どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

西部邁『ファシスタたらんとした者』を読む

-No.1506-
★2017年11月05日日曜日
★11.3.11フクシマから → 2432日
★ オリンピックTOKYOまで →  992日

*きょうは「津波の日」と、まだ知らない人が多いのではないか。こういう大切こそ、国が国民意識の変容を主導しなければならないのに……*

◆なんでその気(この人の本を読むこと)になったか

 それは……
 「人はなぜ生きるか」と同じで、とてものことに答えが多すぎて、なんとも言いがたい。

 前にも、この人の著書を懸命に読みすすめ、読み解こうとして、ついに読みきれなかった(途中であきらめた)ことがある。
 なんで、こうも伝わりづらく分かりにくく表現しなければならないのか、著者はまるで難解なパズルを仕掛けて愉しんでいるかに思える。
 (どうだ解けるか)と自らの優秀を誇示されては、いよいよ気もちが後ずさる。

 それは、こんど、ひさかたぶりにこの人の著書を読んでも、変わらなかったわけだ、けれども……

 さきに、この人、西部邁さんについて。
 ぼくにはどういう存在であったか、を辿っておく。

 西部邁(にしべ すすむ)
 1939(昭和14)年生まれの齢78歳。(ぼくより6つ年長)
 怒れる伝統の保守派評論家、実存と実践の思想家。
 東京大学でブント(共産主義者同盟)に参加、教養学部の自治会委員長。60年安保闘争では全学連の中央執行委員。
 (ぼくが彼を知るようになるのはこの頃から。大学進学と同時に70年安保闘争に巻きこまれるが、むしろ、みずから進んで国とはなにか政治とはなにかを問い考えるために参加。属する新聞学科のセクト社青同開放派だったが、自身はノンセクトラジカルの立場。全共闘流のアジ演説は不毛と感じて自らの言葉で語ることを心がけたが、そんな全共闘は西部氏には〝くだらん〟ものだったらしい。実際まぁ、そんなもんだったろう、が)

 この人は、61年には左翼過激派と訣別。大学・大学院は経済学専攻。72年連合赤軍による集団リンチ殺人・浅間山荘事件。80年代から真正保守論者として大衆社会批判、アメリカニズム批判などを展開。
 88年東大教授を辞職後は、テレ朝の討論番組『朝まで生テレビ』、月間言論誌『発言者』(のちに『表現者』)などで活発な批評活動をつづけてきた。

 著者みずから「これが最後のものになる」とする、このたびの『ファシスタたらんとした者』(17年6月、中央公論新社刊)を読む気になったのは、いうまでもなく氏に対するレクイエムでもなんでもない。
 ただ、この人は嗤うかも知れないが、ぼくには惜別の気分がなくはない。
 きっとそれは、前から薄々、感じていたことだと思われる。

 しめくくりの自伝、といっていいこの本にも、冒頭にそのことが語られている。
 (大意)こんどの(大東亜)戦争に敗れたとき、少年(西部邁)は、日本国民のほとんどが戦地に斃れた兵隊たちに一顧の礼も尽さなかったことに烈しい憤りを覚えた、と。
 それが、そのあとの終生をつらぬく思想につながっている、と。

 じつは、戦争直後生まれのぼくもまた、その想いでは深いところで繋がっていた、水草の地下茎の這い伸びるように…だ。

 総ページ400近くに達するこの本でも、やはり。
 しかし。
 この人は、自身を客観視する「この少年」から「この男」「老人」にいたるまで、その語り口が。
 ぼくの、すべてに明晰とはいいかねる頭脳には、どうもうまいこと響いてこない、まるで、せっかくの旨酒が喉に閊〔つか〕えるようなのだ。

 いずれにしても、ぼくは、この本を説明する心算はないし、その任にもない。
 ただ、ひとりの読者として、ひとつの感想を述べておきたい。

 こんどは、ぼく、西部邁という人の著作をなんとか読み遂〔おお〕せた。
 この人の、ぼくには伝わりにくい文体、文章表現法は、そのようにあるべきものとして、若き左翼過激派時代から練り上げてきたものであるらしい…と、ぼくには読めた。
 (そういえば、この人独特のこの文体には、左翼過激派アジ演説やビラのにおいがする)

 そうした大枚の文書量を、閊え閊え読み進めて。
 冒頭の繋がりから、あとは彷徨うばかりだったあの地下茎が、ふたたび邂逅のときを迎えたのは巻末に近く。
 「結語に代えて―――――㊀天皇論―――――七十八年間も筆者の棲まったこの列島にあって戴かれている天皇という国家象徴をいかなるものと解釈するか」に至ってからだった。

 伝統と歴史によってある天皇制を継承する立場に、ぼくもある。
 ただ、歴史を重ねることによる錬磨もまたやむをえずある、とぼくは思っており。だから、生前退位の日が近いいまの天皇の在り方、あくまでも国民に寄り添ってあるとするお立場は、おおいに尊重されるべき、とぼくは思う。

 国防のことも、その先にある、と。

 もうひとつ、この本には沖縄のことが語られていなかった(…と思う)。
 沖縄県民だけが、被差別の〝日本国二等国民〟であるのか、あっていいのか。
 せめて、語っておいてほしかった。

 西部邁という人が、思えば、たぐい稀な<にっぽんの語り部>であるだけに。

 いまさらこの人の精神の緊張をほぐす…など、それこそ余計なお節介ではあろう、けれども。
 せめて、その地下茎の将来への繋がりの節々を〝ほぐす〟マッサージを……と。
 ぼくは願っているのだった……