どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『久恋の秘境・宝島での四〇日』-其の壱-/雑誌『旅』1967(昭和42)年2月号…若き日の紀行

-No.0983-
★2016年05月31日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1909日
★ オリンピック東京まで → 1515日


 一昨日お約束したボクの若き日、宝島へ冒険旅行の顛末記を、ここに再録させていただきます。
 掲載誌は、日本交通公社発行の雑誌『旅』1967(昭和42)年2月号。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

『久恋の秘境・宝島での四〇日』中原沐夭*1/長 新太画

                金がなければタヒチ島までゆくこと
                はない。ここは日本の南端。詩情と
                観察力にあふれた若者の長編紀行!




     波路はるか三百キロの海の
     彼方に浮かぶ忘れられた島

 地図を見よう。南北に細長く緩い弧を描く日本列島。誰か知らぬが花綵〔かさい〕列島*2とゆかしくよんだ人がある。鹿児島から南へその鮮やかな花綵をたどってみると、太平洋と東シナ海をくぎる南西諸島の一部、屋久島の南から奄美大島の北にかけて、波路はるかな三百キロの海につらなる小さな緑の島々がある。その名を吐噶喇〔トカラ〕列島。むかし壇ノ浦の合戦に敗れた平家の落人が、流れ流れて大海を渡り、この島々に住みついたという。
 いま、そんな謂れを知る人もなく忘れられた島々へ、唯一の船便は週に一度。沖縄航路の豪華船に比べたらまるでグリコのおまけみたいにかわいらしい船だが、勇気をだして十島丸に乗りこむ。二五三トン。定員六〇名。トカラの島々に住む人の生活がこの船によっ支えられているだ。*3
 何とはなしに人にもの思わせる夕刻六時、十島丸の出航はやはり寂しい。そんな気分を追払おうと船上で開かれたささやかな酒宴。いも焼酎が胃の腑を焦がす。日焼けした精悍な顔つきの若者が、ドンと肩を叩いて語りかけてきた。湾をでると船の揺れがだんだんひどくなってくる。焼酎に酔い、おまけに船にまで酔って、甲板に花ござを敷いて寝転べば、それでも心はいつか星空にうばわれ、潮風が心地よく頬にあたる。船の灯に誘われてトビウオが一匹、、青銀色の肌を光らせて飛びこんできた。七月。トビウオの季節ももうじき終わる。
 だが、目指す宝島は遥かに遠い。そこはトカラ列島の南の端にあるサンゴ礁の島だ。十島丸は七つの島(口之島・中之島・臥蛇〔がじゃ〕島・平〔たいら〕島・諏訪之瀬島・悪石〔あくせき〕島・小宝島)に寄り、各島で約二時間、はしけ〔、、、〕による荷役作業が行なわれた*4
 こうして無事な航海を一昼夜半。南海の太陽が水平線を紅に染め、再び銀河が湧いて流れると、待ちに待った八度目の汽笛が鳴って、いよいよ宝島に到着であった。



     ブロック建築二間つづきの
     家をたった千円で借りる!

