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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「識字率」より「識見率」をたいせつにしたい…/ じつはごきげんうかがいみたいなお咄①

-No.1267-
★2017年03月11日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 2193日
★ オリンピック東京まで → 1231日

*《11.3.11》あの東日本大震災から6年がたち、亡くなられた方々の7回忌を迎える…黙々合掌*
*この日だけは、あれから毎年、マスコミこぞっての特集さわぎ…ぼくは、黙して掌をあわせ祈りのときをすごす人々に心をよせている*



◆「識字率」というのがある

 「文字の読み書きができる人の割合」というやつで、かつてはこれが、国や地域の文化文明のほどを示す尺度とされた。
 知識の深化は文字によるところが大きいと、そういうふうに受けとめられたからである。
 識字率が低いようでは文明国といえない、というわけで、しかしこれも多分に、いわゆる現代先進国の驕りであるわけだけれど……

 なにしろ、そこへいくと日本(人)は、むかしから教育熱心な民族そして国柄であったから、おかげさまで識字率は高い。おそらくは、かぎりなく100%に近い(統計的には99%以上ということになるらしいが)はずだ。

 しからば、しっかりと、どこに対しても恥ずかしくない文明国か…ということになると、ちょと首を傾げたくなることが多い。
 はたして、アイヌアボリジニなど文字をもたなかった民族の智慧に敵うほどのものがあるのだろうか、と。

 個々の考えにいろいろ、さまざまあるのはいいが、脳の皺がひとすじ刻みを増すほどの考え、熟慮をくわえた末なのかどうか。
 ひとごとじゃない、ぼくなんかも常々、つい考えが上滑り気味なのを恥ずかしく思っている。

 つまり、「識字率」よりも「識見率」。
 ほかでもない自分なりの判断・評価ができるか、その判断に思いすごしや誤解はないか、評価に歪みはないか。
 それよりなにより、そもそも、ナニかするのにナニか考えのあってのことか、どうか。
 ほとんど衝動と情動だけで、毎日を生きてはいないだろうか。

 ……………

 以下は、そんなこととはいっさい関係のない、ごきげんうかがいの咄みたいなモノだが。
 見通しのきかない、かぎりなく不透明な現代ではことに、掬ったはずの網の目からこぼれゆくコトバの持ち味にも気を配りたい。 

 先日、たまたま食事どきのテレビに映しだされた子どもの駆けっこ場面、ひとり離れて遅れアゴを出す子に。
「げっぱ」
 かみさんが吹きだす、その言葉のアタマには「やぁだ(あの子ったら)」と接頭辞だか感嘆詞だかが付いていた。

 北海道の表現で「どべ」、「びり」のことだと教えられる。
 「どべ」はわりあい広い地域でつかわれる方言で「泥」のこと。「びり」はナニか破れるときの擬音語「ビリッ」から来た語に思えるが、念のために辞書をひもとくと「使い古して性〔しょう〕の抜けた布」という意味もあることが知れた。(やっぱり、破ける)んダ。

 いずれにしても「どべ」にも「びり」にも、「いちばん下」「最後の最後」の、語感ぴったし。
 「げっぱ」は、まさか「出っ歯」ではあるまいが、その響きには近しいところが感じられる。

 いちばん下、最後の最後は、人体では排泄の「尻」にたどりつく。「どんじり」は「どべ‐の尻」、では「しんがり」は「尻‐刈」かというと、さにあらず、「尻駆け」の音便に戦国余波のニオイがする、音が飛んでいる。
 戦陣ではだいじな役だが、先駆け(魁)のような誇らしさはない。「あとぞなえ」あるいは「しっぱらい」ともいった…と辞書にはある。やっぱり「尻」なんダ。

 くだけて「どんけつ」、「びりっけつ」ともいう。
 「鈍‐けつ」、「ビリッ‐けつ」と置き換えると不思議なほどのナットク感がある。
 「けつ」だって「尻」である、「尻の穴」が「どんけつ」だけれど、その「穴〔けつ〕」鍼灸の「ハリをうつ勘どころ」の意味もあることを想うと、なにやら奥が深い。

 「ぽか」「どじ」「へま」なんかも、ニュアンスのちがいはあるものの、およそ「およばない」「およびもつかない」ことにかわりはなくて、からかいつつもいじらしく思う心情が滲んでいる。

 ……………

 てな具合に、泉のごとく湧いて枯れることがない。
 つづきは明日また、のことにさせていただこう。