを中心に、人文系や基礎科学の分野の研究機関に、これも「基金」として予算を「日本」が捻出し運営を委託することで、「学問の自由」を担保する。自衛隊の一部を純粋の災害派遣部隊に改組して日本から切り離し、「天皇の国」の管理下においてもいい。

一種の「学園国家」のようなイメージである。何なら、「領土」として彼ら一族がかつて生きてきた場所である京都市まるごとぐらいと(その場合の京都市民の国籍は議論するとして)、人間文化研究機構という人文系の研究機関の連合体があるのだが、セットでこれも付けてしまってもいい。」

「無論。その「長」としての天皇を誰がどう継ぐかは彼らの「国」の選択となる。別に国境をつくる必要はない。EU諸国と同じであって問題はない。」

 以上のように論を進めた上で、著者の大塚さんは、
「いいかげん天皇家の人々の人権を損ない、そして、それを担保に私たちが公共性を自らつくり得る個人となることへの怠惰を私たちは止めるべきである。天皇感情労働に慰撫され続ける「甘え」を断念すべきである。そうしないと永遠に私たちは近代を迎えられない。」

「感情天皇制」を終わらせる責任が私たちに有権者にはある。
「そして天皇のいない世界で私たちは次の社会の設計を始めなくてはならない。」
 と言う。

  …………

 いろいろ議論はあるだろう…と思うし、そうでなくてはならない、けれど。
 これは傾聴し、考えてみなけらばならないことだと、思う。

 その一方で、ぼくは
 「智」「情」「意」ゆたかな「感派」(感……派ではなしに)であろうと、こころにキメており。

 それは、これから否応なしに突き進むことになるであろう「AI」社会に、せめて「人間らしく生きのこる」ためには、AIシステムのおよばない「感性(この場合は〝感情〟も含む)」を堅守する必要があろう、と思うからで。

 そうして
 それは、「感情天皇制」を終わらせることと矛盾はしない…と思っている。
 なぜなら、「感性」は「感情」のように流されるものではない、からだ。