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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

カプッとまるかじり…ほとばしるように旨いトマトが喰いたい

-No.1292-
★2017年04月05日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2218日
★ オリンピック東京まで → 1206日







◆「食べてみてよ」

 土佐の高知に住まいする友から、フルーツトマトの箱が届いた。
 さっそく、なにはともあれ、まず上掲の写真を撮る。

 記者をしていた頃のクセ。
 ”証拠写真”というやつで、オモシロ味はない…が、後になっては取り返しがつかない。
 あるとき、とある宿で鍋料理の写真を撮っていたら、
「まぁ、お写真が先に食べはるんですか。いちばん美味しいとこやのに…ねぇ」
 女将の声が呆れていた。

 ……………

 写真を撮りおえ、サッと水洗い、口に放り込んで、まるごと噛む。
 甘い!
 ジュワーッと果汁のほとばしりも申し分ない。

 すぐに、友に「いいね!」のメール。
 口中に、乾燥した高地の土に染みこむ水の匂いを嗅ぎながら……

 トマトの原産地は南米、アンデスの高原地帯。
 だからトマトの瑞々しさは、乾いた大地に由来する。
 したがって、安易に水を与えすぎると味わいにしまりがなくなる。
「トマトは水を欲しがるんです、だからってアマやかすといけない、こっちもガマンして、ぎりぎりのところで水をあげる、吸いこみますよアッという間にね、それがトマトの旨さになるの」
 栽培農家の人がいっていた。

 おなじようなことを、ミカン農家の人がいう。
「ミカンは手をかけすぎたらダメなの、他人さまから見たらイジメてるんじゃないかってくらい、見ても見ないふりして…可愛くても放ったらかしにしてやると、じぶんの力で美味しく香ばしく育つ」
 子育ての極意を聞くようだった。

 もう…あれから30年くらいになるだろうか。
 「桃太郎」という品種の(ピンク系大粒)トマトが登場して、世にもて囃されたとき。
 その蔕〔へた〕にアオ臭さのまるでない、個性をうしなったかのごときトマトに疑問をいだき。
 (カプッとまるかじり…ほとばしるように旨いトマトが喰いたい)と、まるで飢えた者のように。 
 ボクはみずからトマトづくりに手を染めた。

 しかし、町の園芸屋さんなどで手に入る苗はみな桃太郎。
 やむをえず、静岡で農業に従事する若き友に頼んで、在来種トマトの苗を入手。
 上記、プロの訓えにしたがって…といいたいところだが、じつは、素人のかなしさでやはり片手間の栽培になってしまい、しかし、結果はヤッと驚くばかりの瑞々しい出来栄え。
 (できるじゃないか)そのことであった。
 蔕のアオ臭さも申し分ない収穫をたっぷりいただいた。
 そのときの無我夢中ぶり、あとで愕然と明らかになったのは、そのときの”証拠写真”一枚ものこっていない、ばかりか、そのトマトの品種がなんであったかさえも、いまとなっては記憶にのこっていない。
 ボクとしたことが、あろうことか種子の一粒さえもとっておかなかったとは、まったくナンテコッタ!

 というようなわけで、トマト栽培が長つづきしなかったのは、ほかでもない、ぼくが旅人であったから……
 こればかりは、どうにもしようがなかった。

 ……………

 そうして、しかし、手づくりしなくなったのちも、トマトのデキにはいつも心が向いていた。
 人の医療の進歩は目覚ましいけれど、野菜の品種改良もまた負けず劣らず、ぼくらはいつもその恩恵のもとにある。
 だが、なぜか、日ごろ食するトマトには、その本来の味わいがない、あの瑞々しさはどこへいったのか。
 ぼくは渇くように思い、想いつめていった。
 
 「美味しいトマトにめぐり逢いたい」
 というのは、もちろん「生食」でのこと。
 トマトジュースとか、ケチャップ、トマトソース、トマトピューレ、ホールトマト…みな上出来の旨さがあるのに。
 なぜに、生食のトマトだけがいまだにサラダの末席、彩りを添えるだけの位置に放置されているのか……

 もちろん、気づくかぎりいろいろ、さまざまにチョイスしては、あれこれ試しているのだが。
 なかなかに、「これぞ」というものに出逢わない。
 そんなことがつづくうちに、歯ごたえ風味の理想ばかりがますます肥えていった…ということも、たしかにあったが。

 まぁ、これまでにボクが食したなかで、「いいね」といえるのは、ほとんど熊本産の「塩トマト」だけだった。
 これは、八代の干拓地など塩分の多い土壌で育成されるトマトのうちでも、とくに糖度が高いものをいい、品種をさす名称ではない、と。
 つまり、品種でいえば主に桃太郎なのだそうで、ふつうにいわれる栽培適地とはちがう、むしろ作物にとっては条件の厳しい土地で育ったもの。
 そこに、ひとつナットクのすじがある。

