どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》被災地巡礼、2017春・ぐるっと福島/1日目③…只見線のこれから、会津川口駅の想い出

-No.1354-
★2017年06月06日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2280日
★ オリンピック東京まで → 1144日












只見線よみがえる日

 田子倉ダムから国道252号を下ると、只見川の流れはゆるやかなものになる…が。
 11年7月の豪雨では、流域ダムのすべてから放流された濁流が土砂崩れを誘発、橋梁を流し去った。

 結果、会津若松福島県会津若松市)-小出(新潟県魚沼市)間、135.2kmの只見線は、各所でズタズタに寸断。会津川口福島県金山町)-只見(福島県只見町)間27.6kmはいまだに不通、バス代行輸送がつづいている。

 不通区間会津蒲生駅付近の線路を見ると、雪がとけてあらわれた錆びたレールに枯れ草が絡みついていた。

 これまでにも、たびたび伝えてきた、陸上の交通手段にしめる鉄道の役割には、きわめておおきく、そしておもいものがある。
 天からバスは比べものにならない、信頼感は”代行”の域にとどまる。
 二本の鉄路、レールが踏みしめてつづく道こそが、なにより”たしか”なのだった。
 レールの表面が鉄の車輪で磨かれ光っているかぎり、それが少しばかり波うち列車が揺れても、信頼感をそこなうことはない。
 その信頼が失われるのは、レールが赤く錆びたときだった……

 さらに下流、小さな本名〔ほんな〕ダム脇では、只見線のレールがおおきく無慚にもブッツリ途切れていた。
 只見の川べりへ、トンネルからとびだしたレールが跡形もなくもぎとられ、対岸の縁で待ち受ける橋脚とレールが、空中ブランコの跳び手をうしなったパートナーみたいに所在なげだった。
 工事のクレーンは動いていても、それはまだダム修理の段階のものであった。

 つづいてその下流にも、もうひとつ、鉄橋の一部を流失した姿を晒す……

 只見川がゆったり、すぐ傍を流れる会津川口駅
 会津若松から来た列車は現在、ここが終着、ここで列車は折り返して帰る。

 「川口」地名は全国に見られ、ふつう、川が海や湖に流れこむところ、つまり「河口」のことを指す。
 ただ、現実にはこの条件を充たすところばかりではなく、ときをへて地形に変化が生じていることも少なくない。
 「会津川口」の場合は、只見川が山地から平場(平野)に下ったところ…とでもいうのであろう、じっさい川の流れゆったりと、なるほどそんな感じのする位置ににある。
 「川尻」というのも、じつは「川口」と同じ地理条件を指す表現だけれど、ぼくが見るところでは、開けた感のつよい「川口(河口)」にくらべ、より〝すぼまった〟成り立ちのように思われる。コトバとしては「川口」のほうが明るくていい。
 
「まだ話しが決まったばかりで、開通はいつのことになるかわかりません、けど、なんかこう、とっても明るくはなりましたね」
 駅売店で働く若い衆の、いい笑顔が印象的だった。

◆ボクの「片道最長切符」のこと

 ボク個人にとっては、会津川口という駅名も印象につよいものがある。
 只見線の前身は、戦前、会津若松会津宮下三島町)間の会津線と、小出-大白川(いずれも新潟県魚沼市)間の只見線が、1942年までに完成していた。
 ちなみに小出-大白川間の線路いわゆる〝盲腸線〟は、珪石の採掘・運搬用に敷設された産業線で、戦後も60年代前半頃までは賑わっていた。

 戦後、復興エネルギー需要にこたえるべく始まった田子倉ダム建設が、只見線の運命をかえる。
 まず56年に、会津宮下会津川口(金山町)間が開通。
 その先、ダム建設現場までは電源開発(株)の専用鉄道として57年から61年まで運用。
 ダム完成後は、これを国鉄営業路線用に改良・整備、会津川口-只見間が63年に、さらに只見-大白川間が71年に開通して、めでたく只見線は全通。行き止まりの〝端っこ線〟ではなくなった。

 開通の日は、8月29日。
 そこまで覚えていたのには、、ワケがある。
 そこに、そのときを待っていた若き日、〝乗り鉄〟のボクがいた。

 JRの前身「国鉄」時代、北海道から九州までの全路線を対象に往ったり来たり、できるかぎり長~く乗り継ぐルートをもとめ、1枚の「片道最長切符」に仕立てる旅行術があった。
 ルールは「二度と同じ駅を通らない」こと、「1枚の、最長の、片道切符」。
 じつは、その1年半ほど前に、ボクのルートづくりはいちど完成を見ていた、最長の自信があった。

