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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「識字率」より「識見率」をたいせつにしたい…/ じつはごきげんうかがいみたいなお咄②

-No.1268-
★2017年03月12日日曜日
★《3.11》フクシマから → 2194日
★ オリンピック東京まで → 1230日



◆「ちょこざい」な「わからんちん」めが…「なにぉ、わかってらぃ」

 きのうは、ふとした会話をきっかけに、「識字率」と「識見率」とにまつわる裾野の端っこ、ちょと撫でてみたわけだが。
 言葉のもつ意味・意図に気をくばるキッカケは、たとえば夢にも、もとめることができる。
 
 ボクには夢見が多い。それは「こんな夢…」と語るほどもない、つまり(ろくな夢を見ない)ほどのものだが。
 だからやむなく、夢の見かたについては、それなりのくふうもしてみたわけで……

 もちろん諸事おなじことで、即効性はない、けれども。
 (いい夢をみたい)と想いながら眠ることをつづけていると、見られるようになったからオカシイ。

 いい夢をみたい…といっても、雲をつかむようなことだから、やはりべつに手がかりがいる。
 そのひとつが、コトバを思い泛べてみること、そう、思いつくままに。
 夢見のこまかい内容は、朝起きてみると忘れてしまったいることが多い、けれど。
 このコトバの場合はそれが少ない。

 あらためて気になり、辞書をひくことも多い。
 思えば、親や先生たちから「人に尋ねる前に、まず自分で辞書をひきなさい」とよくいわれた子どものころ。じつは、幼い立場から言わせてもらえば、興味をひかれることが多すぎてそれどころじゃないんダ、重い辞書と悪戦苦闘してるうちにどっかへいっちゃう…という事情もあって、つい「ねぇ、どうして…」身近なところに尋ねてしまうことになるのだった、わけだが。

 いまになってみれば、「辞書で確かめる」ことがあきれるほどすんなり、腑に落ちている。
 その辞書も、じつは一冊ではない。
 頭に予備の、というか別にメモか付箋のようなものが付属していて、これを活用すると辞書がひきやすい、親しみやすいものになることもワカッテいるから、オドロキだ。

 先夜もそれをして寝たら……
 「ちょこざいな」という言葉が、風呂のなかでの屁ひりみたいにポコッと、いきなり浮いてきた。
 時代がかっている、ボクには、そいうことがよくある。

 つづけて「しゃらくせぇ奴めが」とくる、まるで江戸っ子ワールド。
 「ちょこざい」は「さしでがましい、くそなまいきな、りこうぶった」ことだし、「しゃらくさい」もやっぱり「ぶん不相応になまいきな」である。
 「猪口才」も「洒落臭い」もあて字にすぎないが、イエテル。

 つまり、小利口で小賢しい余計者を非難しているのだけれど、それがどうもおかしな塩梅に、ボクが他人に言っているのではなく、逆に他人さまの不興を買っている様子。その証拠に、
「なにぉ、わかってらい」
 なんてバカな見栄をきっている、「小癪な奴」が己だからイヤになる。

 ついでに「癪に障る」の「癪」というのが気にかかる。
 「癪」というのは、古典落語の世界によくでてくるから、言葉にはなじみがあるだが。
 「(特定の病いを指すのではなく)さまざまな病気によって胸部・腹部におこる激痛」の通俗的呼称といっても、どうにもいまひとつピンとこない。
 「腹だち、いかり、あるいはそのような状態になること」なんて解説になると、もうお手上げ。
  これを、また「さしこみ」とも言うらしい、ますます混乱するばかり。

 じつは〈辞書にも限界がある〉というより、〈説明の限界に迫る〉のが辞書の役どころ、といってともいいくらい。
 
 そこへ、邪魔だ、どきな、と「癇癪」玉が炸裂。
 こうなると「ちょっと癇に障る、いささか腹が立つ」どころではおさまらない、なにしろ「癪」のあたまに「癇」がくる。

 いつもは万事におうような横町のご隠居の、なぜかしらん虫のいどころがわるくなったかして、感情の波だち激しく腹に据えかねる風情だ。神経過敏で怒りやすい性質〔たち〕の大家さんなんぞは「癇癖」と嫌われることになる。
 けれども、これでもタチの部類でヤマイとまではいかないらしい。

 年寄りが「癇」なら、子どもは「疳」、「ひきつけ」をおこす。
 この言葉にはナットクの親御さんが多いのではないか。

 そうこうするうちに、日が暮れかけて夕焼けの空に、なぜかカラスが「カー」と鳴くと。
 真打登場は「置いてけ堀」。
 なぜか魚がよく釣れた帰りになると、どこからともなく「置いてけぇ、置いてけぇ」と声がする…という、いわずと知れた本所七不思議のひとつで。
 怪談みたいにドロドロしないところがイイのだが。

 これが転じて「他者を見捨て去ること、置き去りにすること」をさす、となると、はて如何なものか。
 「置いてけ」っていうから置いてったものを、あとから「置いてきやがった」と逆さに恨むのは筋ちがいというものだろう。
 いくら語呂がいいとはいえ、「おいてけぼり」を「置いてけ堀」にされちゃ、そりゃあんた、ちょいと間がわるいってもんじゃないんですかい……
 (おあとがよろしいようで)