どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『久恋の秘境・宝島での四〇日』-其の参-/雑誌『旅』1967(昭和42)年2月号…若き日の紀行

-No.0985-
★2016年06月02日(木曜日)
★《3.11》フクシマから → 1911
★ オリンピック東京まで → 1513日

掲載誌『旅』1967(昭和42)年2月号。

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『久恋の秘境・宝島での四〇日』中原沐夭/長 新太画

(昨日のつづき)



     褐色の肌に仕上げるつもり
     が全身やけどという大失敗

 ある日、ぼくらは午後の日盛りに泳ぎにでかけた。せっかく南の島へ来たのだから、艶やかな褐色の肌に仕上げて帰りたいというのが、大きな望みだったからである。だからぼくらは泳ぐことよりも、じっくりと肌を焼くことに専念した。それがたいへん無茶なことであったと、気がついた時にはすでに遅かった。
 その夜からぼくらは、体じゅうが熾火〔おきび〕になったようにカッカとほてり、痛みとも痒みともつかぬものに全身を襲われ、完全に身の置きどころを失ってしまったのである。子供達が心配して、ハイビスカスの花やソテツの葉で編んだ虫かごを手に見舞いに来てくれた。島の人だって日中はめったに泳がないという。ぼくらもこれにはすっかり懲りて、その後はしばらく水泳を慎み、そのあいだ訪問に精をだすことにした。
 ほかに楽しみがないから島の男はよく酒を飲む。夜の訪問では焼酎の歓待を覚悟しなけらばならない。コップになみなみと注がれた焼酎をすすめられるままに一息飲めば、強烈な臭いがプーンと鼻をつく。少しでも減ればまた溢れんばかりに注ぎたされてしまう。
 サワラの刺身をつつきながら、飲むほどに酔うほどに話ははずみ、勇壮なフカ捕りやむずかしいエビ釣りなど、漁の自慢話も飛びだし、昔話に花が咲く。酒宴が佳境に入れば、やがて蛇皮線が持ちだされトカラ民謡が唄われる。
「トカラ観音衆・しゃくだん花」「おはら節」「ションガ節」と、手を打ちならし体をゆすって唄うのだった。
 部落のなかを歩いていると、パタンパタンと機の音がきこえてくる。現金収入の途として始められた大島紬なのだ。島民のこれまでの唯一の不安、それは現金収入に乏しかったことである。ぼくらが行って間もなく宝島は無医村*1になってしまったが、もし家族に急病人でもでたら、十島丸の急行を待って奄美大島の名瀬まで運ばなければならない。それには相当な金がかかる。そのためになけなしの財産をはたいてしまった家がこれまでに何軒もあったという。立派な僻地診療所があっても、こんな離れ島には医者のきてがなく、たとえあったとしてもまたすぐ帰ってしまう。
 どこの家でも牛を一~二頭飼っているが、これだって内地の馬喰に安く買いたたかれてしまうことが多いのだ。現金収入の魅力はいまや、生業たる農業の縮小をさえまねいている。苦労して食物を獲るより、賃労で得た金のなにがしかで買って食べた方がずっと経済的なのだ。
 男は農閑期になると港の工事にでて働く。奄美大島へ出稼ぎに行く。夜、カンテラをさげて、ハブ獲りに行く者もある。ヘビ皮を好む女性が余程多いものとみえて、生捕りにすれば一匹二五〇円になる。一晩で平均一〇匹くらいは獲る。ハブは箱詰にされて名瀬へ売られていく。アノ憎たらしい奴め、とは思うが、ハンドバッグや草履にされてしまうのかと思えば、やはり少しは気の毒である。

