-No.0895-
★2016年03月04日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1821日
★ オリンピック東京まで → 1603日
「読書」といえば「感想文」。
こんな連想が定着したのは、小学校の同級生、ひとりの女の子の、小さなできごとからだった。
小さなできごとではあっても、それはボクにとってつよく印象にのこる、そう事件といってよかった。
ぼくの前の席で、その子は「感想文」の時間中、原稿用紙に向かって鉛筆を固く握りしめたままでいた。
ぼくが書き終えても、彼女の原稿用紙には一字も記されていなかった。
先生が気がついて、「どうしたの」と訊ね。
その子は、「書けません、感想なんか、書けません」といって、シクシク泣きはじめた。
(いい本だから感想を書けないことがある)ことを、ボクはそのとき知った。
◆日々くりかえし〈心のふるえ〉のなかにいた
スベトラーナ・アレクシエービッチさんがノーベル文学賞を受賞したのが、昨年の初冬。
彼女の著作を、まだ読んでいなかったボクは。
正直、しばらくの躊躇があって、しかし、やはり読まなければいけないと思った。
躊躇させたのは〈避けたい気分〉。
心のふるえる本があり、それを読む前から伝えてくる本もある。
ふるえる感受性のつよい人は、読まない選択もあるが、ぼくにはそれができにくい。
読書には、リラクゼーションの〈軽い〉読書と、スタディに〈向きあう〉読書とがある。
森羅万象の〈気づき〉をもたらしてくれる読書は、〈致知〉の始まりだから。
したがって〈致知〉の〈気づき〉に、〈軽い〉も〈向きあう〉もないのだけれど。
気分は〈重い〉より〈軽い〉ほうが、やっぱりいい。
ぼくは、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの著作のなかから、『チェルノブイリの祈り』と『戦争は女の顔をしていない』2冊を選び。
けれどもノーベル文学賞の本は、注文してもなかなか手に入らない状況がつづいて。
本が手もとに届いて、年が明けてからも、しばらく未読の書棚にあった。
ようやく『チェルノブイリの祈り』を読みはじめたのが、1月中頃。
それからは…思ったとおり、日々5~6ページから10ページ程度の遅々とした歩み。
もともと、ぼくの読書はスラッと速読タイプではなく、むしろ引っかかやすい熟読に属し、メモをとったり、気になって読み返したりも多い。
おまけに、ベッドにもぐりこんでからの、もっぱら〈寝読〉派。眠たくなれば眠気にまかせる。
仰向けで読むから本は軽い方がよく、『チェルノブイリの祈り』も文庫版で読んだ。
ひとつき近くの時をかけて、ようやく読みおえた。
いうまでもなくこの本は、1986年チェルノブイリ原発事故があって後の、さまざまな人々の、向きあった現実と思いの丈の、心ふるえる聞き書き。
多々ある、なかでも、冒頭。
爆発事故終息に駆けつけ、後に亡くなった消防士の妻の「孤独な人間の声」。
そして、終章。
やはり、後に帰らぬ人となった事故処理作業者の妻の「孤独な人間の声」。
その、凄絶としか言いようのない闘病と看護・介護と死は、この本のサブタイトルにあるとおり。
『-未来の物語-』
もうひとつには、これがぼくにはもっとも苦手なことの「これほどまでにピュアで烈しい愛と犠牲」だった。
これ以上、ボクは語れない。
この本に関しても、さまざまな声があり、それにはもちろん批判的なものもまじるのだ、が。
たとえば、「わたしも現地で取材したが彼女が語るほどのことはなかった」というような評言は、まったく感性の違いとしかいいようがなく、〈ふるえない心〉には通じないだけのことだった。
読了から10日余を経たいま、まだ、茫然とした心の状態がつづくボクがいる。
もう1冊の『戦争は女の顔をしていない』は、まだ手にとれずにいる。
(読後は、かならず、およばずまがらも感想文を…)