どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『久恋の秘境・宝島での四〇日』-其の弐-/雑誌『旅』1967(昭和42)年2月号…若き日の紀行

-No.0984-
★2016年06月01日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1910日
★ オリンピック東京まで → 1514日

掲載誌『旅』1967(昭和42)年2月号。

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『久恋の秘境・宝島での四〇日』中原沐夭/長 新太画

(昨日のつづき)




     ネズミや鶏の声まで器用に
     まねる憎々しいトカラハブ

 宝島の朝は、蝉の声で明ける。五時頃から鳴きはじめ、七時すぎにはもう耳も聾せんばかりになる。それがまたみんなクマゼミときているからうるさいことひととおりではない。鳴りやまない目覚ましとあきらめて早起きをする。
 日中の日差しは暑さを通りこして肌に痛いくらいだ。直射日光はゆうに五十度を超える。帽子がなければとても表は歩けない。島の大人達はビロウの編笠を被って仕事にでかける。大原〔おおばる〕へ牛を追っていくビロウ笠が声をかけて通った。ぼくらもでかけることにする。
 宝島はちょうど今が繁殖期で、子牛やひよこがたくさん生まれたが、トカラハブも例外ではなかった。ここのハブは奄美のほど毒が強くないから、かまれても死ぬことはないそうだが、怖ろしいことには変わりがない。大原への道すがら、ぼくらは手に手に棒切れを持って歩いた。
 島の方言でハブが跳びかかることを「うつ」とか「なげる」とか言う。何と感覚的でしかも的確な表現であろうか。ハブはまた小鳥を襲うため、木の枝にとまって〔、、、、〕いることもあるらしい。上にも下にも注意を払わなければならないのだから厄介である。
 それに加えて器用なハブは、ネズミや鶏の声まで真似る。チュッチュッチュッチュッ、クワックワックワックワッ、とやや金属性の声で鳴く。こうしてハブによびかけられたネズミは、まるで魔法にでもかかったように逃げ場を失い、ハブのまわりをクルクル回りはじめる。ハブはネズミがフラフラになるのをじっと待ち、吸いよせられるように近づいたところをパクリとやる。ぼくらはそれを、一夜わが借家で目撃した。憐れなネズミ、そしていかにも憎々しげなハブの仕わざ。ぼくらはトカゲの出現にすらビクビクする始末であった。
 大原牧場は女神〔めがみ〕山の裏側、鷺ヶ崎にある。ある日、女神山の裾から枝道にそれて、しばらく下るとこの大原牧場にでた。ぱっとひらける雄大な眺望。緩い起伏の緑の原に、陽は燦々とふりそそぎ、バッタが飛び交い、牛がゆるゆると草を食んでいた。
 鷺ヶ崎の巌もおおまかで危なげなく、見渡せば目くるめくほどに、水平線が遠く遥かにどこまでもまるい。大原牧場に柵はなかった。紺青の海から吹き上げてくる風が、トカラ馬の長いたてがみをゆする。トカラ馬はまた天馬ともよばれ、世界で一番小さな、純粋日本種の先祖といわれるが、今ではもうここにいる二頭だけになってしまった。温和〔おとな〕しい眼の色をしている。
 跳ねた子牛の尻尾の先を、茜色の糸をひくように赤トンボが舞った。背後からは女神山がいつも大原を見守っている。ここから見る女神山には、ベレーを被った少女のような、しゃれたモダンさがあった。この山が何か神秘的なものを感じさせるのは、生い茂っているビロウ樹のせいかも知れない。

