どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

〝科学〟は友だち〝神〟信仰するものではない/  災害〝自衛隊〟と国土〝防衛隊〟は別個に

-No.1394-
★2017年07月16日(日曜日)
★《3.11》フクシマから → 2320日
★ オリンピック東京まで → 1104日




筑後川上流域からの被災映像

 …が衝撃的だったのは、濁流に流されてきたのが間伐材クラスではなくて、りっぱに製材できる太さの大木ばかりだったこと。
 それらがあっけもなく根こそぎにされた脅威、谷すじの支流小河川が軒並み連続崩壊したこと、巨木の流木がダムとなって川の流路を曲げ、溢れて洪水の二次被害を起こしたことでした。

 しかし、これはたしかに稀に見る大ごとではあったけれども、初めてでも他に類例を見ないことでもない。
 こんどの北九州豪雨(7月5~9日?)のような事態の予測は、専門家すじから指摘されてきました、けれども。
 また、こんども、まにあわなかった、対策できなかった……

 〝減災〟対策、基本の〝基〟。
 土砂崩れや洪水などの自然災害があるたびに、やかましく言われる〝避難〟ですけれども。
 その懸命であるはずの行為に、どこか他人ごとのような、あるいは現実離れした空気が漂って、いっこうに覚悟の腰が定まらないように思えるのは、ナゼか。

 もちろん。
 あえて言うなら、こうした自然災害ではある程度までの被害はやむをえない。
 それはワカッタうえで、だからこそ、もっと人の心に、気もちのうえでナットクのいく対処であってほしいわけですが。
 どうもその辺が、これほどの災害列島で、いやというほどの経験をかさねてきたにもかかわらず、いまだにシックリと胸におさまることがない。

 ざんねんながら、「解決策はコレだ」と言える決定打はない…わけですが。
 気がかりなことから、ひとつひとつ解決していくことを、考えてみたいと思います。

◆〝公〟の努力、〝個〟の自覚と結束

 災害報道。たとえばNHKのテレビで時々刻々に伝えられる現況と現地への呼びかけ。
 たしかに、それはそれでいい、のですが。

 首を傾げてしまうこともある。たとえば、
 「地元自治体の避難情報(避難準備、避難指示など)に従ってください」と呼びかけるいっぽうで。
 「みずからの判断で安全の確保を心がけてください」と言う。

 「とうぜん」かも知れないけれども、正直「どうしろってんだ」という思いもある。
 危機に直面して冷静ではいられないときに、さらに迷わされては堪りません。

 まず、自治体からの情報発信じたいが、遅れたり的はずれだったり、することがある。
 また、「危険なところには近づかないで」と言うけれど、屋内に籠り隠れていたのでは外の状況は知れない。
 どれほど危険か迫っているかの判断も、究極、鋭い感覚に加えて、危険を察知できる間近、間際にあってこそ可能です。

 つまり、こういうことではないのだろうか。
 〝公〟の減災への努力と向上は必然として、もうひとつ、〝公〟は〝個々〟に対して、無責任ともいうべき出来ない〝保障(保証)〟を口にすべきではない。

 それは、とうぜん〝個〟にも〝個〟の自覚がなければならない、ことを意味します。
 頼られたい〝公〟と、頼りたい〝個〟、の悪循環をヤメにすること。
 畢竟。
 〝個々〟を守れるのは〝個々〟だし、〝個々〟を力づよくできるものは〝結束(グループ化)〟しかありません。
 それは、こんどの北九州豪雨でも立証されました。

 〝人のすることに絶対はない〟のだから、ならばそれを、コトバだけでなく気もちに直に訴えかけるカタチで、なんとか胸奥にまで沁みこませること、その方法と実践の試みをつづけていくほかないと、あらためて思います。

