どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

浦賀の燈明崎…観音崎に洋式灯台ができる前の航路標識/浦賀水道を出入りする船に灯りを!

-No.0958-
★2016年05月06日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1884日
★ オリンピック東京まで → 1540日








観音崎灯台の親爺さま

 昨日のつづき。
 三浦半島に、買い物がてら遊ぶ折には、なるべく何処かへ寄り道を心がける。
 それは、横須賀市の「定点観測フォト」に協力していることもあり。
 また、そうすることで自然に身体をうごかせるメリットもあった。

 この日4月15日(金)は、浦賀の燈明崎へ。
 房総金谷への東京湾フェリーが出る久里浜港のすぐ北側に、ドック(船渠)におあつらえ向きの浦賀港が狭まり入る、水道の鼻。
 ほとんど市街化した浦賀の街並みの外れに、かろうじてぽつんと燈明崎はあった。

 東京湾というのは、ふつう(広義)三浦半島の剣崎灯台と対岸房総半島の洲崎灯台を結んだ線より、北側の袋状の海域をいうが。
 内部に目だって縊れた部分が見られることから、狭義にはその、観音崎と房総富津岬を結んだ線より北側を言う。
 この場合は、観音崎富津岬ラインより南側を〈外湾(図の水色部分)〉と呼ぶこともあり、対する北側は〈内湾(図のピンク部分)〉。
 ちなみに海域としての”浦賀水道”は外湾をさす。

 どうでもいいようにも思われることながら、気象庁津波予報区では「東京湾内湾」とされ、実際に比較的水深が浅いのもこのこの海域。
 対する外湾の方には、急激に深い海底谷もあって、海況としても外海に近い。

 浦賀水道から東京湾への船の出入りを案内する水先人、そのパイロットステーションを間近にする燈明崎。
 立地からすれば、すぐ北にある観音崎の方がより好位置にちがいないけれど、当時は〈外湾〉の浦賀港の方が重視されていたのだろう。
 
 むかしの外国船から見れば、袋の口のようにすぼまった〈内湾〉に踏み込むことは冒険だったろう。
 事実1945年9月、アメリカ海軍戦艦「ミズーリ」甲板上で行われた日本政府代表の降伏文書署名(敗戦による第二次世界大戦の終結)は〈外湾〉にぎりぎり入った辺りの洋上で行われている。

 さて、その燈明崎。
 浦賀水道を望む小さな鼻の園地には、四角い2層の小屋、浦賀燈明堂が復元されてある(史跡燈明堂跡)。
 燈明堂は航路標識〈灯台〉の前身、この浦賀燈明堂は慶安元(1648)年、江戸幕府の命で建てられたもの。
 石垣の土台上、2階建ての階上に投光装置があって(階下は番人小屋)。
 銅製の大燈明皿は直径36.4cm×深さ12.7cm、1晩に灯心百筋と菜種油1升(1.8ℓ)を用いたという。

 ……………
 
 その後を継いで、観音崎に日本最古の洋式灯台が建ち、点灯されたのが1869(明治2)年のこと。

 浦賀の燈明堂が廃止になったのは、4年後の1872(明治5年)。跡継ぎの、見ちがえるほどに明るい光彩を頼もしく見守って、役目をおえたことだろう。
  ・燈明堂の光達距離4海里(約7km)。
  ・観音崎灯台の光達距離14海里(約26km)。
 その間、水道から見ると、菜種油を燃やした燈明の灯りと、新式閃光燈火の威力との違い、あまりにも際だって、船乗りたちの溜息を誘ったにちがいない。

 現在の燈明堂跡からは、浦賀港の対岸、間近に鴨居のかもめ団地が望めた。
 市街から近く、磯遊びによい浜の駐車場は、行楽シーズン中は有料。
 基地の街ヨコスカらしく、外人さん親子がピクニックに訪れていた。