     砂丘に寝転んでの空との会
     話には、ことばはいらない

 空は朝からブルーの展覧会だ。片時も休まず配合の妙をこらして、自ら楽しんでいるふうにさえ見える。終日空を眺めてすごしても飽きることはない。砂丘に寝転んでこの展覧会を鑑賞していたぼくは中原中也の次のような詩句を思い浮かべた。
  夏の空には何かがある
  いぢらしく思はせる何かがある
 空との会話に言葉はいらない。都会での生活でぼくは言葉に気をつかいすぎ、会話に疲れていた。女の子や友達とのつきあいが面倒になり、疎ましくさえなった。そしてぼくはこの島へやってきた。空との会話では働きかけが徒労に帰することもない。ぼくは黙って様ざまな想像に耽り、空は夢想に満ちていた。
 ぼくは砂漠を越えて行こうと思った。砂丘には玩具の戦車でも走らせたように、アマム(オカヤドカリ)の足跡がユーモラスな模様を描いている。軍配ヒルガオも焼けた砂地にはいだしていた。
 ずんずん歩けば、あたりにコロコロとひどく滑稽な音がする。アマムのやつ、ぼくの足音に驚いて大あわてに転げているのだ。ぼくはすこぶる気分がいい。アダンは赤い実をつけ、ソテツは頑固に葉を広げ、陽炎の向こうには大池・小池がオアシスのようだ。太陽がぎらぎら照りつけ、風がヒューヒュー鳴りさわぐ。
 砂漠を越えるとセンゴの浜だ。ここからハンドメにかけてはサンゴ礁がとりわけ見事である。沖に向かって柵のように、幾条も幾条も張りだしている。潮が退くとき、それらの柵の狭間は賑やかな水音に満ちあふれた。小川のようにせせらぐもの、滝のようにザーッと落ちこむもの、また小さな穴が無数に空いて、シューシュー水を吸いこむもの。それらが一定の調和を保ち、交響し合うのである。
 サンゴ礁の柵を歩くと、足の下方でピチャピチャ波の音もする。海岸にはいたる所にあおく澄みきった水をたたえるタイドプールがあって、そこには色とりどりの小魚が泳ぎ、さながら天然の水族館であった。ぼくも大きなタイドプールで素裸になって泳ぎ、それから太陽の恵みに身をおいた。誰にはばかることもない。自然の姿に還るということはこんなにも愉しいことであろうか。頭の上をピーピー鳴き交しながら、白い水鳥が二羽、美しく感動的なパ・ド・ドゥを見せていた。
 ハンドメから先は奇岩怪石がつらなり、行く手をさえぎりながら荒木崎に至る。この男性的というべき海岸風景にさえ、どこか女性的なイメージにつながる優しさが秘められているのは不思議だ。黒潮に乗ってどこからきたのか、岩の間にヤシの実が一つ、打上げられていたりする。
 ぼくは岩を幾つも乗りこえて、ようやく荒木崎にたどりついた。そこから仰ぎ見られる裏手の丘に、むかし平家の築いた砦の跡(と伝えられるもの)が、いまはうっそうとした藪に隠されてあるという。しかしぼくなどにはもう哀れを覚える縁〔よすが〕もなかった。遠い昔のことである。通りすがりの若い旅行者にとって、島の自然はあまりに明るい。その向こうの岩に釣人がひとり、静かに糸を垂れていた。

     魚が獲れても市場に輸送が
     できないから漁師はいない

 島は小さいけれども比較的土地が平坦で、耕地にも恵まれている。台風などの悪天候に災いされない限り、主食の米は充分に穫れ、野菜類も植えればおおかたは実る。かつての主食カライモもいまでは豚の飼料だ。つまり食生活においては自給自足経済が成りたっているわけで、それが島民の心に余裕を与えているらしい。
 またこのあたりの海は魚類の宝庫だというのに、漁業に専従する者がないのは、いくら獲れても市場へ輸送する手だてがなく、結局島で消費するほかないからである。
 アクチ木の花咲くトビウオの季節、そして夏のカツオ漁の季節には、島のまわりに内地からの漁船が点々とならぶ。島民にとっては残念なことだ。島の漁船はどれも笹舟のように小さく頼りない。十島丸が毎日きてくれたらと島の人は言う。もう少し大型の漁船が一隻でもあったらとボクらは思う。いまは魚〔いお〕獲りは島の男のレクリエーションにすぎない。気の向いた時に獲りに行くだけだ。島民がその完成を期待している、十年計画で始まった前篭の築港工事しても、実は遠洋漁船の避難港が目的なのである。
 島の人は皆親切で話し好きだ。だからぼくらの訪問はどこでもたいてい歓迎された。昼間の訪問にはきっと宝島特産の黒砂糖、それにしんこ餅などがお茶といっしょにだされる。黒砂糖を食べると懐かしい駄菓子屋の味がした。
 忙しい農作業が七月下旬の稲刈りとともに一段落すれば、あとはくつろいだ気分で旧盆の夏祭りを待つばかりだ。祭りの話しはおもしろい。この夏祭りに神役の囃子につれて巫女が踊るのは、天の岩戸神事による天鈿女命〔あめのうずめのみこと〕のあの踊りであるという。盆踊りも行われる。
 方言といっても、宝島で使われる言葉はほとんど標準語に近いから、話はぼくらにもよく分かる。殊に老婆の言葉つきはやわらかく上品で、ここにもわずかながら平家の伝統がうかがえるのかも知れなかった。
 冬の大きな行事といえば、何といっても正月。トカラの島々では正月行事が三度行われる。まず十二月一日の俗に七島正月よばれるトカラの伝統的な正月行事。これは江戸末期に行われた島津藩による琉球征伐の折、兵役にかりだされた島人のため、正月行事を繰り上げ祝わせて送りだしたことに端を発している。それに新の正月と旧正月が続くのである。
 島民は信仰に篤く、祖先の霊を大切にする。どこの家にも神と祖先を祀る祭壇があり、島民は祝日を忠実に守り、月一回の墓参りも欠かさない。部落内に数ヶ所、神山と称する神社の古い形態をのこす杜〔もり〕があり、ほかにも島に祀られる神様の数は多かったが、今はそれらを集めて港の近くに社〔やしろ〕ができている。信仰の中心は鎮守さま。そばに漁の神様を祀る恵比須神社が独立してあった。(つづく)