読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

古い読書人、デスクトップ文房の必需品「不審紙」/ボクもふと使ってみたい誘惑にかられた

文化・社会・観賞・読書・思想

-No.1256-
★2017年02月28日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2182日
★ オリンピック東京まで → 1242日




◆「付箋」の先祖は「不審紙」だった

 寺田寅彦、最晩年の随筆集『柿の種』(岩波文庫、1996年)を読んでいたら、「不審紙〔ふしんがみ〕」という不審な表題の一編に遭遇した。まったくのところ「ぶつかってしまった」感じで、読んでみるまでてんで腑に落ちなかった。

 明治・大正・昭和の物理学者で、随筆家にして俳人夏目漱石一門の筆頭弟子というより、もっとも親しい友人だった寺田寅彦(1878~1935)の著作は、その警抜な着想と思考回路がおもしろくて若いときにずいぶん読んだが、この「不審紙」には覚えがなかった。

 寺田自身「子供の時分に漢籍など読むとき」とことわっており、「よく意味のわからない箇所にしるしをつけておく」ための、「あとで先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞」といっているから、どうやら現在の付箋のようなもの、とは分かるが、いっこうに実態がつかみきれない。

 したがって、寺田の言わんとするところを嚙み砕いて説明もできないから、少し長くなるけれども師の文をそのまま引用してみる。
「短冊形〔たんざくがた〕に切った朱唐紙〔しゅとうし〕小片の一端から前歯で約数平方ミリメートルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたのを、右の拇指の爪〔つめ〕の上端に近い部分に写し取っておいて、今度はその爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤〔のみ〕をつぶすような工合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。」という。

 これすなわち不審紙で、不審の箇所につける紙片のこと、とするが、なお付け加えて。
「嚙み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に移し次に爪に移して張り付けるとちょうど赤い表が本のペ-ジで上に向くのである。朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤くなかったのである。」
 懸命に、その在りようを正確に伝えようともがいているところをみると、すでに不審紙の珍しい存在になっていたらしい世相が透けてくる。

 それでいて寺田先生、それを愉しんでいる風でもあるのは、流石で。
「不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはがしてしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。」
 追憶の幻像を懐かしむ……

 ぼくの親爺さんは明治も末の生まれで、宝生流謡曲を習い、自身も舞台にあがった人。和綴じの謡曲本に鉛筆で、注意点や強弱表現の調子どころなど記していたものだが、不審紙の経験が幼少の頃にあったかどうか。
 ぼくも父親にならって鉛筆で、余白に細かい字で書きこみをしたり、傍線を引いたりしたが。とどのつまりは、新時代の蛍光マーカーで本を汚しまくったくち。
 ただし、これは後の寺田先生も同じことだったらしい。

 ところで。
 こんな古ねた、いまどきのネット情報にはまさかあるまいと思ったら、アッタ!
 しかも、言葉の説明だけでなしに、幅1センチほどの色紙を使う、とまで記されていた。

 江戸後期の文政6(1823)年に、大蔵虎光(狂言大蔵流7世)が著した『狂言不審紙』という狂言の難解語句注釈本があったことまで出ていて驚いた。もちろんボクは知る由もなく。

 もっと驚いたのは、吉川英治『忘れ残りの記』の文例がとりあげられていたこと。
 じつは、この本。
 ぼくが小学校の図書室から借りて読んだ『宮本武蔵』で、その作者吉川英治を知り、あれこれ興味をひかれるままに読み漁った著作の、なかでも身近な人となりが識れた想い出の1冊。そのなかに、

「あの和書の中へ点々と貼った紅梅みたいな朱唐紙の色だけには、子供心にも優雅なものを感じたりした」
 と記述があったというのだが。

 しかし、なにしろもう昔のことで、いまとなってはどうにも、とりつくしまもない。
 たぶん、なんのことやら分からないままに捨て置きにして、そのさきへ読みすすんでしまったということだろう、不審紙も貼らずに……

 そんなぼくは、いま。
 不審紙の現代版「付箋」、「ポスト・イット」というやつのお世話になって書物を汚すことから免れているのだけれど。
 あれも糊の具合によって出来不出来があり、さすが本家本元の3M製は糊のこりが少ない。
 そこまで気にするボクは、やっぱりかなりの文房好きにちがいなく、若い頃は銀座の伊東屋へ足しげく通った。
 
 …で、ふと気づけば。 
 もし手に入るものなら(まぁ結局のところ無駄かも知れないけれど)、ちょとためしてみたい気がしているボクが、そこにいるのだった。