どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

円谷幸吉さんの遺書と、君原健二さんの日記/1964東京オリンピックのこと

-No.1348-
★2017年05月31日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2274日
★ オリンピック東京まで → 1150日



◆1964年からの手紙

 「2020年 東京五輪へ」という特集記事が、東京新聞のスポーツ欄にある。
 その17年4月25日(火)付けに、君原健二さん(76歳、1964年東京オリンピックのマラソン代表)の回顧と当時の日記が紹介されていた。

 ぼくは、とうぜんのように円谷幸吉(1940~1968)さんのことを想い泛べた。
 君原と円谷の仲には、マラソンのライバルというより遥かに深く濃い、ナニかがありつづけた。

 ふたりは、1964年オリンピック東京大会、マラソンの日本代表。
 10月21日のレース結果は、円谷が3位。当時の世界最高記録(2時間12分台)でオリンピックのマラソン初の連覇をはたしたアベベ・ビキラからは4分も遅れたが、競技場に帰ってきたときは2位、ゴール前のトラックで抜かれた。それでもこの大会、陸上競技では日本選手唯一のメダル獲得(メインスタジアムに国旗掲揚)、トラック競技の10000mでも6位に入賞している。
 いっぽうの君原は、入賞さえ逃がして8位に沈んだ。

 しかし、その後の人生では明暗が逆転する。
 オリンピックの成績不振から、一度は会社の陸上部に退部届を出した君原は、説得されて1年後に復帰。結婚を転機に復活を果たして、次のメキシコ・オリンピックで銀メダル、さらにミュンヘン・オリンピックの代表にもなって5位入賞。
 いっぽう「日本の陸上競技界を救った」とまで讃えられた円谷のその後は、持病の腰痛と練習環境の不運もつづいて、次のオリンピックを目指すために結婚も諦めさせられ、いちどは「メキシコでは金メダルを」と宣言したものの低迷、ついにオリンピック・イヤーの68年1月、27歳で自殺している。
 葬儀に参列した君原は、円谷の生前の意志を継ぎ「メキシコでの日の丸を誓う」弔文を送った。

 自殺した円谷幸吉さんの遺書は、新聞にもおおきくとりあげられたのを、ぼくなんかも涙目で読んだことをいまも忘れない。
 親族縁者、ひとりひとりへの、実直な呼びかけと、「おいしゅうございました」のリフレーンに、魂を揺さぶられた。
 短いものだし、すばらしく惜しい文だから、全文をお伝えしておきたい。

  「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
   敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
   勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
   巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
   喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
   幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
   正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
   幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
   良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
   光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
   幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
   立派な人になってください。
   父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
   何卒 お許し下さい。
   気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
   幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」

 この遺書を伝えるニュース音声のナレーション、映画の重要なモチーフ画面にながして成功したのが『駅 STATION』(1981年、降旗康男監督、倉本聰脚本)。オリンピック射撃代表の警察官役が高倉健だった。

 ……………

 ここで、冒頭にお話した、君原健二さんの「1964年からの手紙」に戻る。

 本人が回顧する当時の選手君原。
 1962年12月、初マラソンで当時の日本記録を更新、2時間18分1秒。
 63年のプレ・オリンピック、マラソンで2位。
 64年オリンピック本番2ヶ月前、10000m記録会で2位。
 その3日後のマラソン代表選考会で優勝。
 さらにその4日後には、10000mで日本新記録
 オリンピックイヤーの本番前10ヶ月間に8,160kmを走って、体力面では間違いなく競技生活のピークにあり、「日本のエース」と呼ばれ「メダル候補」と期待された。

 当時は、現在にくらべると「選手は国の代表」という意識がつよく、そうした状況にあって「私の心は未熟でした」、「日本代表としての大きな責任に押しつぶされていました」と君原さんは述懐する。
 期待されながら、じつは「練習は全く自信がなく何の確信もなく不安に過ごしている」と、大会期間に入ってからの10月13日の日記に書いている。
 いろいろな人から、お守りや必勝祈願の千羽鶴をもらうのもプレッシャーで、そういうものに頼りたくない一心から破り捨て、後でバチがあたりはしないかと恐れていた。

 10月21日、最終日最終種目のマラソン本番。
 結果は、2時間19分49秒、なんとか8位に入ったとはいえ、自己記録には3分半も及ばず、3位に入ったライバル円谷は逆に自己記録を2分近く更新した。
 
 スポーツの勝者とは順位や記録ではなく、「力を100パーセント発揮できたかどうかだと思う」という君原さんは、「円谷さんは出し切り、私は発揮できなかった。力はあったのですが、心が弱かった証しです」と述懐する。
 ゴールして、ともに意識が遠のき、控室へ運ばれた2人だった。

 レース後の日記に君原さんは、「こんな大事なレースに俺は何度レースを投げようとしたのだろうか 全く恥るべき態度だ」と書いた。
 そんな彼のひたむきな姿を追った映画『あるマラソンランナーの記録』(1964年、黒木和雄監督)を観て、もともと興味のあったマラソン競技に、ボクはのめりこむことになったのだった。
 ただし君原さん自身は、トレードマークのように評された首を振って走る姿ばかり繰り返す映像がイヤだったらしい。その姿はじつは、レースの勝負どころでもがき苦しむものだったからだろう。

 その君原さんが、2020TOKYO大会を「とても楽しみ」と語りながら、選手たちの心もちを思いやる。
 「地元開催はものすごい重圧がかかる。でも、それも受け止め方次第。今の選手は「楽しむ」という言葉を使います。私や円谷さんのときには絶対できなかった」と。

 ぼくも、思う。
 プレッシャーを感じない選手なんか一人もいないだろう。プレッシャーをどうのりこえるか、しかない。
 でも、この間の半世紀という時間が、まちがいなく大きなこともまた、まちがいない。
 そうして、いまのこの時世が、いまや「アスリート」と称され別世界のごとくに扱われることが、スポーツ選手たちにとってほんとにシアワセなことかどうかについても、おおいに考えさせられることもまた、まちがいがない。