どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

早稲田から三ノ輪橋まで12.2キロの荒川線を行く/都心外周50分ほどの「都電」小さな旅

-No.0969-
★2016年05月17日(火曜日)
★《3.11》フクシマから → 1895日
★ オリンピック東京まで → 1529日












◆子どものころは「ちんちん電車」と呼んでいた

 乗りもしないうちから〈電車ごっこ〉遊びで知っていた都電。
 (横浜にも市電があり、ぼくの住む川崎にもトロリーバスの話題があったりしたが、都電はこれらと格が違った)
 初めて乗ったときに、発車の合図でホントに「ちんちん」と鳴ると嬉しかった覚えがある。
 山本周五郎の小説『どですかでん』そのとおりの音を響かせ、派手な横揺れに床を軋ませて走った。

 東京都交通局が経営する路面電車としての通称「都電」、フルネームが「東京都電車」と識ったときには、「国鉄」が「日本国有鉄道」だったのと同様の、なるほど感と一体の厳粛な気分をあじわった。

 その嚆矢は、1903(明治36)年、民営路線としての開業(品川-新橋)。馬車鉄道から電気鉄道にかわった。
 後に、市内の3路面電車会社が合同して東京鉄道に、さらに明治も末の44年(1911)には当時の東京市に買収されて東京市電に、そうして1943(昭和18)年には都制施行にともなって東京都電になっている。
 すべて、ボクが生まれる前のことだった。

 だが、都電の隆盛と凋落は、ぼくら戦後世代の育ち盛りから青春の時期とともにあった。
 中学から都内の私学へ通った「川向こう」(多摩川や隅田川が境界とされた)組にとって、都電は都心の誘惑の花。
 時間と小遣いを惜しみながら、束の間、用もないのに短い区間を乗っては愉しんだ。
 その都心部から通う坊ちゃん同級生から、「まだ都電に乗ったことがない」と告白されたときには、妙にくすぐったいような優越感にひたったりもした。

 都電の最盛期1955(昭和30)年頃には、運転系統40、営業キロ約213km、1日の利用客およそ175万人。
 その、ひとかけら、ひとかけらに、ボクの小さな旅も織り込まれたいた。
 1956年の大東京祭から、10月1日「都民の日」には記念バッジが売り出され、(記憶にあるのは清水昆さんのカッパの図柄)これを胸に付けていると当日は都営の施設に無料入場でき、たしか都電も無料だったような気がするのだけれど、とにかく楽しみな1日だったのを忘れない。

 けれども、女子高生とのデートに性の意識が彩りを増すようになった頃(1960年代)には、モータリゼーションとやらの新しい波に洗われ、都電は交通渋滞に巻きこまれる(じつはその原因にもなっていた)かたちで精彩をうしなっていき、さらには地下鉄網の発達が引退への歩みを早めた。
 1964東京オリンピック後の、1967(昭和42)年から72年にかけて、都電はつぎつぎに路線から姿を消していった…荒川線ひとつだけをのこして。
 青春まっただなかだった当時のぼくは、次の時代にむけた不安な胎動のなかにあって、都電の末路をふりかえる余裕はなかった。












都電荒川線が生きのこったわけ

 ぼくの世の中を見る目が落ち着いてきてから、都電荒川線には何度か乗るきかいがあったけれど。
 すでに、むかしほど懐かしくはなくなっていた。
 
 日常の生活圏とはちがったところを走っていたことが、もっともおおきい。
 ぼくが生まれ育ったのは、都心から東海道筋にかけての方面であった。
 〈こだわる〉わけではなかった、けれども、〈なじみ〉の風情はすてがたい。
 甲州街道奥州街道方面とは、ついに縁がなくてすぎてしまった。

 大型連休、狭間の6日金曜日、地下鉄副都心線西早稲田〈駅〉から都電早稲田〈停留所〉へ、しばらく歩く。
 まず(なぜ早稲田からなのか?)が、わからない。
 ……というよりも。
 三ノ輪橋(始発)-早稲田(終点)間、路線の意味するところが、トンとつかめない。

 じつは、これが合成路線で。
 かつての都電27系統(三ノ輪橋-赤羽)と、32系統(荒川車庫前-早稲田)とをくっつけ、余分をカットした。
 といっても、まだ、余所者には事情が判然としない。

 とまれ、早大キャンパスのすぐ北側、新目白通りにある早稲田停留所をあとに、「ちんちん」と1輌のワンマン運行でスタート。
 乗客は多くない、とはいえ、都バスより少なめの座席のあらかたは埋まり、立ち客もいる。
 やはり年寄りの姿が目だつけれども、小用やお出掛けと思しき方々も…。

 電車は面影橋をすぎ、明治通りに出て左折、神田川を渡る。
 学習院下、鬼子母神前都電雑司ヶ谷と進むうちに(ははぁ)と、荒川線の存続してきたワケのひとつが知れる。
 この路線は、ほとんどが専用軌道を行くのであった。
 つまり「路面電車」といいながら、一般の道路交通とは区別され、車と並走すること少なく、停留所も危険な路上にはない。

 ただ、軌道と交差する道路は大小とりまぜて数多いので、地図上で都電路線をたどると、「踏切」「歩行者専用踏切」注意の黄色いマークが間断なくつづいている。
 孫を抱いたお爺ちゃんが運転席の脇に立ってしきりに指を指し、話しかけている。
 最高速度は40kmというから、車とおなじかもっとゆっくり、沿線の景物も看板文字もおちついて読みとれる、このスピード感は人間(動物)本来的といっていい。
 
 大塚駅前で、乗客がおおきく入れ替わる。
 鉄道路線各駅での乗り換え客が多い点では、都電も都バスも事情はかわらない。
 この荒川線の場合、JR山手線・京浜東北線東京メトロ副都心線有楽町線南北線・千代田線、都営地下鉄三田線日暮里・舎人ライナー京成本線と、そのつど接続していく。

 飛鳥山明治通りで、唯一の、道路交通との併用(並走)区間になり、王子駅前停留所までの紆余曲折が、いかにも大都会らしい忙しない交通事情をうかがわせ、王子駅前停留所の乗降もにぎやかだったが、そこをすぎればまた、のんびり「ちんちん電車」。

 都電廃止の波をのりきって存続してきた荒川線だが、じつはいま、利用客数の減少はとめようがないらしい。
 存続直後には9万人を超えた1日の利用客数が、2011年にはついに5万人をきったという。
 「地域住民の足」とはいえ、いずれ都電が姿を消す日はそう遠くない気が、ふと一抹の寂しさとともにわいてきた。

 終点(起点)の三ノ輪橋まであと3つの、荒川二丁目停留所まで、早稲田からおよそ50分ばかり。
 荒川自然公園脇「荒川ばらの会」の手植えというバラの植栽に艶やかな彩りを愛で、下町人情の路地を抜けて、隅田川堤の川風に吹かれた。
 このまま墨堤を歩けば浅草だが……
 きょうは、これから午後、荒川区役所に近い「サンパール荒川」大ホールで映画試写会がある。

 「映画試写会」といえば都心…という時代でも、そろそろなくなってきているのであろう。
 明日は、その映画のお話しを。