どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

ボブ・ディランとノーベル文学賞の間の見えない断層/栄誉はあなたのものだ、好きにしてくれ…

-No.1131-
★2016年10月26日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 2057日
★ オリンピック東京まで → 1367日




◆2つの「えっ、ほんとかょ」

 1つめ。
 ことし2016年の、ノーベル文学賞に音楽畑(世の中はミュージシャンと称する)のボブ・ディラン氏が選ばれた、と知らされたときだ。
 はっきり、ショックだった。
 純度の高いショックには、余計な感情などさしはさまれない、ただ靄もやしたものをスパッと切り裂かれた爽快だけがある。

 ノーベル文学賞…というものが、ますますわからなくなった。
 じつは、ノーベル平和賞…というのが、しばらく前からわからなくなっていた、のだけれど。
 村上春樹氏が、いつ受賞するか、と騒がれはじめたときあたりから、じつはボクには、すでにノーベル文学賞がわからなくなってきていたのだ、けれども…。

 ディラン氏が選ばれたことに、世界の文学者や作家たちの一部から猛反発の声があがり、侮辱だというのまであっのには呆れて、これには皮肉をこめて「あなたは誰ぁれ」と言いたくなった。文学って、その程度のもんですか。

 下馬評ばかり高くて、なかなか受賞できない春樹氏に、じつは危機感を抱いていた熱狂的なファンのなかには(なんでもハルキストとか呼ぶそうな)、これでチャンスが大きくなった、と歓迎したという。
 氏の作は純文学ではないので、じつは心配していたらしい。なんだ、そんな程度か……

 ぼくは、村上春樹氏の作品をおもしろく読んだ一人で、ウマいと認めてもいるけれど、じつは、ノーベル文学賞にはふさわしくないと思っていた。
 対象を純文学にかぎるほど、スウェーデン・アカデミーの基準がせまいとは思っていないが、でも、ぜんぜんそんなんじゃなくて、やっぱり違うと思う、〈ふさわしくない〉んじゃないか、としか言えないのだけれど。

 ディランにしたって、「現代の吟遊詩人」と讃えるむきがあるようだが、ぼくは、これも違うと思う、吟遊はもっと根源から自由で孤独な姿だと思っているから。

 たまたま、ぼくの人生で巡り逢ったあの(日本では全共闘と呼ばれた)世代、時代は、ボブ・ディランジョーン・バエズがエネルギー源だったようなところがあって。
 多くの仲間たちが昂奮し、影響され、にわかにギターの弾き語りもどきがふえ、あちこちの人だかりで彼らの曲が唄われるのを、ぼくは隅っこのほうで聞きながら、とんでもなく別な想いに耽っていたものだった。

 そんな時代をあゆませてもらったから、ディラン氏のノーベル賞はうれしい。が、文学賞かなぁ……

 ぼくは、ノーベル賞の研究者でも事情通でもなく、わざわざ調べあげるシュミもなく、ただ関心をもつ者だけれど。
 栄誉賞であるノーベル文学賞、とうぜん時代を反映することになる賞というのは、対象とされるムキにもとうぜん幅があって、その指針の振幅もかなり大きいとは思うのだけれども。
 しかし、やっぱり、最終的に〈ふさわしい〉のであろう。

 そこのだいじなところが、ノーベル文学賞(平和賞もおなじ)は、どうもヨクワカリマセ~ン。
 ……と想っていたところへ。

 2つめの「えっ、ほんとかょ」。
 ノーベル文学賞授与の発表以後、ディラン氏本人との連絡がとれない、という。
 こんどは、(それそれ、それがあるんじゃないかと)思っていたことだった。

 直後に立ったステージでも、彼はついにそのことにはいっさいふれなかった、と。
 友人の歌手という人からは、「彼はノーベル賞を認めたくないのでは」という、気になる意味深コメントもあったりして。

 ついに、授与発表から4日たった17日。
 スウェーデン・アカデミーは本人への連絡を断念した、ことが明らかになった。
 これで……
 そもそも賞を受けるつもりがあるのかどうか。
 授賞式には出席するのかどうか、も。
 ワカリマセ~ンことになった。

 アカデミー側のコメント、「受諾してくれると思う。そうでなければ悲しいが、栄誉は彼のものだ。心配はしていない」は、まぁとうぜんのこと。

 さて、ディラン氏本人には……
 受賞の意思表示も、もちろん式にも出席せず、ついにだんまりのまま、という最高のカタチがあるわけだし。
 授賞式場を、コンサートホールにかえてしまうという、世俗的にすぎるがサイコーのパフォーマンスしてもいい。
 きっと、あのデヴィッド・ボウイベルリンの壁を前におこなわれた野外コンサートと並ぶ歴史的なこと、になるにちがいない。

 そうして、想えば、ボブ・ディランというミュージシャン。
 人生のゴールまぎわにまで、こんな、とんでもないサプライズを用意されて。
 ほんと、考えてみればシアワセな人。
 (あなたのせいで、とはいえないまでも、あなたの影にかくれて不遇におえる、あまたの人生もあることを、せめて想ってみてほしい……)

 そのうえで。
 授与する者と、受賞する者の間の、ふか~い断層は…まぁ、いい。
 栄誉はあなたのものだ、好きにしてくれ。

◆……と思っていたら

 発表から2週間後、続報アリ。
 あの鷹揚さは、やはり演技であり、じつはあれをきっかにナニかのリアクションがあるもの、と信じていたらしい。
 スウェーデン・アカデミーはついに痺れをきらし。
 「無礼、かつ、傲慢だ」
 と、ディランを避難する声明をだしたという。

 あ~ぁ、これで台無し。
 ノーベル賞を、ますますワカラナイものにしてしまった。
 欧米人種につきものの、ものわかりのよさの裏にひそむ、それこそ自分たちがいちばん優れているという、まぎれもない”傲慢”さのあらわれ、でしかない。

 ふりかえってご覧な、ノーベル賞が誕生したきっかけを…。
 ダイナマイトの発明により、多くの人々を死にいたらしめてしまった反省にたって、その莫大なダイナマイト財産と償いの意志をもって創設された、のではなかったか。

 反戦や反権力、反核や反体制に、理解をしめしてきたかに見える、あれにはやっぱり無理があったのだろうか……