どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「片づいて暮らす」ための努力…その途中、経過報告/東洋医学療法の「吸い玉」を手放したことなど

-No.1008-
★2016年06月25日(土曜日)
★《3.11》フクシマから → 1934日
★ オリンピック東京まで → 1490日




◆まず一部屋を空にする

 目標をたてて始まった今年、ぼくん家の「片づいて暮らす」作戦も、はや半年。
 苦戦している気分はない、けれども、「楽じゃない」のは確か。

 生活空間をとりまくモノは、他人さまのお宅より、半分とはいかないまでも2~3割は少ないだろう、と。
 自負してもいたし、実際「お宅はよく片づいていているわねぇ」と、お褒めいただくこともあるくらいなのだが(それもお世辞はんぶんか…)。

 「片づける」意識で、あらためて家内を見なおすと、無駄なもの、というか、無駄か無駄でないかの判断に迷うようなモノが多いのに、オドロかされる。
 ぼくん家もやっぱり、モノ余り。
 判断に迷うようなモノは、結局、ほとんど要らないモノなのだと知りながら、現実にどうするかといえば。
 目につくところに(けっして目につかない所に隠してはイケナイ)出して置いて、しばらく様子をみる、執行猶予ですね。

 やっぱり要らない、気になれたら、処分する。
 幸いほかに生かせるアイディアが浮かんだりして、生きのこれるモノの割合は、せいぜい最大で10%くらいがいいところ。

 いっぽうで。 
 悩ましくも救われた気分にひたれるのが、「要らない」けれど「もったいない」モノ。
 ゴミになって収集されていくのを免れ、もらい手との縁組が模索される。

 そんな品が、春までに、段ボール箱6つばかりになった。
 ぼくに、フリーマーケットで売るとかの選択肢はない。
 そんな手間暇、貴重な時間の方がもったいない。

 近所であるバザーに寄附、したこともあるのだ、けれど、ぼくん家からのモノも含め、ほとんどが闇雲の欲望に浚われていくのを見てイヤになった。
 これでは、余ったモノの空間移動にすぎない。

 そこで、もっと公に広がりをもつ活動組織への譲渡を、思った。
 消費偏重社会への反省から、ゴミ減量とリサイクル推進に関心が集まるいま。
 わたしどもの住み暮らす町田市にも、ゴミ処分場に隣接してリサイクル文化センターがある。
 (運営には、障害者の方々も参加している)

 そこへ持ちこんだ、不用品のなかに、心にのこるモノがあった。

 「吸い玉」療法というのをご存知だろうか。
 カップリングともいって、カップ状の容器を肌に吸着、吸引して、筋肉のストレスや血液の汚れなど、さまざまな身体の老廃物をとりのぞく東洋医学療法デス。

 ぼくは、この「吸い玉」器具を製造、療法の啓蒙をはかる会社の社長さんから、施術解説本の代筆を依頼されたのが縁で、みずからもこの療法(施療)で重い消化器疲労から救われたことがあり。
 その後、自前の器具を購入して家族で愛用もし、また人助けの役にたった経験も有しながら、年月とともに忘れ去られ、仕舞われたままになっていた。

 なぜ、いつしか遠ざけられたか、といえば。
 効能はたしかに優れれていたのだ、けれども、玉に瑕の欠点もあって。
 吸引施療が、とうぜん地肌に直接であったため、着衣を脱いだり横臥したりが面倒だったのと。
 吸引の痕が赤(黒)くのこるのが、患部によっては(肩など)目だってしまうからだった。

 「ヨカッタよね、また、やってみる?」
 かみさんがいうので、しばらく目に見える場所に置かれてあったが、ついに再度の出番なく。

 ……………

 やむなし、再生のチャンスにかけて。
 リサイクルセンターに持って行ったけれど。

 結果は、「医療機器は…」扱いかねるとのことで、受けとってもらえなかった。
 それなりの知識と理解が必要なので、といわれてみれば、なるほど。
 
 不要になったモノの処置ひとつも、なかなか、あれやこれやタイヘン。
 リサイクルセンターのかぎりある駐車スペースには、ウィークデーにもかかわらず、不用になった品々を搬入する人たちの姿がひきもきらない。
 ぼくの持込品をお引きとりいただいて、後、昨今のゴミ&リサイクル事情を係りの人に伺うと。
「リサイクルにも限りがありますからね、欲しいモノより、要らないモノの方がずっと多いのが現状ですよ」
 それでも、笑顔で「ありがとうございました」と礼をいわれた。

 どしどし出費に励んでもらわなければいけない金持をのぞいて一般庶民は、いちどじっくりと、モノ余りのわが家の内をかえりみた方がよさそうだ。