どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

※〈生前退位〉と次代天皇〈即位〉一連の儀式を終え/「高御座」と「御帳台」一般公開(東京国立博物館)

-No.2399
★2020年04月16日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3325日
★延期…オリンピック東京まで → 464日
★旧暦3月23日、二十三夜の月
(月齢22.7、月出01:44、月没11:50)













◆日本国民は「天皇」と「天皇制」にどう親しむべきか

 令和の天皇が即位を公に宣明し、これを内外の代表が寿〔ことほ〕ぐ儀式。
 「即位礼正殿の儀」が、皇居宮殿において行われたのは、昨年10月22日のこと。

 この「儀」と、それにつづく「大嘗祭」にあたって、主権者としての国民が考えるべき「天皇制」については、このブログ
ーNo.2239-2019年11月08日(金曜日)記事『「天皇」を真に「国民」のものに……あらためて「天皇制」を想う』
blog.hatena.ne.jp
 に書き。

 また、「大嘗祭」の舞台に仮設された「大嘗宮」については、一般公開に出かけてその雰囲気あじわい、もういちど「天皇制」についての、ぼくなりの想いをつづり。
 先日14日の記事『皇居本丸に〝令和の「大嘗宮」を見納める』に記した。

 けれども
 もう、ここらではっきり、申し述べておくことにしたい。

 日本の主権者である国民は、「天皇制」をどうすべきか、「天皇」という存在はどうあってほしいのか…を考えること自体「できない」、あるいは「考えたくない」心の状態にとじこもっていたい、とボクには見える。
 さらに言えば、主権者であること自体にも、あまり「深くは考えたくない」らしい。

 いずれ、なるようになって、「そこに不都合なければいい」くらいの〝受け身〟というか〝無責任〟な態度が、わるいけど、いちばん居心地がいい、と見える。

 平成の天皇(現在の上皇)が、あれだけの決意をもって「おきもち」という容〔かたち〕で表明された「生前退位」についても、ひたすら賛意と感謝の気もちを表すだけで、それ以上にはふみこまない、ある意味「つめたい」ほどの距離をおいたままだった。

 それは、天皇と皇后が国民に対して、ときには床に膝をついてまで寄り添うことに〝象徴〟の在り方をもとめた姿とは、あまりにも冷淡すぎるほどに違いすぎる、間遠な対応ぶりでしかなかった。

 ならば、「もういい」と匙をなげるつもりはない、けれども。
 これから先は、そういう〝国民性〟であることをふまえての、議論を進めるべきなのではないだろうか
。さもなければ、ただただ〝象徴〟という、もやもやとした〝雲の上〟にまつりあげられた天皇の将来をあやうくするものだと、ぼくは思うにいたったわけで……

 そこで
 昨年末から新年にかけて、特別公開(無料)された天皇の「高御座」と、皇后の「御帳台」。
 この観覧に訪れる人々(国民)の間に、ぼくも混じり入って、もういちど、この国の「天皇制をつつむ空気」を吸っておこうか…と考えた。

 新年4日。上野の東京国立博物館、本館特別室には、予想されたとおりで…しかも思ったよりも多い人々、〝善男善女〟の列がおとなしく、長く折れ曲がってつづいて。
 (……………)
 ぼくは、思わず、佳く晴れた新春の青空を仰いで、長嘆息した。

 なぜなら
 それは、幼い日、父母に手を引かれて皇居前広場の列に並んだ、年頭「一般参賀」となんら変わらない風景であったからだ。

 違いはただ、服装の垢ぬけたこと、群衆から匂いたつ晴れ着の樟脳の香が、いまはないだけ。
 あれから半世紀余を経ていても、ほかに、明らかな違いはほとんど感じとれなかった。

 〝洗脳〟というイヤな表現があるけれども。
 想うに人には、洗脳される前に、時代の空気をするどく嗅ぎ分け、みずからの命を守るために処する資質がそなわっていて。
 その結果に、よほどこっぴどく裏切られないかぎり、だから人は、そんな事実さえすぐに忘れて、記憶にもとどめないのだろう。

  ……………

 展覧は粛々と、とどこおりないように、進められ。
  〇高御座=総高6m48、幅6m06、奥行5m45
   八角、漆塗りに金の装飾、頂上の露盤には大鳳〔たいほう〕1羽
  〇御帳台=総高5m67、幅5m30、奥行4m77
   同じく、やや小柄な造りの頂上、露盤には瑞鳥、鸞〔らん〕1羽

 人々は、もの珍しさに目をうばわれ、おさえた声と、くぐもる囁きばかり。
 別室に入って、あの「即位礼正殿の儀」の日の、「王朝絵巻」に譬えられる役どころをになった服装人形や威儀物の展示に、ホッと開放感をあじわったあと…ふたたび粛々と散って行く。

 会場には、大嘗宮一般公開のときのような、質問にこたえ解説する職員の姿もなく、〝象徴〟天皇を国民の身近に感じてもらおう意識も、どこかカタチばかりで、ただひたすらに転〔うた〕た淡々……

 ナニか、ナゼか、ドウシテか、ワザトらしく、ソラゾラしく。
 これもまた、なるほど、ひとつの〝博物〟展覧にほかならず。

 〝象徴〟天皇の身を、あらためて想い偲ぶよすがとてなかったことだけは、たしかな。

  ……………

 ぼくは、この稿にあわせて。
 これから将来にあるべき象徴天皇の姿を、もう少し、想い描いておきたかったのだ、けれども。
 
 ざんねんながら、とても、その気分にはなれず仕舞い。
 もういちど、ときをあらためるほか、なくなった。
 そういうわけで、つづきは次回に…。