読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『鏡は嘘をつかない』…青く澄みきった珊瑚礁の海…/鏡は人の姿見ではない、その人すべて、海そのもの

-No.0970-
★2016年05月18日(水曜日)
★《3.11》フクシマから → 1896日
★ オリンピック東京まで → 1528日




◆ゆらゆら揺蕩う波のリズム

 この映画のタイトルに触発されたわけでもないけれど……
 映画作品が、己が生きざまの鏡になること、少なくない。

 本も鏡になるが、その場合には脳裡の、奥へ奥へと深まっていく合わせ鏡のような効果になることが多くて。
 映画・映像の場合には、広がりにも深まりにも透明感かぎりなく、ふとうずくような気づきをもたらす。

 いま想いだしたのだけれど。
 『鏡の中にある如く』(1964年スウェーデンイングマール・ベルイマン監督)という映画があった。
 『かくも長き不在』(1961年フランス、アンリ・コルピ監督)という秀作があったことも、ついでに想いだされた。
 どちらが、より〝鏡〟であったかは、もう判然としないけれど。

 さて。
 『鏡は嘘をつかない』。
 インドネシアの女性監督カミラ・アンディニの作品。自然ドキュメントの数々を手がけてきた彼女、初の長編劇映画という。

 熱帯多島国のインドネシア
 なかでも、珊瑚礁の美しい海は澄み、生物の多様性にも富んで、世界中のダイバー憧れのまとのワカトビ海域。
 そこに、古くからこの海に育まれたきた漂海の民、〝海のジプシー〟とも呼ばれるバジョ族が、いまも奇跡のように生きている。

 この映画は、そんな奇跡の民の一家族、ある日、漁に出たまま帰らなくなった、行方不明の父を待つ娘と母(妻)の心模様の物語。
 その原点に鏡がある。
 〝真実を映す〟と伝えられる鏡に、10歳の少女は父を探す術をたくすが……

 国立公園に指定された海は、同時に〈指定されなければ保てない〉自然の在り方が危機的になりつつある海でもあった。
 つまるところ、少女の心の拠りどころ、真実の鏡は海にしかない。

 プロの役者は、大人の、いわば狂言まわしの二人だけ。
 主人公の少女をはじめ、次代をになう子らはすべて、ふだんのままに自然な人たち。
 それがすべてで、それがどれだけむずかしいことかを、見のがさないムービー・アイが追いつづける。

 上映時間は100分だったのだが。
 ぼくには、それだけの時間がひどく長く感じられ。
 そのことに、いまを生きる〈自分時間〉のせせこましさに、茫然となるしかなかった。

「ひさしぶりに『チコと鮫』だったわね」
 観おわってカミさんが言った。
 『チコと鮫』は1962年、イタリア・アメリカの共作映画、監督は海の映像詩人フォルコ・クィリチ。
 この映画は二人並んで観たわけではない、それぞれが学生時代にスクリーンを見つめ、胸にふかく秘めてきた。
 いまでは、あらためて言うでもなく共有されている価値観の不思議。
 神秘的で、童話的で、夢にしても非現実的でありすぎるくらいの、南海の楽園タヒチのできごと……
 
 フォルコ・クィリチ監督という人は、ボクにとって、グリムやアンデルセンよりもステキな語り手。
 彼からの贈りもの『青い大陸』(1954年イタリア)が、ぼくの海への憧憬を決定的にした。
 イタリアの海底探検隊が挑んだ〈青い大陸〉紅海の先には、イトマキエイの羽ばたきに誘われる大洋の深い海、〈さらなる青い大陸〉が広がっていたのだった。

 それから60余年。
 命うまれいずる海へ、ふるさと還りを見つめる映像世界がありつづけることに、ハッとするぼくがおり。
 そうして、そのぼくは(この鏡の海にも汚染の侵略があるのだろう)いまの現実を思わないわけにいかなかった。