どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

〝サムライの叡智〟熊本城と〝地震の巣〟のこと

-No.1317-
★2017年04月30日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2243日
★ オリンピック東京まで → 1181日




◆サムライの叡智

 熊本地震から1年が経った。
 あの前震と本震、2度の大地震に見舞われた後、細川家の文献を研究している熊本大学文学部付属、永青文庫研究センターが調査したところ…… 

 熊本藩主にして城主でもあった細川家初代(草創加藤清正からかぞえて3代)の、細川忠利(1586~1641)という方。
 1633(寛永10)年3~5月頃に起きた大地震とその余震を怖れ、しばらくの間、お城の本丸から南側にある邸宅「花畑屋敷」に、公務および私生活の場を移していたことが判明した、という。
 人ではない自然〔じねん〕のなせる技、よほどの恐怖だったに相違ない。

 大地震があったのは忠利公40代後半にあたるわけだけれど、このときから8年後には56歳で亡くなっているから、人生の晩年といっていい。
 人の感受性には個体差がある、とはいえ武士、まだ戦国の余風のこる時代のリーダーである。

 伝えられる細川忠利という藩主の人柄、戦国の世の教養人として知られた父、細川忠興(母は細川ガラシャ)の薫陶をえて、外様大名でありながら54万石という大藩をよく治めた政治力にすぐれたものがあった。少年の頃、人質にあずけられた徳川家、2代秀忠(家康の嫡男)に愛され、元服のとき「忠」の一字を与えられていることから、落ち着きも、気くばりもあったことがうかがえる。

 改易になった加藤家のあとを受けて肥後に入国するときには、声望を集めた清正公〔せいしょうこう〕加藤清正)の霊位(位牌)を先頭に、「あなたの城地をおあずかりします」という敬意をはらったといわれる。慎重で実直な、要はそういう人物。

 けれども、じつは。
「ことのほか広き国にて、城も江戸のほかにはこれほど広きを見ず」
 と感嘆した熊本城は、当時すでに、大地震で傷んだ天守・櫓・石垣などの、大規模な修復と拡張におわれたことが、これも記録にのこっていた。

 その細川忠利の手紙に、地震にまつわる記述が多かった、という。 
 たとえば江戸詰めの家臣宛てには、「本丸は逃げ場になる庭もなく、石垣や櫓・天守閣と高いものに囲まれて危なくてしかたがない」と伝え。
 また他藩の大名宛てにも、「たびたびの地震に揺れがはげしいので避難した」旨、書き送っていた。
 
 つい先ごろ、最新の地震学研究で、この辺りには、並行に斜交も加わる複雑きわまりない活断層群があったことが判明している。
 その地震の規模も頻度も、繰り返すが、よほどのことだったに違いない。
 
 1年前の熊本大地震で、大損害を被りながらも倒壊を免れ、さすが「肥後武士の築いた名城」と讃えられた熊本城。
 「戦後最大規模の文化財被害」の修復に向けた専門家プロジェクトチームによる調査によって、驚嘆にあたいする「サムライの叡智」が明らかになってきたわけだが。

 それは「土木(ことにも築城)の名手」と讃えられた加藤清正によって工夫・考案され、さらに細川忠利の技術革新によるものという。
 しかも、おかしなことには……

 こんどの大地震で受けた被害を分析すると、清正・忠利の頃に築かれた石垣はなおよくもちこたえた(まことにレベルが高かった)のに対して、明治になって修復された石垣の方は脆くも崩れやすかったのだ、という。

 「城は石垣」という、まさにその威容をつよく印象づける急な傾斜。
 「武者返し」とも呼ばれる「のり(斜面=三角形の斜辺)返し」の妙は、高等数学にも匹敵するようなのだ。
 結果、「武者返し」が「地震返し」になった、ということらしい。

 ここで、あらためて、また思い知る。
 こうした知見が、なぜ、後世に伝わっていかなかったのか。まさに、このこと。
 少なくとも民庶レベルには、伝えのこされなかった、が……

 すぎたことを言っても、はじまらない。
 たいせつなのは、これからの将来世代に対する伝承・継承。
 それには、古いようだけれども、たとえば「日めくり」のような、「ほとんどクセになるまで繰り返して身に沁みつかせる」ことではないか。
 これ、熊本周辺にかぎったことじゃない、のは、いうまでもない。

 ……………

 以下は余談。
 細川家初代藩主、忠利(その末裔18代当主は内閣総理大臣も務めた護熙氏)の治世でボクの心にのこるのは「剣聖」と呼ばれた晩年の宮本武蔵を迎え入れたこと。
 このことに材をとって書かれた小説に、山本周五郎の『よじょう』がある。

 その名声ゆえに、俗に言えば終生”しゃっちょこばって”生きなければならなかった一代の男の、一種コッケイな生きざまを活写した好著であった。
 
 小学校の図書室の書棚の奥に見つけた、吉川英治の『宮本武蔵』からはじまったボクの読書生活。
 この作は、しごく生真面目なものだったわけだが。
 その後の長い読書遍歴の末、あやしげにひらけてきてみると、周五郎の『よじょう』描くところの武蔵像にも、ふしぎに慰めのある人間味をあじわったことだった。