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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

〈握らない〉から「おにぎらず」…なるものを試す/海苔で包んで、ナルホド手軽かも、だけどバカみたい

生活・食べる・飲む周辺

-No.0846-
★2016年01月15日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1772日
★ オリンピック東京まで → 1652日






◆握れない…から「おにぎらず」かも

「おにぎらず…なるものがあるそうな、余も食してみたい」
 冗談口に言ったら。
「あら、この前やってみて、あなたも食べたじゃない」
 カミさんの応えに、まるで覚えのないボクがいた。

 年末になると、恒例になったアレコレのことがある。
 ことしの漢字一字とか、流行語大賞とか、さまざまなジャンルの回顧「この一年」とか。

 そんなニギヤカな話題のひとつ、「おにぎらず」なる記事に目がとまり、そのおかしなゲンゴ感覚にボクはひかれたわけだった。
 しかし…。

 すでに試食しているといわれ、しかも、まるっきりそれを忘れていたとなると、なんとも口惜しい。

 新年の餅に飽きたころに。
「もういっぺん食させてたもれ」
 おすがり申すことと、あいなった。

 七草の日に、粥のかわりに飯を炊いて、朝食の食卓。
「よござんすか、はいります」

 カミさん、大皿に一枚海苔をひろげ、熱々の飯をのせ、具材をあしらい、海苔で座布団折に包んで、ひっくり返す。

「海苔がしんなりするまで、しばし待ちやれ」
 形が四角いだけで、海苔でくるんだ「おにぎり」とかわらない。(ナァンだ)。

 ただ、ナルホド握ってはいない。
 海苔が飯になじんだところで、包丁が入って。

「さ、どうぞ」
「あとは、ご自分でお試しあれ」

 食してみれば、(ウム、よいな)ではあったけれど…どこかバカみたいな気がする。
 前に経験したことも、ついに思いだせなかった、その程度のモノ。
 自作もしてみたが、ますます妙ちくりんだった。

 ナニが、どうチガウのか。
 握らないから、手に飯粒がつくこともなく、握るのが下手な人にもできてしまう。
 それだけのこと。

 イヤ、もうひとつには、できたら包丁で半分に切る、という行為がくわわる。
 つまり、これは「温ったかご飯のサンドウィッチ」なのだった。

 ぼくん家は和食派だから、用意した具材が海苔巻きやお握りとかわらなかったけれど、これを洋風のハム・ソーセージとかチーズなどにしてみれば、たしかにお子さまランチにして、いいかも知れない。

 そこでボクは、お握りと海苔巻きの昨今を思った。

 まず、お握り。
 ひとむかし前までは、母さんがつくってくれるお弁当は「おにぎり」に代表された。

 なかに梅干しが入るだけの、塩まぶしの、しっかり握りしめられたものだった。
 それが、握るのではない、手のなかを転がし飯粒どうしをつなぎあわせるもの、になってから、握り飯を上手に握れる技は限られた人のものになった。

 つぎに海苔巻きも。
 以前はハレの日に、母さん手づくりがふつうだったが。

 まもなく家庭から巻き簾が消え、手巻き寿司に衣替えしていった。
 (にぎり寿司の握り飯が手軽にできる型が、いっとき流行った後にすたれ、かわりに高級だった寿司を庶民派に衣替えした回転寿司への流れもあった)

 けれども、寿司の”にぎり”にしても”巻きもの”にしても、職人のつくるものにはそれなりのプロの味があって、やっぱり素人にはかなわない。

 だから新しいくふうや、さまざまな手抜き法が考案される。
 それはそれでいい、のだが。

 食にこそ、医とおなじ”手あて”がなくてはならないこと、いうまでもなかろう。

 たとえば、うちのカミさんが言う。
「母さんのつくってくれる”にぎにぎ”が美味しくってねぇ」

 それは、幼な子が食べやすいように母親が、片手の手指でひょいと小さく軽く握ってやる「おにぎり」のこと。
 ほんのり塩味だけの”にぎにぎ”には、ぼくにも遠い想い出がある…。