どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

映画『ギフテッド』…ヒューマン・フィルムを観て

-No.1543-
★2017年12月12日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2469日
★ オリンピックTOKYOまで →  955日



 渋谷のTOHOシネマズ、劇場で映画『ギフテッド』(2017年アメリカ、マーク・ウェブ監督)を観た。
 タイトルに魅かれるものがあった。

◆つかえない頭、つかえる頭

 「ギフテッド」という言葉は、ずばぬけた(先天的に、平均よりも、顕著な)知的能力と、それをもつ人をさす。
 この「贈りもの」を語源とする概念には「天与の」響きがあり、「天才」と和訳されるおそれがあるので、あえて英語名のまま「ギフテッド」としている、という。
 つまり「資質」あるいは「特質」のこととしたほうがよい、ということなのだ。

 欧米では「タレンテッド」という言葉と併用されているそうで、しかし。
 教育ママ的な存在の人々から期待される「どうすればギフテッドにできるか」というものでもない。

 また、知能指数という評価法ともきっちり一線を画する。
 つまりIQ数値が示す学業成績の「頭のよさ」は、「才能」とは別ものであって。
 ギフテッドにあたえられた頭脳(智慧)は、われわれ誰もが認める「つかえる頭」のことと言ってもいいのだろう。

 じっさい、「ギフテッド」にもさまざまな知能があって基本的にはそれぞれに別個のものであり、ひとりがいくつかの知能をあわせもつこともあるが、いずれにしてもけっして「万能」ではない。
 ギフテッドは子どもの頃から発揮され、生涯保持されるが、その特別な知能の分野をのぞけば「ふつう」である。

 欧米では、ギフテッドの子に対する理解が進んでいるので、教育環境の配慮もなされてきている。
 つまり、「できる子」ではある、けれども「特別な存在ではない」とする、が。
 日本では「はじめから特別な存在」と見る傾向がつよく、ともするとそれが「ふつうではない子」「ちょっと変わった子(変な子)」の差別意識に通じやすい、という。

 これは、ぼくにもよくわかる。
 それはいまにはじまったことではなくて、ぼくたち子どものときからすでにあった、あきらかに一種の差別(化)意識。
 もしかすると、文明人たる現生のわれわれにとって、もっともヤッカイな、おそらく最後に乗り越えなければならない〝高い壁〟。
 (それにしても、しかし…なぜだろう…そこがワカラナイ、動物の一属であるヒトが少なくともいま現在、食物連鎖の頂点に君臨できているワケが、ほかの生物群から抜け出してゆくための、まぁ極言すれば徹底した〝差別化〟にあった、としても…)

◆映画が描いて見せたこと

 生まれて間もなく母を亡くした7歳のメアリーは、数学にずばぬけた才能をもつ女の子。
 事情があってこの子を育てることになった叔父さんのフランクは、姉(メアリーの母)の遺志もあって、彼女に「ふつうの暮らし」をさせるつもりでいた。
 しかし、メアリーは入学した学校でさっそく、ついつい、同じクラスの子とはケタ外れの能力を見せてしまう。

 びっくりした担任の教師は調べて、メアリーの母は著名な数学者であったことを知る。
 
 校長は、メアリーに〝ギフテッド教育〟で知られる学校への転校をすすめるが、「ふつうの子」に育てたいフランクは同意しない。
 メアリーも、じつは、そんなフランクが(うるさいこともあるけど)大好きだった。

 そんなある日、二人の前に「お婆ちゃん」があらわれる。
 お婆ちゃんもまた、かつては数学者、メアリーは3代にわたる数学の家系の子だった。

 メアリーにもまた数学の才能が伝わっていることを知ったお婆ちゃんは、歴史に名をのこす数学者になれた娘(メアリーの母)にかわって、孫のメアリーに偉業達成の夢をたくそうとする。
 いっぽう感受性ゆたかなメアリーは、このお婆ちゃんの登場によって、大好きな叔父さんフランクと引き離されることになるのではないか…という、つよい不安を抱きはじめる。
 それを知ったフランクは「俺たちはなにがあっても一緒だ」と約束するのだったが……

 映画は、ギフテッドをもって生まれた少女と、その家族の人間関係をとおして、「子どもにとってほんとうの幸せとはなにか」を問いかける。
 ヒューマン・フィルムの佳作、人物描写とドラマの構成にもうひとくふう欲しかったが、観おわって後味もよい(これはトテモたいせつなことだ)。

 「あの子(メアリー)、にくたらしかわいい子ネ」
 これ、かみさんの評言。
 「あんな娘もったら、たいへんだな」
 これは、ぼくの正直な感想。

 二人とも、ニッポン社会の人であることを、正直に認める気分は同じ。

 ……………

 なお、いまの社会的には発達障害自閉症スペクトラム)者ということになる作家、市川卓司さんは、自らは自らを「選択的発達者」と呼ぶ。
 ほかの大多数の人は「平均的発達者」。

 ほんとは、どちらがどう、なのか?
 つまるところそれは、マジョリティー(多数派)とマイノリティー(少数派)の違いではないか。
 市川さんは指摘する。

 ニッポン人は、ことにも「平均的であること」にコダワリがつよい、らしい。
 なぜ個性的(選択的)ではイケナイのか、ナゼ<個性>や<選択>を差別したがるのか……
 それって、いちばんに醜い、ひとりよがりの〝嫉妬〟なんじゃないの。
 そのことも、もっと深く考えてみる必要がありそうだ。

 『ギフテッド』。
 客席には子どもたちの姿もあって…ヨカッタ。