どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

息をつく「分かち書き」

-No.1433-
★2017年08月24日(木曜日)
★11.3.11フクシマから → 2359日
★ オリンピックTOKYOまで → 1065日






◆啄木の〝息つぎ〟短歌

 生まれて、まだ間もなかった記憶がある。
 いまなら幼稚園にかよっていただろう頃、ぼくは工場の焼け跡の、夏草のむせるようななかで、遠い声を聞いていた。
 「お~~ぃ」
 そう呼ぶだけの声を、ぼくはピカドンと結びつけて聞いた。
 「ピカドン」は、ぼくが産まれる少し前、広島と長崎に落とされた〝原爆〟のことだった……

 ぼくの、なんとはなしに息ぐるしいような想いは、その頃からはじまって。
 学校に行くようになってからも、消えずにのこり。
 作文の「、」(点)、「。」(丸)、文章区切りへと移っていった。
 それは、ぼくにとって〝息つぎ〟であり、その意味で「、」には好感がもてたが、「。」は息ぐるしいのがイヤだった。

 音楽の歌詞の〝息つぎ〟は、空白(スペース=一字画空き)か改行であり、ぼくにはこっちの方が好ましかった。
 そのうちに、ぼくの感じるこの息ぐるしさというものは、〝いまの時代〟というやつの所為かも知れない…と思うようになった。
 「空気」だった、どうやら、その成分が好ましくないようだった。

 「和歌」、に出逢う。
 〝万葉〟や〝古今〟の「古歌」は、たとえば、紀貫之百人一首35
   人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
 ひといきに詠みきっており、その時代の閑〔しず〕かに、ひと息の長かったことが偲ばれる。

 それが近代「短歌」になると、たとえば与謝野晶子の、
   その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
 ひといきに詠みきるかたちよりも、
   やは肌のあつき血汐にふれも見で
       さびしからずや道を説く君
 「句ぎり」をいれて「分かち書き」に表現した方が、時代の空気にあってきた。

 息ぐるしさは、さらにすすんで、石川啄木になると、
   かにかくに渋民村は恋しかり
   おもひでの山
   おもひでの川
 あるいは…
   やはらかに柳あをめる
   北上の岸辺目に見ゆ
   泣けとごとくに
 と、いっそう〝息をつぐ〟ことになる。

 これを「分かち書き」と呼んだ。
 (いま、「わかち書き」は誤読を避けるため空白をはさむ文章法のこと、になっている)
 時代が、それを推し進めた。
 ぼくには、そう思えた。
 
 おなじころ「詩」の世界では、これも時代が、中原中也の〝破調〟を生んでいた。
 ぼくは、啄木の「分かち書き」と中也の「破調」に〝息つぎ〟を学んだ。

 短詩型では、改行や空白によってきれいに片のつく〝息つぎ〟が、散文ではなかなかむずかしい。
 段落区切り「。」の約束ごとに制約されるために。
 この制約からのがれるくふうに、ぼくはずいぶん気をつかった。

 ひとつには「。」の替わりに、あるいは緩衝の役に「…」(三点リーダー)をつかい。
 改行を、さらに一歩さきにすすめて「一行あけ」をこころみる…など。
 いまも、その〝息つぎ〟志向のさなかにある。

 このブログの書き方が、じつはそれで。
 この手法による作品も、一作できており。

 時代の空気が、これに適うものなら……
 自費出版でもと、いま考えている。