どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/2日目③〝蔵の街〟喜多方、大和川酒蔵と会津電力

-No.1359-
★2017年06月11日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2285日
★ オリンピック東京まで → 1139日















◆かつてあった日中線

 会津坂下の町から、会津盆地の北に位置する喜多方市に向かう。
 喜多方と言ったら、いまはいうまでもない「ラーメンの町」なのだろう、が。

 かつての鉄道ファンには、磐越西線喜多方駅山形県境に近い熱塩駅との間を結んでいた日中〔にっちゅう〕線という、わずか11.6kmと短い、鉱山用の小さな鉄道線のあったことが想いだされる。
 この日中線、SL時代にはC11形が活躍して、終点の熱塩駅には機関車が方向転換するための転車台が設けられていた。

 日中線の名は、終点熱塩駅の先にある日中温泉にちなんだもので、日中の国交と直接の関係はない。
 …とはいいながら、1938年開通のこのローカル鉄道、じつは日中戦争(1937~45年)の影響を受けており、熱塩駅の転車台がそれ。
 もともと短小路線には贅沢だった転車台、C11形機関車は転車台で方向転換しなくてもバック運転(逆機)でも支障が少なかったから、せっかく設置されながら間もなく使われなくなった経緯があった。

 ぼくも一度だけ、乗るためだけの目的で1972(昭和47)年、この熱塩線に往復乗車したことがあったが、当時すでに朝・夕・夜、わずか1日3往復のきわめて不便な運行…「日中は走らん線」と揶揄された鉄路は84年春には廃止になっている。

会津電力と大和川酒造

 喜多方(名前の由来は北方)は蔵の街、また漆器の街でもある。
 味噌蔵や穀物蔵と並んで酒蔵があり、酒造でも知られる。

 〝寒造り〟の日本酒には、良質の水と米、そして酒質を磨く雪の効能がいわれ。
 なるほど越後(新潟)をはじめ東北各県には名酒・銘醸が多い由縁で、ぼくたち夫婦はそろって酒(といったら日本酒でアル)を愛する。

 ただし、ご新規さん呑兵衛の仲間入り、若年の頃にまず知ったのは「末廣」(会津若松)であり、「栄川〔えいせん〕」(磐梯町)であり、喜多方では「会津誉」であった。

 このたび訪れる大和川酒造を知ったのは、その後のことになる。銘柄は「弥右衛門」。
 その大和川酒造、《11.3.11》後の福島復興活動で一躍、名を上げた。

 「地産地消」を地で行く蔵元、大和川酒蔵の9代目弥右衛門さんが音頭をとって呼びかけた「会津電力」構想が、「エネルギーも地産地消」の主張が、首都圏民にもつよい共感とともに迎えられた。
 「自然エネで〝独立運動〟」のタイトルが新聞紙面に踊ったのは12年冬のこと。
 もとより豊富な水資源はいうにおよばず、太陽光、地熱、風力、バイオマスと、あらゆる知恵をしぼって、福島県の「原発との共存拒否」決別気運をリードすることになった。

 その後13年8月には、会津地域の会社経営者らで立ち上げた会津電力(株)がスタート、その社長に大和川酒造の佐藤弥右衛門さんが就いた。
 まず、いちばんに手がけたのが太陽光発電事業、都合15ヶ所に合計出力約2,200キロワット(一般家庭600世帯分相当)の設備をして、東北電力に売電することから始まった。

 会津電力のスタンスは、その母胎となった「会津自然エネルギー機構」のときから一貫している。
 その根底には、かつての福島は「エネルギーの植民地」であったする認識がある。
 その過去に正面から向きあって原発依存から脱却、「中央(東京)と地方(福島県)の関係を新しく創り直す」。
 そこに脈々と伏流するのは、叛骨の〝会津魂〟の感、とうぜん色濃い。
 「会津っぽ」がゆく。

 それにしても、なぜ「酒」か、「酒造」かの想いが、いっぽうにある。
 あの《11.3.11》があってからこれまで、被災地東北に、現代の〝行脚の杖〟をひいてきたボクには、感慨深いものがあった。

 復興に向けた動きのさまざまを伝える報道に、なんと、どれだけ多くの酒蔵ネタが登場したことか。
 いまこころみに、ひとつ代表例をあげれば岩手県陸前高田の「酔仙」酒造。
 未曽有の大津波被害に遭って、重要文化財の酒蔵と7名の担い手をうしなった蔵の、そのときとその後は、産業経済関係の話題のトップを占め。
 少なくとも、あの大津波の被災から2年後くらいまでの復興初期には、ナンバーワンの注目をあつめた。

 庶民の話題は多彩をきわめたなかで、「酒造」が突出して脚光を浴びつづけた…というのは、けして〝吞んべ〟のボクの思いすごしではなかったろう。
 しかも、これには「酒呑む人」ばかりでなく「呑まない人」にも異論がなかった不思議、どういうことか、〝呑んべ〟のボクの気がひけたくらい。
 
 その証左と思える事実は、たとえば、たいへんな呑兵衛の夫を抱え苦労しつづけたその妻が、酒蔵家のことに話しがおよぶと途端に尊敬の態度にかわったこと、があげられるだろう。いまも地方には、こうした話しが少なくない。

 たとえば、かつての日本では、郵便局長さんと学校の校長先生、最寄りの駅長さんが地元の名士であった。いわば真面目系。
 それとは、また少し異なった色彩をはなつ資産家系の名士が、酒造家であった。こちらは、さばけたムード派だった。

 〝口噛み酒〟の昔から神をよろこばせ、神と人との仲をとりもってきた酒にはまた、酒の神があった。
 そんな歴史とも関わりが深いのかも知れない。

 もうひと組の先客と一緒に、新人社員の案内で蔵を見学させてもらった。
 大和川酒蔵の展示資料には「北方風土館」の名が与えられている。
 もちろんこの「北方」は、「ほっぽう」ではなく「きたかた」である。

 ドライバーであるボクには、酒造のテイスティング・ルームは我慢どころ。
 試飲はかみさんにまかせて、わが家と酒好きな友への土産に宅配を頼み、別に今宵の晩酌用に1本つつんでもらう。
 すでにこの真夏のような陽気のもとでは、陽あたり放題の車に酒を積んでは行けない。

 「会津電力」への支援を伝え、喜多方ラーメン食べて、〝蔵の街〟をあとにした。