     島の未来を背負う若い独身
     者のグループ「パパイヤ会」
 

 島の文化はここ数年の間に急速に進歩してきた。トランジスターラジオが全家庭に普及し、農協前のテレビには、日の暮れる頃から島民が涼みかたがた集まってくる。つい最近アンテナを立てた家もある。テレビやラジオが島民の都会生活への憧れをあおっているようだ。
 無邪気に遊んでいる子供達も、将来自分が島をでるのはごく自然なことと、無意識のうちに思っているらしい。中学三年生はみな、働きながら定時制高校に通うため、一生けんめい勉学に励んでいる。普通高校へ進ませようとする親もある。小中学校には九十四名の児童生徒がいる。この子供達が都会にでた時、激しい生存競争にうち勝っていけるように、九人の先生達の教育方針も今はそこにあった。こうして若者はどんどん島を離れて行き、老人が独り残されたところも少なくない。一家をあげて離島する者もでてきた。宝島はいろいろ意味でいま過渡期にあるのかも知れない。大人達は古い伝統と新しい文化との間でとまどっている。島の発展を考え、勇気を持って残ろうとする人は少なくなった。島をでたことのある人なら誰でも、こんな住みよい島はないと口では言うのだが。
 島が眠りから醒めかけているこの大切な時期に、まず動きだしたのは若い独身者のグル-プ「パパイヤ会」であった。今年の四月、新しく中学校へ赴任してきたY先生のよびかけで発足したこの会は、まだ生後まもないが、明るくはつらつとした青年の集まりである。豪快な気性のなかにも、俳句をたしなむという繊細な神経を持ち合わせているY先生は桜島の出身。自信の作に次の一句があった。
  夏の蝶何の花粉かラバ(溶岩)に死す
 彼らと親しくなり意気投合したぼくらは、機会あるごとに酒を酌み交わし、島の将来について語り合った。現在八名いる会員の多くは、一度都会での生活を経験し、再び島に戻ってきた人達である。詳しい理由はどうであれ、彼らが島のよさを捨てきれなかったことに変わりはない。そして今は島の発展を信じ、大人達の偏見にも耐えて、宝島の未来図を胸に描いて働いている。
 島を発展させる途として、彼らがまず第一に考えているのは牧畜だ。島民が一致協力して土地を拓き、牧草を育て、島全体を一大牧場にすることができればもっとたくさんの牛を飼育でき、相当な利潤もあげられよう。そのためにはまず回転のはやい豚を飼育して資金を稼ぐ必要がある。
 次に観光開発。これだって夢ではない。宝島の自然は観光資源として、充分異色あるものなのだ。島には鍾乳洞もあり、夜光貝などの物産も豊富である。日本人の憧れるタヒチやサモサの自然が、ここにはある。
 漁業にしてもそうだ。港の完成を機にここを漁業基地とし、冷凍施設をもうけ、缶詰などの水産加工業を誘致するよう、関係各機関に働きかけなければなるまい。
 パパイヤ会ではいま来年の秋を目標に”宝島の物産展”を鹿児島で開く計画を進めている。島民の理解と協力を得、島の発展を促進するためには、まず何か一つ現実的な実績をあげなければならない。だが彼らの大きな悩みは、仲間が少ないことだ。とくに適齢期の女性はほとんどいない。こんな深刻な悩みのひとつの昇華した状態が、いまのパパイヤ会の活動ではないだろうか。酒宴の席上会長(Y先生)は、パパイヤの実を片手にその名の由来を次のように説明してくれた。
「このパパイヤの実のように、我々はいつまでも若々しくありたい、と思います。だからパパになるのはいやだ。パパいやパパいや。そういう者の集まり、それがパパイヤ会です」
 うっかりすると何でもないようにきこえるこの言葉。しかし黙々と仕事に精をだし、さらに週に一度の勤労奉仕にも汗を流しながら、夢の実現をめざすこのパパイヤの青年達に、ぼくは祈りに近い感動を覚えたのであった。

