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どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「原爆まぐろ」の第五福竜丸展示館/        〝戦後〟と〝核〟の漂流を見つめる

《11.3.11》・原発・エネルギー・災害・防災 生活・食べる・飲む周辺

-No.0692-
★2015年08月14日(金曜日)
★《3.11》フクシマから → 1618日
    (高倉健没から →  277日
★オリンピック東京まで → 1806日

 8月11日、九州電力川内原発が再稼働された。
 採算にあわなくても、やめられない、困らない措置がとられる、というのは、よほどのこと、とんでもない極秘の政策が背後に潜んでいることは、マチガイなさそうだ。
 いまは、保守でも革新でもいい、リベラルでもそうでなくてもかまわないから、政権を替えたい、この国の将来について腰を据えて話しあえるリーダーとともに歩みたい。
 「戦争はしない、させない」覚悟のリーダーと、ともにありたい。







◆夢の島マリーナの岸辺

 戦後を歩みはじめて、まだ間もない1954(昭和29)年に、日本のマグロ漁船が「ビキニの死の灰」を浴びた。
 精度不測の計器のせいか人為ミスかは知らない、けれどもそれは、進入禁止危険海域の設定が間違っていたことでおきた。
 (この水爆実験を彼らアメリカ軍ではなんと呼んだか…ブラボ-実験だ、そのいかにもヤンキーっぽく稚気にみちた命名ぶりが、《11.3.11》支援のときには…おともだち作戦であった)

 第五福竜丸という船の名と、水爆実験のオドロオドロの禍々しさと、犠牲になった久保山愛吉さんたちのことが、あの頃の日本を揺るがした。
 
 そのとき、ぼくはまだ8歳。
 でも、ラジオのニュースで聞いた「ビキニの死の灰」の驚怖は、それからずっと、頭にこびりついて離れない。
 だって、広島の〝原爆ピカドン〟が(ついこの間のことだった…)のに、もう、それが非常なことでも、非人道的なことでもなくなっていた。

 日ごろ、ついつい行動がいきすぎてしまう悪戯っ子は、「他人の身になって考えなさい」と叱られていたのだ。

 しかも…。
 第五福竜丸が〝マグロの焼津港〟に帰ってから半年後に、久保山さんが急性放射能症で亡くなてしまうと、それこそ潮が引くように、報道からも人々の記憶からもどんどん遠ざかっていった。

 それから、また10年以上を経て1976(昭和51)年、第五福竜丸の展示館ができたことを知った。
 そのときのボクは、まとまりのつかない了見を抑えることもままならない、悩める青春のまっただなかにあったから、〝将来注意報〟として意識の整理棚にインプットされただけだった。
 (それ以上どうしようもなかろう…)気がしていた。
 正直、しばらく遠ざけておきたくもあった。

 その暫く…が、瞬く間に時をかさねて今年。
 《戦後70》巡礼を心にきめたとき、不意に、積年の泥をはらって水底からポッカリ浮き上がってきた。
 そうして沖縄・長崎・広島の地を訪れ終えてのち、けじめの巡礼地に「第五福竜丸」がのこされていた。

 第五福竜丸展示館は、江東区新木場、内外の豪勢なヨットが係留されている夢の島マリーナの岸辺にある。
 総合運動公園にもなっている一帯には、夏の陽ざかりのもと、散策やサイクリングの人影がよぎり、なにかの小ぢんまりした撮影グループがあり、木陰からはバーベキューパーティーを愉しむ人声もしていた。

 ぼくは、第五福竜丸事件、当時の世相を子ども心に痛く知るものだけれど、詳しい事情まで熟知していたわけだはなく、簡潔な展示内容はその理解を助けてくれた。





◆ほかにも被爆マグロ漁船があった

 「でかい、よくできた船だ」
 ぼくの印象にのこる第五福竜丸は、岸壁から洋上の姿を眺めたくらいに、もう少し小さかった。
 全長29メートル弱、140余トン、マストの高さが15メートル。
 木造船である。

