どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

わざわざ「そのまま放送します」と断るほどのことか/いまの世の中それほどまでに未明だろうか…

-No.0967-
★2016年05月15日日曜日
★《3.11》フクシマから → 1893日
★ オリンピック東京まで → 1531日




◆くどくどと字幕でながすほどのことかな…

 往年の映画作品などを、テレビで放映するとき。
 冒頭の黒バック画面に無音で白々と流れる「おことわり」。

「不適切な表現のところがありますが、時代背景や製作者の意図を考慮して、そのまま放送します」 
 といったような趣旨のもの。
 スラングなど差別的な表現を指すこともあるようだ、けれど。

 毎度、まるで不感症のごとくに見逃していることが、ふと不快に思えた。
 わざわざ「おことわりする」までもない、ささいなケースが多いばかりじゃない。
 そもそも、こうした映画作品、劇場公開されたときには、もちろんそんな無粋な断り書きなどありはしない。

 わかってます。
 劇場公開の場合は、観る人の意思による選択があるが。
 テレビ放映となると、選択意思を無視した受容の惧れがある。
 とでも言うんでしょうが。

 思えば、この「おことわり」習慣は古くからありました。
 それは、「文部省推薦」と対極をなすものでもありましたっけ。

 ぼくに覚えがあるのは、「部落問題」にまつわるアレコレのこと。
 いまも、なお、消えることなく綿々とつづく〝差別〟意識の温床というのでしょう。
 それは、わからないでもない…けれど。

 差別表現とされるものにしたって、なかには表現者の人格的個性と、表現法の諧調によって異なることもあるし。
 それらを、ひとくくりに決めつけることのほうが、ぼくはオソロシイ。 
 
 とにかく、なにしろ、「おことわり」字幕。
 これって、視聴者のレベルというものを、あまりにも低く見すぎてはいませんかね。
 いまの、少なくとも最新の選挙権を持つ一般ふつうの人であれば、そのへんの事情を察するくらいはできるじゃないか。
 (そりゃ、いつの世にも、どこにだって、箸にも棒にもかからない類の人は、かならずかぎられた数あります、それが人間という高等とされる生物種の、ざんねんながら限界かも知れない)

 もし「いやいや、なかなか、そうでない」というのなら。
 どうだろう、一日、全国民参加の討論会を開催して、「問題の表現とは如何なるものなりや」を話し合ってみたらいい。
 それでもし、「なるほど未だし」という状況であれば、やむをえない。
 人々は、あらためて「おことわり」の背景に注意しつつ鑑賞すればいい。

 放送倫理とかいうものにしたって、他人任せに、事なかれに、というんじゃ、あんまり情けない。
 ひとかどの見識をもって、妨害があれば跳ね返すくらいの、度量と矜持がほしい。