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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

スプラウト(もやし)の群生に胸躍らせながら想ったこと

-No.1275-
★2017年03月19日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2201日
★ オリンピック東京まで → 1223日



スプラウト

 言葉は語感ぬきに語れない。
 いますぐには「たとえば…」ともちだせる好例が見つからない、けれど。
 語感によって言葉は、好まれもすれば、敬遠もされる。すんなり頭に入るコトバもあれば、あらぬ誤解をまねくコトバも、モヤモヤの五里霧中をさまようことになるコトバもある。
 語感には個人的なものもあるが、かなりたかい確率で一般的なものもある。

 「スプラウト」という言葉を聞いたとき、初耳に意味をはかりかねたけれど、どことなく「芽生え」の感じは伝わった。
 この言葉がいま、生活見なおし、再発見思考の人々のあいだに浸透してきているようだ。

 「Sprout」
 「植物の新芽」だが、それを野菜として食す。
 つまり、はやい話しが「もやし」で、「発芽野菜」とか「新芽野菜」とも呼ばれたりする。
 (いまハッと想い出したのは、醗酵の世界では酵母を「もやし」と呼び、しんじつ麹を「萌やす」のであった)

 そういうことなのだ…けれども、「スプラウト」というときには「育てる」ところに意義をもたせる。
 萌えいずる生命感をいただくわけで、しかし成長初期の幼さは、たっぷり群生させることで所期の目的を達成する。

 植物園の売店に見かけ、(育ててみようか)気がうごいたのは、家に栽培容器になりそうなガラス器がいくつかあることを想いだしたからでもあった。
あとは用土さえあればいい、育てる系はもともと好きな分野だからハードルは低かったし、ふだんは木工にいそしむボクだがガラスというのもまた愛好する素材だった。

 そのスプラウトはガーデンクレス(コショウソウ)という、代表的な「もやし」の一種らしかった。
 ぼくにそのへんの詳しい知識はないけれども、種子ならなんでもいいというものでもないのだろう。少なくとも、密植・密生しても他の仲間たちに負けず、めげずに育つ楽天調和型の性質がもとめられるのではないかと思う。

 なんでも「スプラウト」には、おおまかに4つの種類がある、という。
  〇もやし型……豆型ともいって、緑化させない暗室育ちのもの。大豆もやし、黒豆もやし、など。
  〇かいわれ型……アブラナ科型ともいって、暗室で茎を育てた後たっぷり光をあて緑化させたもの。マスタード、クレス(芥子菜)、など。
  〇中間型……暗室で発芽後すぐに緑化させたもの。
  〇発芽豆ごと型……緑豆、発芽玄米、など。

 概観をながめると、いずれも「暗室育ち」が基本になっており、そうすべき(或いはしたほうがよい)理由があろのだろう。
 それはきっと発芽のはたらきによる合成と栄養の芽生えかと思えるが。
 〈もっとお陽さまを!〉タイプのぼくは、緑の萌芽の愉しみも大きいので、陽のさす室内で育てた。種子の袋にも「暗室で育てるように」との指示はなかった。
 ガーデンクレスのスプラウトは、播種のあと翌日くらいから土をもちあげる勢いで芽を出しはじめ、1週間くらいその若緑で目を愉しませてのち、サラダやほかの料理のトッピングとして食卓を愉しませ、収穫をおえた。
 1袋の細かい種子たちは、卓上のガラス鉢で3~4回分、微笑みの芽生えを見せてくれた。

 それから、またすぐに、こんどは有機エコ食品のカタログに「ラディッシュ」のスプラウトを見つけて注文、届いた種子袋を見ると前のとおなじデザインのものだった。
 熊本県天草市の「グリーンフィールドプロジェクト」という、ベンチャー系の会社らしい。
 次からはオンラインショップで注文できることも知れた。

 「もやし」というかたちの野菜利用は、新しいものかと思ったら、これがなかなかそうでない。
 5000年も前の古代中国ですでにモヤシが栽培されていたというし、日本でも平安時代書物にカイワレダイコンの記事が見えるそうな。
 18世紀、大航海時代キャプテン・クックは長い航海の船上で大麦のスプラウトをつくり、船乗りたちの栄養補助に役立てた、ともいわれる。

 以上のとおり、見た目にも滋養の観点からも愉しみな「スプラウト」。
 このまま趣味として定着しそうな気もするけれど、いっぽう、やがては飽きがきそうな感なくもなし、また、冬枯れ室内の潤いに季節限定のことになりそうな気配もあって……

 もうひとつは、ぼくなりの生命観が素朴な疑問をなげかける。
 (はたして、それを食べてしまっていいものだろうか)と。

 魚の世界でいえば、チリメンジャコ(縮緬雑魚)。生でシラス、干してゴマメ。
 ウルメやカタクチなどイワシ類をはじめ、イカナゴほか小魚たちの幼生である。ウナギのシラスもあれば、アユのシラスもあるが。
 これが群れているところを、人が、蚊帳〔かや〕のように目の細かい網でもじどおり一網打尽にして、生であれ、茹でにしろ、干そうが、煮ようと、なにしろ大量に獲っつかまえて喰っちまう。

 しかし、別の生きものではない、育てばそれなりにいっぱしの魚になるやつ、資源の青田刈りもいいとこ、いってみれば乱獲ではないのか。
 反論があるのはワカッテいる。
 「多いものは数千・数万と産む卵の、ほとんどは他の生きものの餌となって喰われ、成魚にまで育つ割合はわずか1%から数%の範囲にすぎない、多産はそのリスクをのりこえる手段でもある、それも生態系のうちだ」と。

 なれど、しかし。
 人間は生態系の頂点にある者で、食物連鎖の低位にあって命の餌を漁るものたちと同列には論じられまい。逆にいえば、そのものたちのウワマエを撥ねているようなものではないのか。
 ヒゲクジラ類やジンベエザメが大きな口でひと呑みにするといっても、船と網とで根こそぎにしてしまう人の業〔わざ〕とは、段が違いすぎないか。しかも人の場合には、喰うものがこれしかないのではない、ほかにいくらでもあるのに「それも欲しいよこせ」といってるようなものではないのか。

 乱獲というより、乱暴狼藉にひとしい行いの果てにいま、人は深刻な資源の減少に直面して養殖に活路を見いだそうとしている、なんて。
 どっかオカシくないか。

 それと同じことが、「スプライト(もやし)」にも言えると、ぼくには思われる。
 種子の粒は、シラスである。
 命の萌芽のもとは、どう使おうと勝手、でいいのだろうか。
 倫理なんて陳腐な考えではなしに、生態系の一族一員として想うのダ。

 悩んでマス。
 ぼくがスプライト栽培をやめるとしたら、あるいはソレが原因、かも。
 
 ……………

(追記)  
 いまある「日本スプライト協会」というのは、もとは「日本カイワレ協会」2005年の改名という。
 そういえば、O-157食中毒事件の感染源がカイワレではないかと疑われたのは1996年のことだった。