 いまのコンピューター時代なら容易〔たやす〕かったろうが、まだアナログもいいとこ、電卓以前の計算機を片手に、大学ノート2冊を真っ黒にしてはじきだした労作であった、が。
 拳をグイと握りしめた達成感のあとに、呆れたボケに気がついた。
 切符を買う金が…イヤそこまではなんとかなるとして…全行程2ヶ月あまりの旅の費用をまかなえるオアシがなかった。

 なければ稼ぐ。稼いで、喰いつめて。蓄えているところへ……

 「只見線がいよいよ全通する」ことになる、朗報が近いことを伝えられ。
 「赤字路線廃止の動き盛んな折も折、予想もしなった一大事、ショックだった」
 と、そのときの紀行には書いているが、ホントは(そのときを待ち望んでいた)のだった。

 めんどうな計算のやりなおし、も苦にはならなかった。前回のルートどりで恨めしく睨んでいた路線図、つながらない空白の最大箇所が会津線会津川口駅只見線大白川駅の間だったから……

 こうして、枕崎駅(鹿児島・指宿枕崎線)から広尾駅(北海道・広尾線)まで。
 総距離12,771.7キロ(ちなみに運賃は27,750円)、65日間有効の「片道最長切符」を手に、ボクが南から旅立ったのが1972(昭和47)年5月15日「沖縄の本土復帰」の日。
 そうして42日めの6月25日に、只見線只見駅の待合室に一夜を明かして翌日、会津若松駅から磐越西線に抜けている。因縁の会津川口駅に泊まれなかったのは、数少ないローカル線の列車接続、乗り継ぎの都合であった。
 

◆鉄道は信頼の”骨格”

 わたくしごとで、道草をくった。
 
 ともあれ、6年という忍耐のときを経て、只見線にようやく「復旧」を目指すときがきた。
 難航した経費負担の問題に、ようやく決着がついた(というよりJRに地元側が押しきられた格好だが…)。

 当初、福島県や沿線自治体6市町村は、とうぜん、JR東日本に復旧・存続を要望、国に対してもJR東日本への財政支援を求めたのだ。
 けれどもJR東日本は、多くの赤字線を抱えながらもドル箱の新幹線(東北・山形・秋田・北陸・上越)があるので黒字経営、したがって国の補助制度の対象外であった。

 だから、あの東日本大震災で被災した路線でも、大船渡線気仙沼線はBRT(バス高速輸送システム)運行に切り替えられて鉄道の復活する見込みはなく、山田線(宮古-釜石間)は第三セクター三陸鉄道に移管されることになっている。
 つまり、民営企業であるかぎり採算のとれない事業には関わりたくないのが正直なのだった。

 ねばる地元側に対してJRが提案したのが「上下分離方式」。
 これは、「地元が維持管理する線路に、JRが列車を走らせる」というもので。
 これは全国でも初のケース、とはいえ、同じ提案は北海道の根室線でも行われている。

 ところで、只見線の復旧費用。以前と同じルートで復旧させるとして、少なくとも81億円以上という試算。うち3分の1をJRが、のこり54億円余りは福島県会津地域自治体が分担。これに地元側には、復旧後さらに毎年2億1千万以上とみられる維持費が重いことになる。
 付け加えれば、線路じたい〝復旧〟ですめばいいが、〝付け替え〟になれば負担が増す。

 それでも地元が只見線の復旧・維持にかけるのは、上記したように、鉄道がなくなることは生命線をうしなうことになる、との懸命な思いがあるからだ。
 二本のレールによせられる信頼感は、脊柱の〝骨格〟にほかならない。骨組みがしっかりしなければ、血流もない。
 諄いようだが、日ごろは便利にみえる車にも、いざ鉄路ほどの信頼、底力の確かさはない。

 あと、車窓の景色の美しさで知られるローカル鉄道、只見線そのものがもつ人気もおおきい。
 近ごろは国内ばかりか、海外からの観光客の姿も目だつ。

 くわえて地元民が、みずから乗車利用することで線路を支えていこうとする心根もある。
 そこには、幕末維新以来の〝会津魂〟といったものがほの見える気もする……