 いまから思うと、(よくこれで遥か太平洋の遠洋に出て行った)ものだが、ぼくらが少年期、海水浴場に近い港で見かけた「でかい漁船」はたいがい木造だった。
 青春期になる頃にはそれが、どんどん強化プラスチック製のスマートな船にかわっていったわけだけれど、船大工たちの精魂こもった木造船にはどっしりとした貫録が滲んで、頼り甲斐もあったことを思いだす。
 船首の方の船底近くに、鉄製の楕円格子のカバーのようなものが珍しく見え、係りの方に尋ねると「そこはトイレ」の排水口ということだった。

 ともあれ…。
 戦後まもなく、当初はカツオ漁船として建造された第五福竜丸は、その後マグロ漁船に改造されている。
 いずれにしても、はじめから遠い大海原を目指した船だった。
 その年(昭和22年)もこの船は、南シナ海からオーストラリア近海あたりまでを含む南太平洋のマグロ漁場へ、何度かの航海をしたのちに、マーシャル諸島ビキニ環礁海域に船をまわして、不運にもアメリカの水爆実験に遭遇、「死の灰」を浴びて帰港し、水揚げされた放射能マグロはすべて廃棄処分された。

 しかも、じつは当時、この付近の海域に出漁していた遠洋漁船はその他にも数多く、後日集計されたところではその船数856隻、廃棄漁獲量は500トン近くにのぼっていた。
 当時の俗言に、「魚屋殺すにゃ3日はいらぬ、ビキニの灰降りゃお陀仏だ」というのがあったそうだが、ボクは知らない。
 その頃のわが家は、いずこの庶民も同じかつかつの暮らしで、円い折り畳みの卓袱台の上でマグロなんぞにお目にかかったことなんか、ついぞなかった…。
 




◆海洋放射能調査のきっかけ

 「死の灰」を浴びて帰った第五福竜丸のその後は、除染・改造され、東京水産大学練習船はやぶさ丸」としての道を歩んでから、1967(昭和42)年に廃船。
 縁起をかつぎたがる海の男たちだけれど、この木造船のもつ底光りの魅力が船の寿命を助長したわけだが、最後は切なくも、往時のゴミ埋立地〝夢の島〟に捨てられていたとか。ざんねんがらボクは、その辺の事情を知らないでいた。
 庭に展示された第五福竜丸のエンジンは、いまは錆びた金属のオブジェに往時の鼓動が蘇る想いがする。

 じつは、この第五福竜丸の被爆事件をきっかけに行われたビキニ海域での海洋調査が、わが国の海洋放射能調査の始まりだという。
 その後は、さまざまな紆余曲折があり核軍縮のうごきもあって、調査費は徐々に削減縮小されながらも、現在に引き継がれてきた。
 〝フクシマ原発事故とその後の海の状況報告は『水圏の放射能汚染-福島の水産業復興をめざして-』(黒倉寿編、恒星社厚生閣刊、2015年2月)に詳しい。

 こうした歴史的な事象をとおして、ボクなどあらためて実感させられるのは、海という地球環境の、まことに大きな包容力であり、放射能汚染という破滅的なものまでも呑みこんでしまう懐の深さ、豊かさである。
 しかし、また、そうした人間の甘えと狡さが〝母なる海〟を蝕みつづけ、ついにはその母胎の朽ち果てる日が遠くないことを知らなければならない。

 外に出て展示館の建屋を見上げると、それはまさしく〝船小屋〟。浜の小舟を覆う苫屋〔とまや〕であった。
 
 船小屋展示館は、無料である。
 夏休み中の中学生グループが訪れ、高齢の見学者があり、ほかに教職か研究関係かと思しき人の姿もあったが、なにしろ静閑であった。
 ぼくは、第五福竜丸の漂流を夢見る。
 沈まずに漂流しつづけること、それこそが、いまこの船にふさわしい任務なのではないのだろうか…。