どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》2016夏の巡礼-7日目-大槌町②/  「ひょっこりひょうたん島」と安渡の老夫婦

-No.1153-
★2016年11月17日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 2079日
★ オリンピック東京まで → 1345日












◆9月3日、蓬莱島

 城山の上に立って眺めると、外洋にむかって大槌湾のくびれる手間、港寄りに蓬莱島が見える。
 小さなお堂に弁天様を祀って漁民たちの信仰を集めるところだが、世間一般にはNHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』(井上ひさし他脚本)の舞台モデルとして知られる。

 この島が《11.3.11》の大津波来襲に耐えてのこったニュースも、「ひょうたん島」がらみの話題として全国に発信され、そのため、あらためて認知度をたかめることにもなった経緯があった。

 その後、いちどは耐えてのこったかに思われた「ひょうたん島」は、大津波の衝撃に根底から揺さぶられ、痛めつけられた傷痕ふかかったとみえ、灯台は崩壊、お堂にも被害がおよんだ。
 震災前には、港の外れから防波堤を歩いて渡れたのが、それも沈んで不可能になり。

 ぼくらは、港の岸壁から遠望するしかない日々がつづき……

 それでも歳月は、被災者の住戸復興に先駆けて、この島のお堂と灯台を再建、復活させた。
 その灯台やお堂が、大きさも色もデザインも、島の在りようとアンバランスだと、ぼくら部外者は勝手に言いたい放題の評判をしたものだったが。

 じつは、ボク、(前にも後にも)この蓬莱島、『ひょっこりひょうたん島』にはじめて渡る。

 人が生きてあるから風景が活きる、ことをぼくらは知っているが、いっぽう、その人と会うことがなにより草臥れもする。
 そんなとき、この大槌町では、いつも城山に上がるか蓬莱島を眺めるかする。
 つまり、そういう存在だった。

 初夏の溌剌気分をとりもどしたような…でも、やはり、空にはしみじみ秋の気配のしみてくるような…ふしぎな光りあふれるなか。
 さほどの距離ではない、にもかかわらず狭い防波堤上の道には、浮世をはなれた気分あふれる。

 小島の磯に近づくと、湾口の西に張り出す箱崎半島の突端、(きのう訪れてきたばかりの)御箱崎が遠望され、 振り返れば大槌湾内の水面が、あの日のことなど、もうすっかり忘れてしまったように凪いで…。
 
 ともかく風景が、ふと現実離れ。
 小島と、不釣りあいに大きな赤い灯台と、とってつけたように生な緑のお堂とが、まさしく芝居舞台の書割かなんぞみたいであった。

 防波堤につながれて漂流はできない、にもかかわらず、「…どこへ行く」雰囲気をただよわせ、「水平線に、なにかがきっと待っている」気が、不思議としてくるのであった……




◆安渡の兼太郎さん、ヤスさん

 大槌の人で、邂逅があった最初の人が、大槌川河口の漁港の背後、JR山田線の線路沿い、安渡に住む。
 漁家にとって「安渡」という地名は、予祝の意味あいがあったろう。
 兼太郎さんも、漁師を生業としてきた人。

 鉄道の線路が飴のように捻じ曲げられるほどの津波によって、すべてを押し流されたが。
 持ち前の達観というか、「だって生きるってのが、そういうことだろう」というような、天性の土性っ骨みたいなものをもっている。

 それに輪をかけて、頭も口もよくまわって達者な連れあい、ヤスさん。
 こちらのほうが、ずっと土地の名物で、テレビ番組などにもしばしば登場する。

 兼太郎さんは、あの《11.3.11》後に、生きがいもとめて一念発起、鎮魂の刺繡「刺し子」をはじめた。
 縫物にかけては年季の入っているヤスさんから、あれこれ、チュウモンがつき、アドバイスがあり、ときにクレームもつく。
 その達者な口に対抗しながら、兼太郎さんもけっして負けてはいない、頑固に入った年季はダテじゃないのだ。

 ぼくたちも、つい惹き入れられるカッコウで、二人の手づくり品を代理販売させてもらったりもしたのだが、もとより手先が器用なのだろうが、いつのまにかもう4年にもなるつきあいの間に、刺繍の手が確実に上がってきている。

 それでも屈託することがない、めげる、ことをよしとしない。

 小国兼太郎さん。ことし92歳。元漁師。
 人生、平らかであったわけではない。戦中はシベリアに抑留され、故郷では3度の津波を経験している。
 昭和三陸津波(33年)のときは9歳、チリ津波(60年)のときは海の上にいた、「津波てんでんこ」が骨身に沁みている。

 小国ヤスさん。84歳。
 あの《11.3.11》で、各地から訪れてくれたボランティアの人などに、「出逢いの絆」ノートを綴ってもらって5年半。
 ノートは11冊になり、綴ってくれた人の数は250人ほどにもなった。

 二人が移り住むことになっている災害公営住宅は来年、完成する予定。
「できれば復興した町をこの目でみたい」
 と願っている。

 ぼくたちも、その日まで通いつづけるつもりでいる……