※「江の島」慕情…そして…哀歌
-No.2343-
★2020年02月20日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 3269日
★ オリンピックTOKYOまで → 155日
★旧暦1月27日
(月齢26.2、月出04:14、月没14:08)
★〝桜〟開花まで積算600度追跡=19日まで243℃
◆「江の島」…といえば海水浴
むかしは「東洋のマイアミビーチ」などと呼ばれて、夏休み中はビーチ・パラソルの花が咲き競って浜を埋め、それこそ芋を洗うような人混みの熱気と騒ぎで、救護所からは迷子を知らせるアナウンスが、ひっきりなしに流れていた。
藤沢に母の生家があって、毎夏のように訪れ。
最初は祖父に手を引かれ、のちには叔父さん夫妻に連れられて、竜宮城入口みたいにできた小田急「片瀬江ノ島」駅に降りるともう、人波むれる海水浴場への道は砂のオブラートに包まれていた。
海から上がって砂浜に甲羅を干していると、ラジオからは夏の甲子園からの実況放送がながれ。
監視員のいる高い櫓、そこに赤旗がでれば「波が高い」か「電気クラゲが出た」かで「遊泳禁止」。
そうして「土用波」が頻繁になれば、そろそろ海水浴シーズンもお仕舞いが近い。
陸繋島の江の島「弁天橋」はもう、ぼくが渡る頃にはコンクリートの橋脚になっており。
「江の島植物園」も「平和塔」もできていた。
お爺ちゃんに漁師の知り合いがあって、江の島の磯で小舟から投網を投げさせてもらったのはヨカッタけれど、網が足に絡まり海に転落しかけて死ぬほど怖かった想い出も忘れられない。
そのときから後、江の島は海水浴シーズン以外の季節に遊ぶ地となり。
長じてからは、弁天橋ぎわに出る屋台に腰かけ、サザエの壺焼きで酒を呑んだこともあったが、いまはその屋台も姿を消したか…したのであろう。
その弁天橋からは遠く、乾いて澄んだ空気にクッキリ、雪を頂いた富士が錦絵のごとく。
この夏には、セーリング(ヨット)競技の会場になるわけだが、ヨットハーバー周辺はまだ静かな佇まいの中にあった。
……………
◆きょうは追善供養の流れであった
往〔い〕ぬる年の晦日も近くに、黄泉〔よみ〕へ、ひとあし先に旅だって逝った従弟、郷里に戻って四十九日を兼ねた法要(弟が兄を送った)のあとである。
この兄弟にとってこそ、江の島は揺籃〔ようらん〕の地であった。
日本に最初のカメラ・ブームがきた、戦後の高度成長期。競って吾が子の成長記録を撮った世代の、叔父さんが好んで撮影地にしたのが、ここ江の島であった(写真=下段中)。
……………
ここ江の島で、ぼくは従弟の冥福を祈り、ひさしぶりに一献かたむけたいと想ったのだ、けれど。
それに相応〔ふさわ〕しいと思われた屋台のない、いま、小料理屋の暖簾などくぐりたくても、外人も混じえた観光客の屯〔たむろ〕する中を、掻き分ける勇気のわく縁〔よすが〕もなく。
ついでにウィルスなんぞもらっちまった日には迷惑だから、しかたもなく、弁天橋を渡り返す。
気がつけば、すでに午後の陽かたむいて、冬の残照がせいいっぱい海を輝かせ。
ぼくの脳裡には、ひとつの唄がよみがえる。
それは年少の頃、母がたびたび口遊〔くちずさ〕むのを聞いて覚えた『七里ヶ浜の哀歌』、巷間には冒頭の歌詞から『真白き富士の嶺』で知られる曲だった。
〽真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに ………
もう、いまはむかし。
1910年(明治43)、逗子開成中学校の生徒12人を乗せたボートが転覆、全員が死亡した事故をうけ。その鎮魂歌として、鎌倉女学校生徒らによって唄われたのが初演という。
〽ボートは沈みぬ、千尋〔ちひろ〕の海原
風も浪も小さき腕〔かいな〕に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母 ………
哀歌である…が。
哀調も時ふれば澄明になるものだろうか、ふしぎと慕情を誘うように、ぼくのなかでは変わってきていた。
この唄を口遊みながら、ぼくが脳裡に追うのは鎌倉時代からこのかたの歴史だったりする、そんなせいかも知れなかったし…
また
ぼくの江の島の景には、夕陽がじつによく似合う。
夕日の景に漂うのも〝慕情〟と〝哀調〟であった、せいかも知れなかった。
※下の写真、左は稚児ケ淵、右は西浜の夕景