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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

北海道新幹線にまつわるヨシナシゴト/      ひとつの時代が去り、つぎの時代が来るのみ…なれど

-No.1046-
★2016年08月02日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1972日
★ オリンピック東京まで → 1452日






◆近郊野菜の沃野…新函館北斗駅

 沖縄から帰って1週間後の6月17日に、北海道へ向かう。
 昨秋、亡くなった義兄の納骨と、これで墓守をする人もなくなったカミさんの実家の、墓仕舞いに行く。

 そのむかし、カミさんの両親が結婚してまもなくの大正11年。
 まなじりけっする思いで(あったろう)、宮城県北の町から、新天地をもとめて渡道。
 いうまでもない、青森からは連絡船で函館へ。

 現在の函館本線、函館-小樽間は明治40(1907)年に開通していたが。
 両親が目指した海峡沿いの渡島半島西部は、まだ夜明け前といったところ。
 函館から木古内経由、江差までの江差線、全通は昭和11(1936)年。
 さらに木古内から岐れて松前まで、松前線の全通は昭和28(1953)年のことになる。

 その途中、福島町(渡島福島駅)に移り住んだ両親は、当時、沿岸の港々をつたって行く渡船に揺られて、ずいぶん難儀なことであったという。
 町の外科医の代診を手はじめに、のちには薬店を開業して3男3女の子を育てあげたが…。

 福島町をふくむ沿岸西部の町々の、その後は、時代に翻弄されつづける。
 津軽海峡津軽半島側に、青函連絡船にかわる輸送手段としての青函トンネル構想がもちあがり、いよいよ工事にとりかかると、鉄道新時代への期待はいっきに高まったものの。
 艱難辛苦の長いときを経て、トンネルがやっと開通してみれば、江差線の一部が、その海峡線の一部として利用されただけで、あげくは赤字線廃止の憂き目を見ただけ。
 ことし春、北海道新幹線の開通後は、唯一、江差線いきのこりの函館-木古内間だけが第三セクター道南いさりび鉄道としてのこされた…。

 そんな遠いカミさんの故郷への道を、北帰行タイプのぼくもまた連れ添って、いくたび海峡を渡り、潜りぬけたことだろう。
 
 しかし、新幹線時代のドライな空気は、”旅情”などと「しょうもないことを」とでも言いたげに、車窓のはるか遠景に追いやって、満員の乗客の夢とやらを乗せ、ひたすらに驀進。
 青函トンネルの案内も、在来線特急時代の半分ほどに短縮され、下る…海底を進む…上る、といった掘削の労苦をイメージする間もなく、4時間ほどで新函館北斗駅着。
 ここは、かつての函館本線渡島大野駅。
 そこは、函館朝市で市民に愛されつづけた近郊野菜の沃野。
 そんなことなど、おかまいなしの旅客たちは、そそくさと、函館行き「はこだてライナー」の乗り継ぎをいそぐ。

 その、在来線ホームの反対側には、おりしも札幌行きの特急「スーパー北斗」がはいってきたけれど…。
 (そっちは、また、新幹線が伸びてからね)とでも言いたげな人たちに、そっけなく見送られた。

 ……………

 ぼくたちは、その翌日、いまは線路の消えた福島の町へ。
 車で片道2時間の距離をかせいで、墓仕舞いごとをすませてきた……