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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

モハメド・アリ…ヘビー級史上最強のチャンピオン/「蝶のように舞い、蜂のように刺す」男の死を悼む

-No.1011-
★2016年06月28日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1937日
★ オリンピック東京まで → 1487日





◆雲の上……天空は碧空

 〈忘れ潮〉の沖縄紀行。
 旅立ちは6月5日、日曜日だった。

 その前日、出発準備の最中に、アメリカから訃報があった。
 プロボクシング・ヘビー級の元世界チャンピオン、モハメド・アリが亡くなった。
 死因は敗血症ショック、74歳、ぼくより3つ年上だった。

 現代の、もっとも新たな革命的な男のひとり。
 1960年ローマ・オリンピックのボクシング、ライトヘビー級で金メダルを獲得したときの名は、カシアス・クレイ
 その後、イスラム教に改宗してからのリングネームはモハメド・アリ
 64年、ソニー・リストンを倒して世界ヘビー級チャンピオンになったのだが。

 そのボクシングスタイルが、革命的に垢抜けていた。
 それまでのヘビー級ボクシングといえば、グリズリーみたいにどでかい大男同士が、ドタドタとべた足で、ただ力まかせにぶん殴りあうだけの、はっきりいえば〈見世物〉でしかなかったのだが。
 彼は、190㎝のヘビーな肉体で「蝶のように舞い」、203㎝のリーチから「蜂のように刺す」パンチを炸裂させ、ヘビー級のリングに目の醒めるようなアウトボクシングを展開して見せた。
 彼の華麗なフットワークと、鋭いジャブからストレートへのコンビネーションが、どれだけ多くのヘビー級ボクサーのグローブをむなしく空振りさせた挙句、リングに沈められたことだろう。

 18歳の初戦から67年春の29戦まで無敵(無敗)のチャンピオンは…。
 ベトナム戦争徴兵拒否から3年半、王座を(と同時にライセンスも)剥奪されて〈停職〉を余儀なくされた。
 当時のアメリカ社会では、どれほど痛烈な批難と差別の標的にされたことか…。
 
 以来、マルコム・Xとの出逢いもあって、モハメド・アリは、傲慢な白人社会のアメリカ合衆国で、反戦活動と人種差別撤廃の活動家になった。
 「できる者がしなければならない」革命児になった。

 その頃、映画づくりの世界をけじめたぼくは。
 ある計画のための資金づくりをはじめていた。
 稼ぎは広告コピーの仕事で、働きがいがあれば計画の先のばしも視野にあったけれども。
 稼ぎも働きがいも、思うにまかせず…。

 そんな折、70年秋28歳でようやくリングに復帰したアリは、連勝スタートしながら、翌71年春ジョー・フレージャーとのタイトルマッチ、15回をフルに戦った末に判定で、初の敗北をきっした。
 このビッグマッチは、宇宙中継のテレビ電波で日本でも実況放送され。
 ちょうど、気の進まないスリッパのネーミングに悩んでいたぼくの目の前で、彼はあろうことか最終回にダウンさえ奪われ。

 「できるときにしておかないと臍〔ほぞ〕をかむ」ことを教えられ。
 ぼくは、すっぱり広告会社をやめて稼ぎに専心、やがて計画を実現させた。

 モハメド・アリ自身はその後、みごとに雪辱をはたすと、74年にジョージ・フォアマンを破ってチャンピオンに返り咲いてから10度の防衛に成功。
 さらに後には世界初、三度目の返り咲きまでやってのけたのだが……。

 ぼくの「蝶のように舞い、蜂のように刺す」華麗なヘビー級チャンピオン、かつての鮮やかなアリの姿では、すでになかった。
 生涯戦績61戦、56勝(37KO)5敗。
 通算3度のチャンピオン奪取と、19度の防衛。
 しかし……

 相手にパンチを当てさせない動きが身上だったはずの男が、やはり引退後は、現役時代にうけた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病に悩まされた……

 朝から、はっきりしない梅雨空の東京だったのが。
 羽田から飛びたった飛行機が垂れこめた雲の層を抜けると、夏の到来を想わせる光りが爽やかに輝いており。
 ぼくは、その雲上の天空に、なるべくして革命的に生きた男、モハメド・アリの冥福を祈った。