どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

◎全線開通した「常磐線」沿線を訪ねて② /    現状の福島に〝復興〟五輪…それはナイ

-No.2380-
★2020年03月28日(土曜日)
★11.3.11フクシマから → 3306日
★ オリンピックTOKYO →  開催(再開?)まで中断中
★旧暦3月6日
(月齢3.7、月出07:41、月没21:27)









◆とりあえず線路だけは通しました!?

 (福島なら近い)感覚だったけれど、さすがに日帰りとなると、早朝発ちするしかなかった。
 朝6時のバス、横浜線の電車は、まぁ、空間に余裕があったけれど、京浜東北線北行に乗り換えたら途端に、ふだんどおりのラッシュアワー並み混雑に、ぼくはたまげてしまう。
 ぜ~んぜん、これじゃ自粛も時差出勤も、関係ないのと同じ。

 ぼくは、もともと喉に弱点をかかえている、うえに、長年のヘビースモークが祟ってか、10年以上も前に禁煙後も、うっかりするとナニかのきっかけで咳きこむクセが抜けなくて。
 このときも断続的に咳が出て(ヤバい)〝怖バッシング〟の状況に…あとで、かみさんも「コワかったわよ」とコボしていた。

 東京からの東北新幹線は、仙台行きのせいもあって、空席の目立ち方は〈外出自粛〉ムード。
 車中で駅弁の朝食をとる頃から、ようやく気分も落ち着いて。
 進行方向左側の席からは、窓外に雪帽子の富士山を見送る。

 仙台のホームに降り立つと、思ったよりもはるかに寒くて。
 震えるほど冷たい風のなか、常磐線特急「ひたち」14号(10:13発)に乗り換え。
 新型コロナウイルス騒ぎの渦中でも、復活「常磐線特急」ねらいの〈撮り鉄〉たちに、めげる気配はなかったけれども。乗客の方は、〈乗り鉄〉もふくめてガクンと少なく、ほとんどガラガラ。

 地元の〈全通歓迎〉ムードはとうぜんだろう、けれど、。
 〝復興〟も〝帰還〟も呼びかけばかりの現状は、「とりあえず電車だけでも走らせましょう」の感…ザンネンながら否めない。



◆低平な裸の耕地に、いちごハウスばかりが目立つ

 常磐線沿線の、とくに海(太平洋)側には「ぺったらこい(平らな)」田園がつづく。
 大地震による津波被害があるまでは、〈山がち〉な国土にあっては羨まれるほどの環境だったところだ。
 そんな田園が、荒れたままなのは切ない。

 はやい田んぼでは、すでに水が張られ、耕運機が土を起こしていたけれど、除染後の〈試験栽培〉でもあろうか。
 のこされた、ほとんど枯れたままの田畑のなかに、いちごハウスが陽に輝いていたのは、亘理町

 いちごハウスが、従来のものより大型に、頑丈な造りになったのは、東日本大震災後に顕著になった特徴と言っていい。
 これにともなってイチゴの苗床も、作業しやすい〈高設〉式になった……

 そんな風景が、新地町までつづいて、宮城県から福島県に入る。
 《11.3.11》後の巡訪で、訪れた土地や駅が多くなって。懐かしさと、そして、(変わらない)復興の遅さにタメ息がでる。






 

◆9年を経て…はじめて辿り着いた双葉駅

 南相馬市の「原ノ町」駅をすぎて、いよいよフクシマ原発に近づく。
 見覚えのある「浪江」駅(浪江町)には、土地の方に案内されて訪ねたのが一度、それから、18年になってもう一度、こんどは自力で訪れることができた、が。
 いずれのときも、駅前に人気は絶えてなかった……

 次の「大野」駅(大熊町)、つづいて「双葉」駅(双葉町)が、福島第一原発立地の町。
 乗り継ぎ、日帰りの旅程では、どちらか1駅にしか立ち寄ることができないので。
 選ばせてもらったのは「双葉」駅。
 大熊町は、新しい役場ができる内陸側の、大河原地区を訪れることができており。
 心のこりだったのは、双葉町の方だった、からである。






 



 新しいホームに降り、階段を上がって新しい橋上の改札…といっても、そこには駅員1人いるわけでもなく、集札箱の脇を抜けて、新しい駅前に立った。
 迎えてくれる者もない…のは承知のうえだ、けれど。人がいないわけではなく、ただ、それらの人はいずれも役場関係および鉄道関係から派遣の、いずれも仕事人たちであって…こちらには挨拶ひとつくれるわけでもなく、黙々と往き来している。

 駅前の商店が開いているわけでもなく、わずかに車寄せの一画と道路をを除けば、すべてが「立入禁止」区域であった。
 建物は、駅舎に隣接してもう1つ、役場出張機能を果たす「コミュニティーセンター」があって、そこにわずかな人影が見えただけ。

 このたび3月14日に、常磐線全線開通に伴う開駅にあたっては、集中的な除染作業ほか、関係者の多大なご苦労があったことだろう。
 それはワカルが…しかし…(なんとか間に合わせた)感に、せめていまひとつ、寄り添わせたかったろう「お帰りなさい」のひと声、掛けることはついに叶わなかった。
 駅前広場にデンと、不意打ちのごとく据え置かれた緊急用の給水タンクが、その証明。わずかに青く塗られたボディーに「ふたば ふたたび」の文字が寂しげだった。

 コミュニティーセンターから、震災・大津波原発爆発事故、被災後の各地に見られた「防犯パトロール」姿の町民の方が2名、休憩をおえて出てこられ。
「お疲れさま。ようやく、ここまで来ましたね」と労〔ねぎら〕うと、「まだまだ…だけど…」疲れた声が返って来た。
 似たような境遇の隣り町、浪江にくらべても〈遅すぎる春〉だった……







 駅近くに見えた跨線橋へと上がって見た。
 開通の日の新聞紙面には、南東方向に福島第一原発を望み見る航空写真が載っていたけれど、跨線橋からは見えなかった。
 反対方向を振り返ると、「双葉」駅を中に無人の町並みが閑かに広がっており、以前と変わっているところ…といえば、屋根々々を覆っていたブルーシートが無くなっていることくらい。

 破損した家屋は、とり壊されたのであろう。そこは〝歯の抜けた〟町。
 壁の崩れ落ちた倉庫が腹中を晒していたり、歯科医院の玄関扉に板が打ち付けられていたり……

 人気のない駅待合室の窓際には、町の「東日本大震災記録誌」が置かれ、反対側の窓際には「復興祈願」の「双葉ダルマ」が人待ち顔で線路を見ていたし。
 「全線運転再開」の横断幕も、「団地の復興再生拠点」の大看板も、ひっそり風に吹かれており。



 もういちど駅前から国道6号に通じる道を眺める。
 無人の家並の向こう、請戸〔うけど〕港地区には、「復興祈念公園」ができているはずだった、けれど。
 とにかく、なにしろ、双葉町には、9年後のいまだに「住む人」がない……