どこゆきカウントダウンー2020ー

2020年7月24日、東京オリンピック開会のファンファーレが鳴りわたるとき…には、《3.11》震災大津波からの復興を讃える高らかな大合唱が付いていてほしい。

「きつく叱り」おかれたボクの、復活の補聴器/  皆さんヨロシク”はっきりしゃべくり”のお付き合いを

-No.0639-
★2015年06月22日(月曜日)
★《3.11》フクシマから → 1565日
    (高倉健没から →  224日
★オリンピック東京まで → 1859日




◆”難聴”にまつわる無自覚と無理解

 2つめの補聴器を失くして、ボクが自身を「怒阿呆!」と叱責して恥じたことは、昨年12月に述べた。
 2つあわせて30万もの授業料は、それにしても高くついた。
 2か月ばかり猛省と謹慎の日々をすごして、”難聴”と正面から向きあってすごした。

 ぼくは、みずからの耳が聞こえにくくなっていることを知りながら、なおそれを受け容れきれなかった。
 人の語り口や発声、音声伝達の在り方などに、責任の一半を押し付けようとした。
 (実際、そんな心理状態にある難聴者が少なくないらしい、わが日本では本人ばかりでなく社会的にも、まだまだ理解がたりないという)

 それは益のないことを、ようやく悟って、難聴について本を読み、勉強した。
 これまでは聞いても聞き流していたことが、整理されて頭に受け容れられてきた。

 結果、あらためて補聴器と、もういちど付き合いなおしてみよう、気になった。
 (もう失くさない)自信はなかったけれど、少なくとも意識はかわっていたから、(元の木阿弥ではない)自信はもてた。

 かかりつけの、補聴器外来の担当医に、それを告げて、補聴器人生を再スタートさせた。
 もういちど、あらためて聴覚のこまかいチェックからやりなおし、ぼくの”難聴”は少し進行して”中度”になっていることが知れた。
 前は、片耳の右からはじめて、後から両耳に装着したのが、厄介のはじまりだったので、こんどは同じ轍を踏むまい、と。

 初めから両耳に補聴器のテストをしてみたのだが、どうも、しっくりしない。
 ぼくは補聴器のない間、懸命に耳を澄ます訓練をかさねていたので、聴力検査の数値とは別に、音の聞き分けは良くなったところもあるようだったのだ。

 もうひとつには、ぼくはきわめて能動的なタイプ、つまり動きが早いぶん注意深さがたりないから、衣服の着脱などで補聴器を失くす確率は、なお高い(本人いがいの人には判りにくいだろうけれど…)。
 したがって、補聴器が1つより2つになるだけ、聞こえは良くなるかも知れないが、失くす心配のプレッシャーも倍加するのだ。

 そこで、熟慮の末に、やはり片耳に決め、対面会話のための補助マイクをあわせ持つことにした。
 ぼくにとっては、取材の聞き取りが命だから。
 そうして補聴器のタイプは、一般の方々とは違ってゴツイくらいのもの。
 つまり、ほかの方には好都合の〈装着感のないこと〉が、ぼくには鬼門で、〈たしかに装着してる〉くらいで丁度いい。

 そうして…。

 新しい補聴器の調整ができるのを待っていた、ある日。
「あったわよ…こんなところに」
 かみさんが叫んで、つまんで見せたのは、失くしたとばかり思っていた補聴器のひとつ。
 それも、試してこんどもキャンセルした左耳のほうのやつが、出てきてくれちゃった。
 ぼくがいつも、普段着を掛けておくハンガーの下に、束ねてあった紙袋の間にスッポリ落ちて挟まっていた。

 ……………

 家に帰って、着替えをしてから補聴器がないことに気がついたボクは、外出先で落としてきたとばっかり…。
 ぼくは、そういう粗忽者であった、おっちょこちょいであった。
 そのほか、このさい、なんと言われようと、どんな悪態をつかれようとカマわない。
 よくぞ出てきてくれた、補聴器さまさま。

 こうして、いま手許に揃ったボクの中度”難聴”用、補聴器アイテムが写真のとおり。
 出てきた左耳用の補聴器にも、補助拡声装置がついていたのを、たまたま捨てずにあったのが幸いした。
 それで、こんなに持ち物がふえてしまった。
 
 つい50代の頃までは、手持ち荷物の少ない旅の達人だったボクが、だ。
 いまは、メガネあり、補聴器あり、入れ歯あり、常用の心臓薬あり…。

 どうやって、なるべく目だたず、そして失くさない手だてがとれるか、が(アァ!)これからの課題なのだった
 
*写真は、いま現在ボクが手持ちの補聴器、(左)が失くして見つかった左用、(右)がこのたび新調の右用デス*