どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

《11.3.11》2015夏の巡礼⑰-陸前高田・大規模盛土/真に「希望のかけ橋」となれるか…

-No.0732-
★2015年09月23日(水曜日、秋分の日
★《3.11》フクシマから → 1658日
      高倉健没から →  317日
★ オリンピック東京まで → 1766日










◆「希望のかけ橋」の役割は終わったけれど…

 8月20日、午後の陽が傾きはじめて。
 南三陸から、気仙沼を経て陸前高田へ、宮城から岩手へ。

 注目株が、「奇跡の一本松」から盛土造成のベルトコンベアー「希望のかけ橋」に移った陸前高田は、盛土の数も、その高さも確実に増していた。

 広田湾から太平洋までの大展望がひらける箱根山の展望台に上がって見たけれど、この日は温気のせいで視界が遮られ、去年のようにダイナミックな変貌ぶりは望見できなかった。

 (箱根山を下るとき、中腹に新しい建物ができていて、ナンだろう…想像をたくましくさせられたが、それが思わぬ縁につながる話しは、明日のことに…)

 この日は、陸前高田泊り。

◆災害公営住宅より仮設の方が…

 翌21日朝、かつての高田松原の奥、高田町長砂の盛土上に再建なった「キャピタルホテル1000」へ。
 そこから、さらに高台の第一中学へとまわった。
 この2ヶ所からは「希望のかけ橋」と、その周辺の模様が手にとるように見られる。

 市内高田と今泉、両地区にまたがる約300ヘクタールの盛土造成は、被災地最大規模といわれるが、なるほどの壮観であった。
 この大事業を迅速に進めることになったのが「希望のかけ橋」で、全長3キロにもおよぶベルトコンベアが毎日ダンプ4000台分(2万立方メートル)の土砂を造成地区に運び、大半が高さ10メートル以上、最高は14メートルという盛土を積み上げた。

 この膨大な量の土砂を提供した愛宕山は、海抜130メートルあったものが、一気に50メートルまで削られたそうな。
 まことにダイナミックな復興の槌音ではあるけれど、日頃、大都会のセセコマシイ空間に慣れた身には、これだけの大規模空間が、どう、ナニによって埋め尽されることになるのか想像もおよばず、でるのはただ溜息ばかり。

 ここで、後日談をしておけば…。

 この陸前高田の「希望のかけ橋」工事は、9月15日をもって終了した。
 ダンプ運搬だったら10年はかかっただろう、といわれる工事を、わずか1年半である。
 なんとも、たまげた。

 しかし、いっぽうで…。

 これほどの一大盛土造成が、はたしてホントに町の復興につながるのか、あやぶむ声もある。
 総事業費およそ1100億円は、地権者2200人の1世帯あたり、単純計算で5000万円にものぼる、ともいうし、盛土そのものの耐久性をあやぶむ声も根づよい。
 せっかく用意された土地に、どれだけの人、どれだけの店舗が戻るのかも未知数ではある。

 ぼくは、いま。
 あのとき、第一中学校校庭の仮設住宅で聞いた話を思いだす。
「災害公営住宅に移る人たちもでてきたけれど…さて、どうなんだかねぇ、朝の挨拶だけしたらハイおしまい…じゃ、やりきれないもの、あたしは仮設に居た方が話し相手があるからいいと思うよぉ」
 一人のお婆ちゃんが笑うと、べつのお婆ちゃんがたしなめていた。
「そんなこといってぇ、ここにずっと居坐られちゃ、子どもたちが運動できなくて気のどくだょ」
「なにしろ、どれくらいになるんだかさ、とにかく金もかかることだからねぇ…」
 というのが、仮設井戸端会議の正直な声であった…。