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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

〈文章法〉の悩ましさについての一考察

-No.1242-
★2017年02月14日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 2168日
★ オリンピック東京まで → 1256日



◆ドキッとした

 …と言っておこう。
 (ほんとのところはチクと抓られたような)

 近ごろ、若者のあいだに顕著な〈文章法の乱れ〉が指摘されている。
 これも社会学研究の一端だろうか、世の中のことを細々とよく見ている人がいるものだ。

 文章に段落がなく、またあっても、改行のはじめの一字あけ(下げ)がない、という。
 ぼくも、こうして文章を書くときには、たとえ電子メディアであっても基本の文章法を守っている……のだが。
 電子メールを〈打つ〉ときには、この基本がつい、おろそかになる、つまり一字下げを端折ることが多い。

 携帯などでは、空白の入力が面倒なこともあるが。
 はじめから、メールのやりとりなど文章だと思っていないフシも、正直いってある。
 ま、はっきりいってマニアワセ。
 だいじな事柄は、手紙など文章で伝える。

 したがって。
 やむをえず、手紙にかえてメールを打つときには、面倒でも文頭に一字分の空白を入れ、改行にも気をくばる。
 しかし、それもだんだんに、海辺の砂山が波に消し去られていくように、アヤシくなってきているのを、ぼく自身も感じている。

 いまどきの若者たちは、また、文頭の一字下げにかわる手段として、一行あけを多用する、ともいう。
 このことについては、ボクも同断である。

 じつのところ、時代は確実に〈文章ばなれ〉の方向にあるのだから。
 ものを書く人には、世に迎合するのではなしに、伝える術のくふうが求められている、と思っている。

 この一行あけについては、お気づきのとおり、このブログでもずっと試行をつづけており。
 電子メディアの分野では、有効なことがワカッテきている。
 いまは、一般むけの文章法として、どうなのか、を問いかけているところ……

 ほんとのところ、ボクにとっても、ときに文章がメンドウなものに思われることがあるのデス。