どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/5日目①…塩屋崎の灯台と美空ひばりの歌碑

-No.1380-
★2017年07月02日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2306日
★ オリンピック東京まで → 1118日











◆『みだれ髪』が鎮魂の唄に…

 あの《11.3.11》大津波の被害は東北に限らなかったのは、いうまでもない。
 あらためて「東日本大震災」と呼ばれることになったのはそのためで、被害は少なくとも千葉県房総にまで及んだ。

 ぼくにもその意識はあったから、機を見、折を見ては、勿来の関から北茨城、五浦海岸にかけてなどへ足を向けてきた。
 けれど…どういうものだろう、どうしてもやっぱり、いわき市福島県)より北へと気もちは傾いてしまう。
 とくに広野町楢葉町の境、Jヴィレッジあたりから先が、正直〝原発〟との勝負どころであった。

 そこへ踏みこむ心がまえに、スパリゾートハワイアンズに遊んだり、波立海岸に立ち寄ったりしてきた感がある。
 こんどの〝ぐるっと福島〟行では、もうひとつ気になっていた岬、波立海岸の南にある塩屋崎を訪ねておきたかった。

 きのう4日目の宿は新舞子浜の波音近いホテル。
 このホテルも《11.3.11》の津波被害に遭い、1階部分を海波に洗われていたが、幸い人命は失われずにすんでいた。

 ここから南へ、塩屋崎までは指呼の間。
 そのあたりを薄磯海岸と呼んで、痩せた浜ぎわの道を縫って行く、カーナビのガイドは途中、ふと悩んだり、とり違えたり。
 そこここで大々的な、嵩上げと道普請とが行なわれていて、明らかに以前とは状況が一変しているのだった。

 あの《11.3.11》の津波、塩屋崎では南東方向から襲われ、盛り上がった海波は灯台の裾まで達して、付近の漁師たちの集落が浚われた。犠牲者は300人に迫り、灯台はそれから2年半のあいだ立ち入れなくなった。
 観光客の訪れも絶えたが、岬の土産物屋は塩屋崎の陰に守られたおかげで流失を免れたのだ…と、あとで土産物屋の女主人から聞かされた。
 塩屋崎を訪れる観光客のかずは、まだ震災前の3割程度だという。

 きつい石段坂を息をはずませて上がり、さらに灯台の狭いらせん階段よじ登った台上からは、かつては〝常磐の海の難所〟と怖れられたという、底の方から湧き上っては流れるらしい、手ごわそうな海が眺められた。
 なるほど、いい海藻と貝類の漁場であろうことをうかがわせる…が。
 高所恐怖症のボクの脚は震え、尻の穴のあたりがムズムズする。
 
 岬が人を惹きつけ、灯台が人を魅了するのは、昔も今もかわりない。
 塩屋崎は、映画の舞台になり、戦後歌謡の舞台にもなった。

 灯台へと上る階段下に、映画『喜びも悲しみも幾年月』(1899年、木下恵介監督)の記念碑がある。
 ぼくも少年時代、両親に連れられ観に行った覚えがある、高峰秀子・佐多啓二主演のこの映画は、若山彰が唄った主題歌とともに大ヒット、美しい自然と厳しい生活環境とが人々の郷愁を誘った。

 その後は昭和歌謡の大輪の名花、美空ひばりの『みだれ髪』1987(昭和62)年。
 塩屋崎の灯台を振り仰ぐ園地に歌碑がある。碑の前に立つと歌声のながれる趣向は、ぼくの好むところではない、けれども……

 いま「憎や 恋しや 塩屋の岬」の歌詞が、あの大津波被災の鎮魂歌になろうとしている、という。
 考えてみれば岬(灯台)という存在、自然条件としてばかりでなく、人類史上の点景としても記憶されることが多い。
 
 1899(明治32)年、近代式灯台点灯の塩屋崎の場合には、太平洋戦争中はアメリカ軍の攻撃目標にされた歴史がある。
 おなじ岬が100余年の時を経て、大震災に見舞われたのだ。
 美空ひばりの『みだれ髪』を、その鎮魂の唄とする意味はふかいのかも知れない。