 思い余って、高知の友に声をかけたワケだった。
 「うまいトマトがあったら教えてほしい」と。
 銘柄はいわなかったが…思ったとおり、フルーツトマト発祥の地といわれる高知の代表銘柄「徳谷〔とくたに〕トマト」が届いた。
 化粧箱入りの稀少品であり、高級品であった。
 (友には、とんだ散財をさせてしまった)

 高知市街に近く、浦戸湾にそそぐ鏡川の支流、国分川沿いに布師田徳谷と呼ぶ土地があり、最寄り駅は土讃線土佐一宮〔とさいっく〕
 高知市街そのものが鏡川の三角州低地にあり、「高知」という地名も「河内あるいは河中」に由来するといわれるわけだが。
 徳谷の地は、もともとが干拓地で塩分の多いところに、昭和45年、大型台風による堤防決壊でまた海水に浸かったという。そんな作物が育ちにくい条件の土壌に植えてなお、ハウス内では水分をほとんど与えない、表土に塩が浮くような環境で、じっくり時をかけて成長を待つ。
 他所でなら50~60日で育つところを、徳谷では90日ほどもかけるそうな。

 これらの蘊蓄はネットにも記事があり、このたび友の教示にもあった。
 (ぼくは、トマトはアマやかすといけない…と、教えてくれた農家のことを想いだす)

 そんなふうにして、陽の糧を凝縮して甘みを蓄える、ゆえに玉も小さく収穫も少ない。
 やはり品種にはかかわりなく、栽培法と産地に与えられたブランド名ということになる。
 「土地では”シュガートマト”と名付けている生産者もいます」と、おなじ東京の学園を巣立った友が、いまはすっかり土佐の郷土自慢であった。

 ……………

 ちなみに、夏の水に冷やして味わうイメージのつよいトマトだけれど、じつはニッポンの高温多湿の夏は苦手なトマト、美味くなる季節は春~初夏と晩夏~秋口になる。

 戦後すぐ生まれのぼくは、幼心に、父母が庭で育てたトマトの、ほとばしる果汁のなかのほんのり甘みと、すばらしく酸っぱい蔕のあたりの緑の果肉との際だった対比とが、脳細胞の皺深くきざまれており。
 その後の長いときを経て、食生活にも恵まれたいまこそ美味しいトマトの盛期かと思ったら、じつはそうではない、という。
 なんでも作付面積でいくと1980年代中頃から減少傾向なんだそうで、これはつまり「桃太郎」ブームがあったにもかかわらず、支持が頭打ちになったことを意味するのであった。
 その理由の半分くらいを、ぼくが指摘する「いまのトマトにほんとうの旨さがない」ことが占めているのではないか……

 だが一方で、そうはいっても家庭で”食べ幸(消費)”される生鮮野菜ランキングでは、ダイコン、ジャガイモ、キャベツ、タマネギにに次ぐ堂々の5位入賞であり。家計調査結果を見れば、野菜類全般では横ばいか漸減傾向にあるなか、トマトはネギと並んで、目立った増加を見せている数少ない野菜でもあり。世界的に見れば”食べ幸”野菜のトップに君臨する。
 この不思議も、トマトらしいといえなくもない。

 現在のトマトの品種数、色々彩々〔いろいろとりどり〕、世界におよそ8000種とか。
 育ち方の謎めいて特異な、愛らしくもしぶとい、グルタミン酸の旨味を内包するリコピン・レッドの逞しさ…とでもいおうか。

 そんなトマト畑に想いかよわせながら、ぼくはトマトをトマトらしく育てることと、そして品種改良のむずかしさを想う。
 それはつまり、育て方はそれぞれの植物本来の”もちあじ”を伸ばす方向にあるのかどうか、はたして品種改良に無理はないのか、あるいはまた逆に”退化”になっていはしないのかどうか。

 たとえば、このたび出逢えた高知の「徳谷トマト」や熊本の「塩トマト」の場合は、”もちあじ”をひきだす栽培法であるのだろう、が。
 しかし、品種改良の方はおしなべて”甘味”追求に偏っている印象、ぬぐいきれない。

 なるほど、”甘み”は”旨み”だが。
 そちらを追求しすぎるあまりに、ほかの”もちあじ”が犠牲にされている例が少なくない。
 つまり”甘いけれども、ものたりない”のである。

 トマトでいえば、甘いトマトはできたけれども、ほとばしる旨さはどこかへいってしまった。
 しかし、真実のトマトの甘みというのは、蔕のあたりのアオ臭さ酸っぱさと、カプッとかぶりついたとき顔じゅうにほとばしる果肉の瑞々しさとのあいだから、ジワッと味蕾を刺激するもの。
 果肉のなんとはなしにフカフカした食感なんぞ無用なのであった。

 ……………

 ともあれ、ぼくはいま、友が送ってくれた小玉の「徳谷トマト」を生で味わいつつ、果肉から小さなタネをとりだす作業に余念がない。
 そうなのだ、この種子から、ひさしぶりにトマトを手づくりしてみよう気になっている。
 成功にせよ不成功にせよ、いずれまた、報告のときがくるかと思う。