気象庁〝特別警報〟の在り方と表現について

 こんどの北九州豪雨は〝線状降水帯〟とか呼ばれるものが招いた災いですってね。
 そんなこと、つゆ知りませんでした、ぼくたち。

 気象庁の、日頃の精勤と努力には感謝しています、けれども。
 どうも、ふだんからの、報道機関や自治体さらには国民一般に対する周知徹底が不十分に思えてなりません。

 たとえば、こんどの北九州豪雨。
 気象庁の〝特別警報〟画面を見ていて、ぼくは混乱させられました。
 おなじ思いをした方も、きっと少なくなかったでしょう。

 それは、地図に〝警戒の度合い〟を色分けで表示するもので。
 メッシュ仕立てはいいのですが、問題は色づかい。
 最高警戒地域が「紫の濃淡」だったのが混乱の素。まったくの違和感でしかなかった。
 じつは、警戒レベルはその下の「赤・黄色」の方が、見た目に〝もっと危険〟と認識されてしまう。これでは逆効果だ。

 いうまでもない、ぼくら多くの人はふつう、信号の「青・黄・赤」の感性に馴染んでいる。
 まさに「ゴー(青)、ストップ(赤)」であり、「注意せよが黄」であった。
 なお付け加えれば、「紫」は「高貴の色」であって、「警戒あるいは危険」とは縁もゆかりも無いのデス。

 気象庁に、そうした一般人の感性に留意することがあったのか、どうか。
 真面目な方々の思いこみで、細かな検討がおそろかになったのではなかろうか、どうもそう思えてならない。
 〝独自性〟はケッコウなんだけれども、公共性のきわめて高い分野のことだけに、わかりやすさを最優先に考えてほしい。

 緊急の場合だけに、判断を惑わせる〝違和〟はコマル。

◆〝科学信仰〟をヤメたい

 …などと言えば、つよい反論は目に見えている。
「科学が万能ではないことは自分たちがいちばんよく知っている、そんなばかなことがあるものか」
 と、学者さん研究者さんたちは仰るにちがいない、けれども。

 庶民一般はいうまでもなく、事実報道であるべきマスコミなんかにも、科学〝信仰〟というか少なくとも科学〝万能〟の気味がある。
 いま、この発言をしているボクなどにも、正直。
 (なんだ、もっと進んでるとばかり思ってたら案外まだまだ、遅れているんだなぁ)と思うことがある。
 これが、そもそも科学〝万能〟の気味。わる気はない、のですけれども。

 じつは、以前〝地震予知〟はまだ無理…とわかったときに一度、ぼくらは科学〝万能〟の呪縛から解放されたはずでしたが、とんでもない。
 たとえば前記、気象庁の予報に対する〝依頼(信頼)心〟にも、〝万能〟願望が、ひいては科学〝信仰〟が窺えます。

 日本民族は、欧米民族などにくらべたとき、ややもすると信仰心がうすいように言われたりもしますが、とんでもない。
 基本的には、自然を相手に〝八百万〔たおよろず〕の神〟とも呼ぶほど、純な信心がある。その心根が、西欧の近代的科学文明に出逢っても、かたちをかえて脈々と伝わっている、といっていいように思います。

 しかも、そのいっぽうでは〝情報社会〟信奉のせいか、みずから〝科学する心〟は弱まってきているようでもあります。

 この習慣は、いちど、きっぱり断ち切っておくのがよい、のではないか。
 
 ひとつ、日本学術会議あたりが先頭にたって、この〝科学信仰〟もどきから国民を目覚めさせる処方をと、切望するものです。

◆〝自衛隊〟と〝防衛隊〟

 こんどの北九州豪雨被害でも、救援派遣を依頼された自衛隊への信頼感には、抜群のものがありました。

 《11.3.11》以後、さまざまな識者たちから意見、提言、指摘、箴言あいつぐ〝自衛隊〟の在り方について。
 もういちど真剣に議論をしませんか。

 いまの自衛隊には、諸事情あってハッキリ無理があります。
 本務とはされない〝災害派遣〟に、もっとも国民の信望がある。これなんかも〝オカシな真実〟ではないか。

 「誤解がある」としても、災害派遣自衛隊に憧れる若者が少なくないのも事実です。

 いろいろある他事をひとまず措いて考えれば、災害〝自衛隊〟と国土〝防衛隊〟を別組織にするのがいちばん、なのではないか。
 (これは戦争論でも戦争抑止論でもありません)
 理想論と現実論、イデオロギーのぶつかりあいでは、埒があかないことも事実なんですから。

 〝改憲〟云々は、この問題を賢く解決して後のこと…は、いうまでもありません。