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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

『チェルノブイリの祈り』を読んで思ったことなど/スベトラーナ・アレクシエービッチさん江

-No.0895-
★2016年03月04日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1821日
★ オリンピック東京まで → 1603日



 「読書」といえば「感想文」。
 こんな連想が定着したのは、小学校の同級生、ひとりの女の子の、小さなできごとからだった。
 小さなできごとではあっても、それはボクにとってつよく印象にのこる、そう事件といってよかった。
 
 ぼくの前の席で、その子は「感想文」の時間中、原稿用紙に向かって鉛筆を固く握りしめたままでいた。
 ぼくが書き終えても、彼女の原稿用紙には一字も記されていなかった。
 先生が気がついて、「どうしたの」と訊ね。
 その子は、「書けません、感想なんか、書けません」といって、シクシク泣きはじめた。
 (いい本だから感想を書けないことがある)ことを、ボクはそのとき知った。

◆日々くりかえし〈心のふるえ〉のなかにいた

 スベトラーナ・アレクシエービッチさんがノーベル文学賞を受賞したのが、昨年の初冬。
 彼女の著作を、まだ読んでいなかったボクは。
 正直、しばらくの躊躇があって、しかし、やはり読まなければいけないと思った。
 躊躇させたのは〈避けたい気分〉。
 心のふるえる本があり、それを読む前から伝えてくる本もある。
 ふるえる感受性のつよい人は、読まない選択もあるが、ぼくにはそれができにくい。 
 
 読書には、リラクゼーションの〈軽い〉読書と、スタディに〈向きあう〉読書とがある。
 森羅万象の〈気づき〉をもたらしてくれる読書は、〈致知〉の始まりだから。
 したがって〈致知〉の〈気づき〉に、〈軽い〉も〈向きあう〉もないのだけれど。
 気分は〈重い〉より〈軽い〉ほうが、やっぱりいい。

 ぼくは、スベトラーナ・アレクシエービッチさんの著作のなかから、『チェルノブイリの祈り』と『戦争は女の顔をしていない』2冊を選び。
 けれどもノーベル文学賞の本は、注文してもなかなか手に入らない状況がつづいて。
 本が手もとに届いて、年が明けてからも、しばらく未読の書棚にあった。

 ようやく『チェルノブイリの祈り』を読みはじめたのが、1月中頃。
 それからは…思ったとおり、日々5~6ページから10ページ程度の遅々とした歩み。
 もともと、ぼくの読書はスラッと速読タイプではなく、むしろ引っかかやすい熟読に属し、メモをとったり、気になって読み返したりも多い。
 おまけに、ベッドにもぐりこんでからの、もっぱら〈寝読〉派。眠たくなれば眠気にまかせる。

 仰向けで読むから本は軽い方がよく、『チェルノブイリの祈り』も文庫版で読んだ。
 ひとつき近くの時をかけて、ようやく読みおえた。

 いうまでもなくこの本は、1986年チェルノブイリ原発事故があって後の、さまざまな人々の、向きあった現実と思いの丈の、心ふるえる聞き書き
 多々ある、なかでも、冒頭。
 爆発事故終息に駆けつけ、後に亡くなった消防士の妻の「孤独な人間の声」。
 そして、終章。
 やはり、後に帰らぬ人となった事故処理作業者の妻の「孤独な人間の声」。

 その、凄絶としか言いようのない闘病と看護・介護と死は、この本のサブタイトルにあるとおり。
 『-未来の物語-』
 もうひとつには、これがぼくにはもっとも苦手なことの「これほどまでにピュアで烈しい愛と犠牲」だった。
 これ以上、ボクは語れない。

 この本に関しても、さまざまな声があり、それにはもちろん批判的なものもまじるのだ、が。
 たとえば、「わたしも現地で取材したが彼女が語るほどのことはなかった」というような評言は、まったく感性の違いとしかいいようがなく、〈ふるえない心〉には通じないだけのことだった。

 読了から10日余を経たいま、まだ、茫然とした心の状態がつづくボクがいる。
 もう1冊の『戦争は女の顔をしていない』は、まだ手にとれずにいる。
 (読後は、かならず、およばずまがらも感想文を…)