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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

卓球ニッポンの夜が明けた、リオ・オリンピック/「ぴんぽん」とともにあった戦後の復興を想う

オリンピック・スポーツ

-No.1064-
★2016年08月20日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1990日
★ オリンピック東京まで → 1434日




◆荻村伊知郎のペンホルダー

 卓球男子、水谷隼くん(27)が銅メダル獲得。マッチポイントをものにした瞬間、ガッツポーズの雄叫び、天を仰ぎ、そのまま床に倒れこんだ。
 勢いにのったニッポンは男子団体でも決勝進出。ざんねんながら中国には歯がたたなかったけれど、やったね、初の銀メダル。

 それが……
 卓球の「オリンピックでのメダルはこれが初」ということに、一瞬の「アレ?」感がある。
 (そんなはずはない…んじゃないか)という想いだ。

 それほど、この〝競技〟というか、〝遊び〟というか、〝ゲーム〟というかは、日本人になじみの深いものだった。
 とくに戦後生まれの、戦火の焼け跡から出発した子どもたちにとっては、場所をとらず、天気にも関係なくできたピンポンは、よき友であった。
 そうだ「卓球」よりも「ぴんぽん」であった。
 ピンポン台は旅館にも用意され、町なかでも気軽に遊べた。

 1950年代、一人の名選手の登場が、卓球人気に火をつけ不動のものにした。
 荻村伊知郎。全日本選手権はもとより、世界卓球選手権でも、男子シングルス、ダブルス、混合ダブルス、団体でタイトルを総なめにした男。
 彼のラケットの握りはペンホルダー、いま主流のシェイクハンドを圧倒して、当時の子どもの多くがペンホルダーだった。
 (あの頃の懐かし噺は、はじめるとキリがない…またなにかの折に…)

 彼がいたら、オリンピックでのメダルも確実だったにちがいない。
 そうなのだ、卓球がオリンピックの正式種目になったのは、荻村伊知郎引退から後の1988年ソウル大会からであった。
 (荻村伊知郎氏はその後、国際卓球連盟会長、荻村杯国際卓球選手権大会という冠大会がある、1994年没)

 その頃には、現役引退後に荻村が「ぴんぽん外交」で国際大会に復帰させた中国が台頭、「前陣速攻」で世界を圧倒した。
 「テーブルテニス」とも呼ばれる卓球は、欧州勢も以前から強かった。
 ほんもののテニスが欧米流なら、テーブルテニスは亜細亜流だろうと、思ったいたらこれがとんでもない。

 卓球という競技は、非常に智力と体力とを要するスポーツ。
 「卓球はチェスをしながら100mを走るようなもの」という荻村がのこした名言があるとおり。
 ぼくもそれを高校時代、体育祭の部活対抗リレーで痛感されされた。専門の陸上部をもおさえ、ぶっちぎりで勝ったのが卓球部であった。

 それほどの競技だから、ニッポンは長い苦闘の歴史を耐えてきた、といっていい。
 とくに男子は、愛ちゃん(福原愛)人気の女子にくらべて陽の目を見ることが少なかった。
 (その女子も、今大会、団体で銅メダルを獲得、ロンドンにつづいての連続メダル、よくやった)
 それを乗り越えての初メダル、歓喜の雄叫びにはワケがあったのダ、祝ニッポン卓球、ぴんぽん魂!