どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『大草原の小さな家』シリーズすべてを通観して想ったこと

-No.1522-
★2017年11月21日(火曜日)
★11.3.11フクシマから → 2448日
★ オリンピックTOKYOまで →  976日



◆9シーズン計204回の大ロングラン

 CATV552チャンネル「FOXクラシック名作ドラマ」、『大草原の小さな家』シリーズ。
 週1話の放送で、年間52週として、ほぼ4年。
 それを週に5日のペースで観つづけも、ほぼ丸々1年。

 それだけの時間をかけて、ようやく今年10月に、ぼくたち夫婦はこのアメリカのテレビドラマを通観しおえた。
 その直後から、また、「FOXクラシック名作ドラマ」では繰り返し再放映されているし、もちろんDVDビデオソフトも販売されているから、その人気、推して知るべし。

 地方の、自然の野趣ゆたかな大地には、このドラマのタイトルそのままの名を頂戴した店を、よく見かける。
 <フロンティア魂>の香気を漂わせるからであろう。

 しかし、テレビドラマとしては、かなり古い。
 原作はローラ・インガルス・ワイルダー(1867~1957)の『大草原の小さな家』(初めの書名は『大きな森の小さな家』)。ぼくは、その原作本を読んでいる。

 NBC制作のテレビドラマは、1974年から1982年までの全9シーズン42話に、その後の2時間スペシャル3本を加えると1984年までの放送。
 日本での放送はNHKで、アメリカに1年遅れの1975年から。ぼくは、このときも全部ではないが観ている。
 (この頃はまだ、家庭のテレビ受像器にビデオ録画の装置が一般的ではなかった)

 ちなみに、テレビドラマと原作とでは、いささか趣きがことなる…が、それはごくあたりまえのことで。
 「どちらも好き」な人が、アメリカにも日本にも多いのも、これまたとうぜんのことだろう。

 ご存知の方も少なくないだろうから、たいせつな時代背景と舞台、物語の大意にだけふれておくと。
 舞台はアメリカの西部開拓時代、年代にすると1870年代から80年代。
 (アメリカの南北戦争が1861~1865、65年には16代大統領リンカーンが暗殺されている)
 インガルス一家はいくつかの州を移り住んだが、テレビドラマの主舞台になったのはミネソタ州のウォルナットグローブという町。
 ここでシーズン8まで、貧しいが愛情と勇気とで健気に生きる家族を軸とする人間模様が描かれた。

 ぼくたち(そうしてきっと他の多くの人たちも)が、なぜ、このドラマに魅かれ、40余年を経たいまでも通して観たくなるほどなのか。
 それはとどのつまり、たとえどうあろうとしても人間は自然によって生かされている者であり、そのかぎりではほかの生きものとも同じ、したがって、できうるかぎりはたがいに寄り添って生きていかなければならない、ということに尽きる。
 
 アメリカの『大草原の小さな家』は、日本でいえば『北の国から』にあたる、といっていい。
 ぼくは、このドラマにも並々ならぬ愛着がある、といえばオワカリいただけるにちがいない。

 この物語は、インガルス家の次女ローラの小女時代から青春そして結婚までのお話し。
 (最後のシーズン9では結婚後のローラに焦点がしぼられるが、両親とは離れ離れ、彼女の愛すべきキャラクターもざんねんながら失われて〝別もの〟感をぬぐえないが)

 ともあれ……
 男の子っぽくて、いたずらで、正義感のつよいローラのキャラクターが、ふと<妖精>を、ときに<天使>を偲ばせる。
 そういえば、大草原の小さな家を守る父チャールズはあらゆる生活場面に<万能>、ゼウスにケンタウロスの力が加味されたような男として描かれているし。
 美しく賢い母キャロラインは、<マリア>か<アフロディテ>を想わせる女性像である。

 つまり、『大草原の小さな家』はそこ自体が、キリスト教世界の小宇宙。
 ドラマのなかで信教についての詳しい紹介はないし、ぼくにもその方面の知識はもちあわせがない、けれども。
 気分はまちがいのない<清教徒>の一家であり、「いつも神とともにあり、また自然とともに生きる」彼らの正直な暮らしぶりが、ときに誤りも犯すがけっしてごまかしはしない生きざまが、素直に共感を呼ぶ。

 そうして、一面きわめてアメリカ的な—傲慢と寛容の後者の方—人の生き方が、われわれ仏教的というか多分に原始多神教的な自然感ともふしぎに調和する。

 このドラマをあらためて観て、「人には土台、正直に生きたい根っこがある」ことを思い知る。

 ドラマとしてのつくりは、きわめつきのオーソドックス。
 ひとつのそれ自体が魅力ある舞台に、さまざまな人々が集散して織りなされる人間模様…これは、ふるくからあるドラマツルギーの「グランドホテル形式」といっていい。

 また一方では、このドラマ。
 徹底した<勧善懲悪>路線をつきすすむ(このあたりのストレートさもアメリカ的)あたり、日本の『水戸黄門』シリーズとも不思議に相通ずるものあり。
 それはテッテイテキな<典型>化。

 脇役というより準主役級の扱いで描かれる、町にただひとつの「オルソン」商店の、なかでも奥さんハリエットを、これでもかとばかりに扱き下ろして描く。
 ときには観る者の目に(そこまでやるか)とさえ思わせる。
 それをまたローラが、(これでもか)というほど小気味よく(ときにはやりすぎ)やっつける。

 その馬鹿々々しさが、しかし、なんとも痛快であり。
 人間、真底はすこぶる単純、複雑な頭脳のはたらきまで麻痺する、ことを思い知る。

 そうして、やがて<アメリカのいま>に想いおよぶ。
 まっこと進歩か…どうか…は別として、時の移ろいにともなう変遷はとめようがない、だろう。

 しかし、これだけは言える気がする。
 そのために、現在のアメリカがうしなってしまったもの、も大きい。
 そうして、それはいうまでもなく、日本についても同じことが言える。