 船が前篭〔まえごもり〕港の沖にエンジンの唸りを止めたのは午前三時近く、宝島は黒のヴェールを被って静かに眠っているようであった。合図の汽笛が二度三度、闇に吸いこまれて消えていった。はしけはまだ来ない。
 ちょうどその夜は陰暦十五夜。月明かりが島影をくっきりと浮かび上らせ、神秘の彩りをそえるなかに、島の背後の低い山なみの、その西の外れにこんもりと、魅惑的なシルエットを見せる山があった。
 これが女神山か! なるほどその形は処女〔おとめ〕の胸部を想わせる。トカラの名の由来がこれを表わすアイヌ語のトカフ(乳房の意)にあると言われるのも不思議ではない。宝島は昔から「トカラの母島」とよばれてきた。タカラのトカフがトカラを生んだのである。ぼくは密かに、はるばる女神の島に来たことを喜んだ。*5
 やがて港とおぼしき辺りに灯がともり、エンジンの響きが暗い波間から近づいてきた。さあ上陸だ。ぼくを含めて一行四人は、勇んで重い荷物を左舷へと運んだ。
 前篭の港はサンゴ礁が造った細い自然の入江だ。その入江の端〔はな〕に松の木が一本、波に洗われて立っている。これが通船の目印になる。はしけが座礁しないように、船頭は正面の山とこの松の木によって判断し、水路をもとめる。岸には島の老若男女が集まって沖の十島丸の灯を眺め、はしけの帰りを待っていた。
 ぼくらは陸に上ってからも、まだしばらくの間は足もとがおぼつかなかった。その時、ふとぼくの眼にとまったのはこの群像からとり残されたように膝を抱え、干網の向こうに坐っているひとりの若い女であった。その女の眼は放心したように沖を見つめている。これが旅人のみが感じる感傷というものか、ぼくは脳裏を掠めていくある表現し難い想いにひたっていた。
 人口四百人*6にみたぬ宝島にはもちろん旅館などない。ぼくらは総代さんにお願いして、空家を一軒かりることにした。島にただ一台しかない青年団の車が快く運んでくれた荷物を整理して、ほっとひと息つくころには夜もしらじらと明け、まもなくあの南海の太陽が眩しい顔をのぞかせた。
 ぼくらの借りた家は四畳半と六畳の二間で、家賃が何とひと月でたった千円。ほかに電灯代が二百十円。二十ワットの電球がひとつ(但し電気がつくのは午後七時半から十一時まで)ついている。ブロック建築のなかなか立派なものだ。この家ばかりではない。最近、宝島では昔風の木造茅葺きに代わって、だんだんブロック建築の家がふえてきている。
 こういう島では何でも自らやらなければならない。そうした永年の生活信条が成させたものであろう。数年前行われた学校の施設増築工事の折、勤労奉仕にでた島民が見よう見まねで覚えてしまったのだという。そうなれば砂の豊富なこの島のこと、セメントさえ買えばいいのだから、ブロック建築は木造より安くつくわけだ。しかも台風にだってだんぜん強い。近い将来、木造の家は宝島から姿を消すに違いない。
 宝島の民家はおおかた二棟に分かれている。食事をするスイジ家と、居間兼寝室のホンタクとである。
 家を建てる時には島民が互いに協力し合う。島の成年男子なら、大工仕事ぐらいは誰でもできる。だから宝島には職人がいない。商人もいない。農民だけの島である。

     少女の長い髪に燃えるよう
     な赤いハイビスカスの花が

 学校は部落の一番高い所にあった。校庭からの眺めがじつに素晴らしい。背後には緑したたる山が迫り、前には百八十度の展望がひらける。明治十七年、初めてトカラの島々を実地調査した白野夏雲翁は、その著『七島問答』のなかで、宝島の景観を次のようにみている。
「宝島は、その裏の方は真直ぐに一の字を画いたようにしていて、表側の方は左右から中央に向かって張りだし、ちょうど婦女の乳房のようなかっこうをしている」と。
 なるほどサンゴ礁にまるく縁どられ、柔らかに盛り上がっているそのふくらみの辺〔あたり〕、島では砂漠とよぶ琥珀色をおびた白い砂丘がまぶしい。その広い砂漠の所どころ、強烈な夏の陽光を吸いつけている濃い緑は、熱帯植物アダンの群落だ。
 船からのぼくの眼に、十五夜の明るい月の光を受けて、細〔ささ〕波をたてているように見え、サンゴ礁に囲まれた巨大なタイドプールかと思ったのも、実はこの砂漠であったのだ。ぼくは自分のこの錯覚に満足した。サンゴ礁のかなたには空の色を映したように紺青の海が茫洋としてはてしなく広がっている。遠く白い夏雲のあたりにぽっかり浮かんだ小宝島は、『ひょっこりひょうたん島』(NHKの子供向け連続人形劇の舞台)を彷彿とさせるかっこうが愉快であった。
 折しも部落のあちこちの庭さきには、もえるように赤いハイビスカスの花が咲きこぼれ、低い石垣の外へ芳香を放っていた。「そうだ、日野てる子がいつも髪にさしているのは、あれは造花なんだろうか」。ガジュマルの木陰での水浴のあと、道端で見かけたかわいらしい女の子が、梳かした長い髪にハイビスカスの花をさしているのを見て、俗っけの抜けきらないぼくはふとそんなことを考えた。
 やがて夕風がたちはじめるとさすがの暑さも薄れ、草むらに虫もすだいて、長旅の疲れが快い眠気を誘ってきた。手足を存分に伸ばして眼を閉じれば、南海の楽園の夢はうっとりと鮮やかに彩られる筈であった。(つつく)
 
  

*1:当時のぼくの筆名…ずいぶん気負って気どっていた

*2:はなづな=レイのような花飾りのこと

*3:現在、就航している「フェリーとしま」は1391トン(当時の5倍以上に大きくなった)、定員200名、週2便に増えている、つまり船足も格段に速くなった

*4:このうち臥蛇島は現在無人

*5:このアイヌ語で云々のいいまわしについて、「その根拠はナニか」と読者から詰問をうけた覚えがある、いまなら「そんな伝説がある」とかなんとか、賢く述べていたところだろうけれど…

*6:現在は130人弱に減っている