     星ふる夜空のもとでくりひ
     ろげた豪快な磯料理の酒宴

 またある日、ぼくらは誘われてパパイヤ会主催のキャンプに参加した。学校の先生達も加わって十五人ほどで出かけた。目的地は島の裏側大間の浜。島内を一周する道路から、やがて枝道にそれ浜にでる途中に、観音洞への入口がある。小径をわけてのぼると、ガジュマルの繁みのなかに白木造りのお堂が現われた。平資盛を祀るというこのお堂は平家堂ともよばれ、なかには束帯姿の木造が一体安置されている。堂の暗がりのなかで、その極彩色の小さな木像は霊妙な光りを放っているように思われた。
 そこからさらに少しのぼると観音洞にでる。入口付近には苔むした墓石が数基、洞の奥から吹いてくる冷たい風をうけてヒンヤリとしていた。洞の中は暗く、妖気のようなものが漂っている。カンテラがなければとても入って行けない。この鍾乳洞はかなり奥深いものらしいのだが、まだ本格的な調査は行われていなかった。
 大間に着いてテントを張ると、ただちにかまが作られ火がおこされた。パパイヤの腕自慢たちはモリを片手にさっそく海へ。もとよりこのキャンプの目的は豪快な磯料理を楽しむことにあった。彼らは巧みに潜り、巧みにモリを操って、一時間もすると海の幸をドッサリあげて帰ってきた。
 青ハッチ、赤ハッチ、ボラ、蝶ちょう魚など、カラフルな魚が多い。尾びれのあたりに鋭い剣を持っている物騒なやつもある。すぐに波うちぎわで料理が始まった。大きなのはみな三枚におろして刺身にした。海水で洗った透きとおるような白身が食欲をそそる。小さいのは鱗をおとし、串にさして塩焼きにした。鶏も一羽料理された。みる間に浜の宴には山海の珍味が盛り沢山に並べられた。ビールで乾杯して賑やかな夕餉。野趣満点の塩焼きもさることながら新鮮な刺身の味はまた格別であった。
 食事を終わる頃には月がでた。やがて中天をわって銀河が流れ、無数の星くずが夜空に散りばめられた。こんな見事な星空は初めてであった。実際それは、澄んだ秋の晩に、まれに東京で眺められる星数の、百倍も千倍もあろうかと思われた。
 パパイヤの青年達は潮時を見はからって、今度はイセエビ獲りにでかけたがこれまた大漁。おまけに大きなモンゴウイカ(コウイカの類、コボシメともいう)や夜光貝(この貝の殻は磨くと古陶器のような風格ある光沢がで、置物として珍重される)のプレミヤまでついた。
 エビは大きなやつを選んで釜ゆでにし、ほかのはそのまま焚火に放りこんだ。モンゴウイカと夜光貝の身は面倒だからブツ切りにした。再び酒がまわされる。大きなエビの肉は三つにわってもなお手にあまった。甘味のあるエビの身、トロリとしたイカの身、コリコリした貝の身、どれもそれぞれ独特の風味があってうまかった。こんな豪快な磯料理、ちょっと味わえるものではない。
 焚火を囲んでの酒宴は次第に熱気をおび、夜がふけるまで続いた。酔いがまわるとのど自慢のKさんが音頭をとり、宝島のフォークソング「トカラ観音衆」が唄われ、ぼくらも手拍子に合わせて声をはりあげた。
  トカラ観音衆は結びの神よ
  七度まいれば妻たもる
  トカラ観音衆が妻たもるなら
  わしもまいろよ七度半
 素朴ななかにも脈々と流れる生活感情があり、単調ながら節まわしのむずかしい唄である。南十字星を仰ぎ、流れ星を数え、星座をたどり、銀河の流れを水平線まで追いながら、唄は何度もくりかえされた。

 こうして四十日はまたたく間にすぎ、ぼくらは去りがたい心をのこして再び船の人となった。旅人はいつか去らねばならぬ。去ることのつらさをぼくはかみしめた。別れを惜しむ島民の──大きな、そして小さな──手の波がいつまでもゆれ動き、はしけもしばらく追ってきた。ぼくらも負けずに声をあげ、手をふり、帽子をふった。宝島の島影が視界から遠く消え去るまで、ぼくらはデッキに立ち尽していた。
「さよなら宝島、さよなら女神の島」          (終)

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 後日談。ぼくらが帰京して、大学キャンパスはいっとき”宝島”の話題にわき、さまざまなイベントに紹介されたりもして、ぼくらは「宝島」臨時東京事務所のごときありさまになり、その騒ぎの間に貴重な記録写真のすべてが散逸することになってしまった。若かった、舞い上がってしまった、アマかった……。


 
 

*1:現在は診療所が復活している